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ファー・フロム・パリ、テキサスあるいは山向こうの街

 目黒シネマだったと思う。

 知人とヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』を観に行った。

ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』

 劇場を出るまではお互い無言だったが、俺には無言であることが開く意味の無際限な拡大に耐えられるだけの思慮がないので、単刀直入に「どうだった?」と尋ねてみた。

「まあ、よかったよ」

 知人はそこへいくつか気の利いた褒辞をぶら下げたが、文頭の「まあ」が後続のあらゆる肯定的なニュアンスを打ち消していた。

 正直意外だった。たぶんものすごく気に入ってもらえるだろうと思っていた。主人公が息子と道路を挟んだ歩道を歩くシーンとか、マジックミラー越しのやりとりとか、バカほど赤い夕暮れの端っことか、なんかもう、文脈とか歴史とかショットとか何とかをわざわざ衒う気にもなれず「泣いた」とだけツイートしたような覚えがある。てか、え、だって、メッチャよくないすか?普通に。

『パリ、テキサス』で一番好きなシーン

 俺が釈然としない表情のままなのを察してか、知人はこう補足した。

「うちはまあ、両親いるから」

 俺はしばらく黙ったあとで、なるほど、まあ、確かに、と駅に着くまで何度も心の中で呟いた。それは物理的事実を精神的事実に置き換えるために必要不可欠な作業だった。

 知人には両親がいる。だからトラヴィスとジェーンとハンターが織り成す歪な家族模様にいまいち乗り切れなかったということだろうか?確かに、一般的な家庭の一般的な社会通念に照らし合わせてみれば、トラヴィスの一連の行動は「身勝手」の一言に尽きる。なるほど、まあ、確かに。

母親であるジェーン探しの旅に出るトラヴィスとハンター

 たった数年前の出来事だというのに着ていた洋服と季節が思い出せない。

 俺の家には父親がいない。

 そこに特に感傷的な物語はない。エンタメとして居直れるだけの滑稽さもない。平凡な家庭の平凡な破綻があっただけだ。

 辛かったでしょう、可哀想に、と誰かから言われるたびに「商店街のくじ引きに外れた奴らにも同じことを言うのか?」と思う。

 結局は運だ。

 あなたの左頬にホクロがあるように、俺の家庭には父親がいない。

 この前すごい子と出くわした。父親がおらず弟が知的障害者で母親に脇腹を刺されたことがあるという。思わず笑ってしまった。そんなラーメン二郎全マシみたいな生い立ちがあってたまるかよと思った。

 その子と中島哲也の『嫌われ松子の一生』の話をしていたのだが、彼女は本作をある種の憧憬の対象として捉えているようだった。確かに、俺にもそういう部分が少なからずあるような気がする。

 幸不幸がコイントスによって定められるのなら、松子のように裏が出続ける人生も存在する。裏、裏、裏の蓄積が瘴気のように放つドギツい滑稽さと、俺は純粋に戯れ続けることができるのだろうか?松子のように。

 その子は「自分が死ねば世界のバランスが取れる気がした時期があった」と言っていた。だからこそ最後まで「世界を救うための死」を一切実践しなかった松子はマジでカッコいいんだよな、という話。

落ちぶれ、老いぼれ、それでいて高潔なる松子

 松子は生涯をかけて自分が安住することのできる愛を求め続けた。それは家族を求めていた、と換言することもできるかもしれない。その必死さが俺は羨ましい。

 ぶっ壊れちゃってるものは今更どうしようもないから、ぶっ壊れちゃったなりの下位互換的な生き方をやっていくしかないというのが俺の生き方の指針だ。

「でも、なんか、瑣末なところで取り戻そうとしちゃいませんか?」とその子は言った。

 その子はスナックに勤めている。オーナーのことを合法的に「ママ」と呼ぶことができるのが嬉しいからだという。「自分の母親をそう呼んだことってないので」。

 例外も多々あるだろうし、あまりいい言い方ではないとは思うが、両親のことを「ママ」「パパ」と呼ぶ家庭はやはりちゃんとしている思う。

 そういう家庭ではおそらく構成員の一人一人に「父親役」「母親役」「息子役」「娘役」「犬役」といった具合に役割が具体的に決まっていて、だからこそ「パパ」とか「ママ」とかいったハッキリした名詞で互いを呼び合うことができるのではないか。

 俺は自分の母親のことをいまだにどう呼べばわからない。LINEでも電話でも「ねえ」とか「おい」とかいった間投詞で曖昧に誤魔化している。

 先述の通り俺の家庭には父親がおらず、母親は母親であって母親でなかった。母親であると同時に母親以外のすべてでもあった。ゆえに俺も自分がこの家族の中でどういう存在なのかよくわからなかった。俺は周囲の云々に関係なく俺なのだ、と思うことにした。俺は一人でも生きていける、と思うことにした。

 大学の神学系の授業で神父の教授が「父親がいない子供というのはやはり精神的にどこか欠けてるんですよね(大意)」的なことを言っていてぶっ飛ばすぞハゲと憤っていたが、今思えば確かにその通りだったのかもしれない。

 俺は一人では何もできない。友人たちと映画を撮ってみて、改めてその実感は強まりつつある。

 あ、そういえば俺もよく行く喫茶店のバアさんを「ママ」と呼んでいる。取り戻そうとしているのかもしれない。

 ママ、のやけに心地いい響き。

 もっと身勝手に、他人に頼りながら生きていきたい。

 俺は今何の話をしているんだ?

