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御伽草子 第一回「桃太郎」 《休止》


第一章 ドンブラコ

奥多摩の川のせせらぎ

 ーー平安時代……。
 武蔵国の奥多摩、雲取山の麓の集落。そこから徒歩で半刻ほど行くと、その小屋に辿り着く。
 住人は、熊一とヨネの老夫婦であった。
 二人には子が無かった。だからと言うわけではないが、何となく童の声のする集落に居づらくなって、この人里離れた場所に移り住んできた。それから二十年ほど経つ。

 初春、快晴……。
 雪解け水が、川のせせらぎを賑わしている、清々しい朝。
 老夫婦は、朝餉を終えると、それぞれ土間で支度を始めた。
 ヨネは、着物類が詰められた籠に洗濯板を差し込み、それを担いだ。
「あんた、今日はどうするんだい?」
「そうだな、鹿撃ちをして、適当に山菜でも採ってから、柴刈りして戻るわ」
「そう、熊に気をつけるんだよ」
「おうよ」
 毎日、同じ会話であった。
 くる日もくる日も同じことを繰り返した数十年……。二人にとって、沈黙を、或いは、何かを埋める、そんな会話であった。
 鹿や猪は毎日獲れるわけではない。月に一頭、仕留めることができれば御の字であった。だが、一頭あれば、なかなかいい凌ぎになった。夫婦で口にする分以外は、干し肉や燻製にして保存し、集落に行くことがあれば、それらを持っていって穀物や味噌などと交換した。もちろん、決められた量の穀物や獣皮を、税として里長に納めることも忘れない。
 また、季節になれば、川に仕掛けを施し、鮎、ヤマメ、鰻などを獲った。
 畑を耕し、根菜類、瓜類などを栽培し、梨、柿、栗などの果樹の世話をして暮らしてきた。
 日の出とともに起きて、日没になると眠る。季節の移ろいを歓び、のんびり時が流れる……。
 そんな生活であった。
 あんな物が川上から流れて来るまでは……。

 熊一は、山深いけもの道を慎重に歩いていた。
 特にこの時期は、冬眠から目覚めた熊が餌を求めて彷徨っている。警戒を怠ると、即、命取りになる。
 とはいえ、彼にとっては勝手知ったる道である。気配を消して、物音立てずに歩くなど朝飯前であった。
 山の中腹に差し掛かった時、ふと目線を下げた。
 ーーしめたっ!
 眼下に細いけもの道がある。その道の脇は崖というほどではないが土手が麓の方向へ続いている。
 オス鹿が道端の木にツノを擦り付けていた。どうやらツノ研ぎに夢中で、熊一にはまったく気がついていない。さらに、弓を撃ち込むにはちょうど良い距離……。
 また、その獲物は、手頃な大きさであった。あれよりも大きければ、場所にもよるが、狙わない。せっかく仕留めても重すぎて持ち帰ることができないからだ。無駄な殺生はしたく無い……。
 熊一は、背負ってきた弓に矢をつがえると引き絞った。
 ギリッ、ギリッ……。
 いっぱいに引き絞る。
 ふと、ほんの一瞬のことであるが、脳裏にある思いが掠めた。
 自分はいつまで狩りができるのであろうか。夫婦とも五十を超えた。この時代、五十代といえばまもなくお迎えが来る、つまり寿命であった。年々、体力は衰え、やがてこの肉体は、山に還る。
 できることなら妻を見送ってやりたい。問題は、自分の方が先にお迎えが来た時だ。
 遺された妻はどうする。
 集落から離れて、親戚もすっかり縁遠くなった。集落に降りた時は、出来るだけ親戚筋に顔を出し、他の家よりも多めに干し肉などを分けた。その意図は察してくれているはずである。だが、親戚筋も子供の世代になっており、子育てに忙しく、多分、山奥の婆さまの面倒どころではないだろう。
 熊一は、雑念を振り払うかのように首を振ると、矢を放った。
 ヒュッ……。
 矢は見事に鹿の首元を捉えた。鹿は驚いて仰け反ると、道から足を踏み外した。
 ごろん、ごろん、ばちんっ!
 土手をもんどり打って転げ落ちた鹿は、途中、大木にしたたかに頭を打ちつけ、失神してしまった。

 *    *    *

 五百年前、飛鳥時代ーー。
 大和の国は、大地震に見舞われました。
 建物の下敷きになって両親を亡くした、双子の兄弟、藍(あい)と朱(しゆ)は、里長に引き取られて暮らしていました。
「こら、シユ! 何度言ったら分かるんだ!」
 米とぎがままならない弟のシユは、毎日のように里長に叱られていました。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 兄のアイは、弟に代わって何度も謝りました。
 そんな時、隣の家のセツという女の子が、二人に言いました。
「里長は、欲深いの。あちらこちらの家から、税だっ、て言って、いろいろ持っていくのよ。でもね。怒ってはダメなの。これは仕方ないことなのだから……」
 セツは、瞳がくりっとして、ぷっくりとした唇の愛らしい女の子でした。
 でも、アイは、合点が行きませんでした。
 自然と額に青筋が立ちました……。

