見出し画像

闘病の辛い時期を忘れてはいけない、今、生きていることを、実感して生きていきたい、生きるってそういうことだからだ

今、私は生きている。
当たり前なんだよな、いつの間にか。
いや、ちゃんとわかっているよ、当たり前なんかじゃないってこと。
だけどね、当たり前なんかじゃないってことを、考える時間が減ってきたような気がしているんだ。

私は、かつて、ちょっと動くだけでも、酸素飽和度が80台に下がる、(膠原病の皮膚筋炎の合併症による)間質性肺炎で苦しんでいた。
しかし、医師の誤診により、当時は間質性肺炎と気付いてもらえず、喘息として治療をされていた。

呼吸ができない、これほど怖いことはない。
色々な病気があるから、これほど怖いことはない、という言葉は語弊だろう。
だがしかし、息ができなくなる恐怖は、あの当時の私には半端なかった。

良くて酸素飽和度の数値は90台前半だった、あの頃の私。
コロナのせいで、マスク絶対の時期に、私はマスクをして外を歩くなんてことはできなかった。
当時、売っていたマスクでは私は呼吸ができず、うずくまった。
あの当時を思い出すと、泣けてくる、苦しかった、本当に苦しかったよ。

私は、マスクの中に入れる、プラスチックのフレームのような物を購入した。
それを使うことで、かろうじて呼吸できる空間を確保していたのだ。
しかし、長時間使うと、どうしても蒸れてくる、その蒸れにより、息苦しさが再び出てくる。
結局、フレームを使っても、長くは私の体は耐えてくれなかった。

どうしちゃったんだよ?私の体は。
涙が止まらなくなる時もあった。
やむを得ず、外出をして、駅に行った時、私はうっかり階段を使ってしまった。
バカだよね、一瞬、自分が病気であることを忘れてしまったのだ。
通勤時代の癖で、人の流れにそのまま乗ってしまったのだ。
階段の真ん中辺りで、息苦しさは始まった。

まだ半分もある。
私はホームまで辿り着けるのか?
そう思いながら、必死で呼吸を整えながら、流れに乗り続けた。
ホームに辿り着いたが、ホッとはできなかった。

人が。。。溢れている!!
狭いホームの為、通勤ラッシュもあり、人が溢れかえっていて、明らかに酸素が少なくなっている。
私は生きた心地がしなかった。
下を向き、マスクを浮かせて、人目を気にしながら、必死で少ない酸素を体に取り込んだ。

そして電車に乗る。
乗ったら、今度は満員状態だ。
電車に乗っても、私は酸素を確保することしか、頭になかった。
酸欠で死ぬのではないかと思った。
さっさと降りるとかすればいいのに、その頃の私はまだ自分を喘息と思っていた。
しかも喘息と確定されたわけじゃなく、ひとまず喘息薬で治療しましょうと言われている状態だった。

自分の体の深刻さに気付けていなかったのだ。
今思うと、恐ろしいことだ。
私は、自殺行為に近いことをしていたのだ。

電車を降りた時、やはり酸欠状態に近かった。
頭がぼーっとして、呼吸も浅い。
これはまずい、しばらく休んだ。
人が減り、酸素を吸える環境が戻ってきたところで、再び移動を開始した。

人混みの中で、呼吸ができなくなった時、私はまるで、海でおぼれかかっているような気持ちになった。
このまま海底に沈み、空を見ることなく、私は死ぬのか?
そんな恐怖が私を襲った。

人は、どうして災難が降りかからないと、自分の置かれていた状況が恵まれていたことに気付けないのだろうね。
悲しいかな、それが人間のサガなのかもしれないね。



なんでこんな記事を書いたかっていうと、noteを始めて6ヶ月目の今、闘病している方や、介護をしている方とのご縁が増えてきたことが理由として大きい。
今、私の体はコロナ後遺症はあれど、持病の方は比較的落ち着いている。
もちろん、急変(再発)やがんなどの合併症を起こす可能性が非常に高い病気なので、安心はできないが、今日一日をなんとか無事に過ごすことができている。

現状に感謝はしているが、私は海でおぼれかかったような、あの時の恐怖を忘れてしまっているのではないかと思ったのだ。
今、まさに病気と闘い、介護と向き合い、壮絶な日々を送っている方達の記事を読ませて頂いて、身が引き締まる思いなのだ。

闘病を思い出して、あの時は辛かったね、辛かったね、ということを言いたいわけじゃない。
闘病時期こそが、もしかすると、私(の場合)は、生きていたのではないかと思うのだ。

海底に沈みたくない、空を、あの青い空を、私は必ず見るのだ。
そう思っていたあの日々を、息ができない苦しさで涙していたあの日々を、私は決して忘れてはならないのだ。
そんな風に改めて思った、その思いを書き記しておかなければ、と思い立ったのが、今日の記事を書いた理由なのだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?