 高校以来の友達と『アフターサン』を観に行った。恵比寿ガーデンシネマの中にある小さな映画館だった。あんな洒落臭い場所に映画館があるのかと思ったら無性に腹が立ってきて、俺たちは北区・荒川区の自宅からわざわざ自転車で向かった。

シャーロット・ウェルズ『アフターサン』

 作品を観終わった頃にはすっかり日が落ちかけていた。

 友達は「いや〜」と感慨深そうに溜息をついた。まさしく感嘆というやつだった。それから思い直したように首をゆっくり捻った。

「でも、たぶん、俺らが片親だからだと思うんだよな」

 彼にも父親がいない。ちなみにもう一人仲の良い高校の同期がいて、そいつも片親だった。片親は引かれ合う。

 『アフターサン』の物語は、離婚して家を出て行った父親のカラムと娘のソフィがトルコの鄙びたリゾート地へ旅行に出かけるというものだ。父親と娘の距離感というか温度感というか、そのあたりが本当に上手く作り込まれていた。

 肉親と知人のあわい。白昼夢のような空の色。残された時間は指の隙間からこぼれ落ちていく。決して忘れまいという決意と、いつか忘れるという諦観、の入り混じったぬるいプール。異国語の歓声。背中。すべてはもう過ぎ去っているということ。

浜辺で有限の時間を共有するカラムとソフィ

 離婚、とか別離、とか言うとなんだかカタストロフィーっぽい感じがするが、実際には地味でグラデーション的だ。まるでデニムの色が落ちるように、我々の家庭は崩壊していった。

 崩壊、というのもおそらく言い過ぎで、俺たちはそこまで一大事に思っていない。クッキーの型抜きに失敗したとか、ポップコーンを床にぶちまけたとか、まあ、せいぜいその程度の。

 でもやはり、片親家庭に育った奴だけが共有しているエモーションみたいなものがこの世界には確かに存在しているように思う。戻れない、仕方ない、といったほとんど不可逆的な述語に覆われた世界。それは可逆性をほんの少しだけ残しているという点においてある意味では死別よりもタチが悪い。

 はっきり言って俺はそんな感傷主義の権化みたいな領域は認めたくないのだけど、映画でふと自分と同じような欠落を抱えた家族が登場すると、つい批評眼が曇ってしまう。

 『アフターサン』が本当に素晴らしい作品だったのか、俺には、俺たちには判断がつかない。俺たちはやっぱり、カラムとソフィの間に流れていた不透明な空気の中に自らの過去を錯視してしまう。

 離婚直前、俺はよく父親の車で山向こうの街へと連れ出された。父親、母親、俺、妹。なぜわざわざ山向こうまで出かける必要があったのかはわからない。父と母はしばらく黙っているのだが、ほどなく口論になり、車の中で互いを罵倒し合った。その間俺はずっと窓の外を見ていた。妹も同様だった。山向こうへは幾度となく訪れているはずなのに、記憶の中の街にはいつでも雨が降っている。

ビビッドとローファイが入り混じるトルコの辺境はまるで記憶の中の世界のよう

 最後に父と喋ったのは俺が大学に合格したときだった。父は別れ際に「今度ロレックスでも買ってやる」と言った。

 今度、をうっすらと期待しているうちに既に7年の時が過ぎた。

 別に音信不通になったわけじゃない。iPhoneの電話帳を辿って発信ボタンを押せば済む話だ。でもなぜかそうする気になれない。そうすべき瞬間があったとして、それは既に過ぎ去ってしまっているような気がする。

 『アフターサン』のラストシーン、カラムはビデオカメラを切り、寂しげに踵を返し、廊下の奥のドアの方へ向かっていく。ドアの中はクラブになっていて、激しい音楽が鳴り響いている。カラムが中へ消える。ドアが閉まる。音が遠のく。

 俺は既視感を覚えた。

 父親の真っ白なクラウンのドアが閉まる。倖田來未のけばけばしい音楽はドウンドウンという匿名のリズムに変化する。サングラスをかけた父親が俺と妹に小さく手を振った。

 俺は何か言いかけようとして、結局諦めた。「ねえ」でも「おい」でもない、彼のことを本当に呼び止めるための言葉を俺は持っていなかった。

 タイヤが砂利をメリメリと噛み潰す音。車体が動き出す。

 クラウンは畦道の間を縫うようにゆっくりと蛇行し、やがて丘の向こうへと消えていった。

 それは既に過ぎ去ってしまったのだ。

『アフターサン』韓国版ポスター

 文章:「第8電影」支配人・岡本因果


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