 *  *  *

 ヨネは、川に着くと籠をおろし、川辺のいつもの場所に置いてある桶に水を汲み、同じく置きっぱなしの荷車にそれを乗せた。
 山奥である。
 訪ねてくる者などいない。農作業の道具など畑の近くに置いておけば良い。物取りに遭うこともないのだ。
 ヨネは大きめの桶に水を汲むと、今度はそこに着物類を浸して、そのままにした。
 そして荷車を引く。川辺から目と鼻の先の畑にやって来た。洗濯の先に農作業を済ませるためだ。
 作物に水をやる。
 大根、蕪、あしたば、マクワウリ……。
 ヨネは、根菜類は漬物に、あしたばはお浸しに、などと献立を思い浮かべながら必要なものを収穫すると、それを荷車に乗せた。
 いつもと変わらない、朝の農作業……。
 川辺の洗濯場に戻ったヨネは、桶の前にしゃがみ込み、水によく浸った着物類を洗濯板に載せて、ゆっくり、じっくり擦り始めた。
 じやっ、じやっ、じやっ……。
 旦那の褌を擦り上げる。五年ほど使っているだろうか。黄ばみが取れない。そろそろ新調したほうが良いのだが……。
 新調……。
 あと、自分も旦那もどれぐらい生きるのだろう。出来れば先に旅立ちたい。愛する人に見送って欲しいのだ。
 でも逆になったら……。
 物思いに耽る。
 やがて、半刻ほどで洗濯はあらかた終わった。
 いつもと変わらない、朝の家事……。
 ーーその時であった。
「……?!」
 ーードン……、ドンブラ……、ドンブラコ……。
 何?!
 誰?!
 人が来るはずのない山奥……。
 聞いたことのない言葉……。
 ヨネの体がこわばった。


第二章 桃太郎

奥多摩の紅葉

 陽が真上に来ていた。
 夫婦は、十数年ぶりにまぐわっている。
 自分たちに子供ができた。
 しかも思いがけない出来事によって……。
 だからというわけではないが、昂りを抑えきれない二人は、営みをはじめてしまった。傍には着物に包まれた赤子が、気持ちよさそうに眠りに落ちている。
 熊一は、早撃ちで集落では有名であった。
 早撃ち……。
 あっさりと絶頂に達してしまうのだ。その代わりかどうかは定かではないが、回数をこなすことができた。
 集落の者たちは、それを指して、彼を「早撃ちの熊」と呼んだ。
 その早撃ちは、半刻もかからず、そして、年甲斐もなく、三回ほど気をやって果てた。

 この日の朝、早々に鹿を獲った熊一は、柴刈もそこそこに、山を下りた。
 獲物を担いで小屋に帰ると、ヨネはまだ戻っていなかった。
 流石に疲れた。
 そう大きな鹿ではない。
 今度は、もう少し小ぶりの獲物を狙おう。侘しさが胸に去来する。
 熊一は、小屋の傍にある獣解体用の櫓に、鹿を逆さまに吊るすと、早速、解体を始めた。
 皮を綺麗に剥ぎ取り、腹を割いて内臓を取り出す。内臓を丁寧に筵に並べる。
 もも肉、胸肉などを手際よく切り分けてゆく。
 あらかた作業を終えたころ、遠くから、叫ぶ声があった。
「あんたっ……!」
 つらそうに荷車を引いている、ヨネであった。

 土間に安置されている、アレ……。
 どこからどう見ても、アレ、なのだが、にわかには肯定し難い。
 何せこの大きさである。
 また、その佇まいは、なにやら貫禄さえ漂う。
 はて、どうしたものか……。
 ヨネは、疲れ切った様子で、一部始終を語り出した。

 幻聴だろうか。
 だが、確かに聞こえるのだ。疲れているのだろうか?
 ーードン……、ドンブラ……、ドンブラコ……。
 ドンブラコ?
 聞いたことのない言葉であった。
 ヨネは恐る恐る辺りを見渡す。人の気配は無い。だが、
 ーードンブラコ、ドンブラコ……。
 どんどんその「音」は大きくなる。
 ヨネは気味が悪くなって耳を塞いだ。
 しかし、はっきりと聞こえるのだ。いや、正確ではない。ヨネの頭の中で、ドンブラコが繰り返し、繰り返し鳴り響くのだ。
 彼女はここを離れるのが一番と思い、洗濯物を慌てて荷台に載せると、荷車に手を掛けた。
 その時、視界の端に奇妙なものが映り込んだ。怖いもの見たさが手伝ってか、川上に視線を向ける。
 なにやら、大きな桃色の物体が川面に浮かびながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。臼ほどの大きさもあろうか。
 ドンブラコ、ドンブラコ……。
 その物体は、ヨネの頭に響くドンブラコに合わせるように、左右に揺れながら近づいて来る。
 間違いない。
 桃だ。
 それも、とびきり大きな……。

 はて、どうしたものか……。
 二人は板の間からしげしげと桃を見つめた。
 乳房のように丸みを帯びた佇まい。尻の割れ目よろしく、筋が縦にとおっている。
 なにやら甘い香りが、狭い小屋に立ち込めていた。
 間違いない。
 桃だ。
 それも、とびきり大きな……。
 その時であった。
 ぶるん、ぶるん……。
 大桃が小刻みに震え出した。
 驚いた夫婦は、「ひゃっ!」と短く叫ぶと抱き合った。
 暫くすると、ぴたっと大桃は震えを止めた。
 すると、ぱかっと綺麗に真ん中から割れた。
 そこから、ばっと何かが飛び出した。
 赤子であった。

 赤子は、板の間に仁王立ちしていた。くりっとした瞳に太い眉、股間からは立派な一物がぶら下がっている。
 見つめ合う三人。
 すると、赤子はみるみる涙目になり、
「あぎゃ! あぎゃ!」
 と元気よく泣き出すと、その場にしゃがみ込んでしまった。
 ヨネは慌てて着物を取り出すと、丁寧にその赤子を包み込んだ。

「あんた……」
「おまえ……」
 赤子の鳴き声がこんなに心地よいものなのか。以前は、煩わしくさえあったのに……。
 赤子はすでに泣き止んで、すやすやと眠っている。
「この赤子は、俺たちのことを憐れんで、きっと雲取山の神様が授けてくださったに違いない」
 神妙な顔で赤子を見つめる熊一の傍で、ヨネは、何度も頷いて涙を拭った。
「あんた、名前はどうする?」
「そうだな……」
 熊一は、ヨネを見つめた。こんなにいいおなごであったか?
 熊一は喉を鳴らした。
 長年連れ添って、互いに空気のような存在になっていたのかもしれない。そういえば、ここ数年、まともに顔を見ることも無くなってしまっていた。
「そんなことより、おまえ……」
 力強くヨネの肩を抱き寄せると、着物の隙間に手を這わせた。
「嫌ですよ、あんた。赤子が起きます……ひゃんっ!」
「構うものか……!」
 ヨネは、頬を赤らめて、やんわりと熊一の手を払い除けようとするものの、力など入っていない。彼女だって満更でもなかったのだ。
 すやすやと眠る赤子の傍で、夫婦は営みを始めた。

 *  *  *

 アイとシユは、一所懸命に働きました。
 夜明け前に起きて、川へ行き、水を汲んで甕を満たしました。
 夜明け前に起きて、厠の便壺をさらい、畑に蒔きました。
 夜明け前に起きて、縄を編みました。
 夜明け前に起きて……。
 それでも里長は、ずっと兄弟に辛くあたりました。
 ある時は、頬を殴られました。
 ある時は、腹を蹴り上げられました。
 ある時は、何度も鞭で打たれました。
 ……そうこうするうちに、兄弟の胸に、なにやらおぞましい心の渦が芽生えはじめました。

 *  *  *

 さて……。

「名前なぁ」
 黄ばんだ褌を締め直しながら、熊一は天井を見つめた。
 彼は、指先で赤子の着物を捲ると、一物をしげしげと見つめた。
 立派であった。なにより佇まいに貫禄がある。
 熊一は手を打った。
「魔羅太郎はどうだ!」
 土間におりて、水で股間を、びちゃびちゃと洗っているヨネに言った。
「嫌ですよ。あんた」
「じゃあ……、桃太郎か……」
「まぁ、そんなところでしょうね」
 こうして赤子は、桃太郎と名付けられた。

第三章 幼馴染

奥多摩山中の橋

「いけっ! シロ!」
「はいっ!」
 桃太郎は、愛犬のシロに叫んだ。
 シロは、桃太郎が矢で射止めた、這々の体で逃げる鹿の首元に喰らいついた。
 どおっと、鹿が倒れ込む。
「でかした! シロ!」
 今日は、熊一が腰を痛めているため、初めて一人で山にやって来ていた。
 桃太郎、十歳。シロ、二歳。
 山に入って早々の獲物である。
 桃太郎は、悠然と凱旋の途についた。

 小屋が見えて来た。なにやら様子がおかしい。
 ヨネの尋常では無い叫び声がするのだ。
 桃太郎は、担いでいた鹿を放り投げると、勢いよく小屋の引き戸を開けた。
「ばあちゃん! どうした?!」

 素っ裸で横たわる、熊一。
 同じく素っ裸で熊一に跨る、ヨネ。
 目をぱちくりさせる、桃太郎。
 行儀よくお座りする、シロ。

 庭で、ニワトリが忙しなく右往左往している。

「おっ、桃、ど、どうした」
 熊一は、着物を引っ掛けると、慌てて土間に降りて来た。
「じいちゃん、腰は大丈夫なのか?」
 心配そうな声音の桃太郎に、熊一は、言い切った。
「なに、ばあさんに、唐土(もろこし、中国)から伝わったあん摩をしてもらってたのよ。ほうれ、このとおりじゃ!」
 ぶるん、ぶるん……。
 勢いよく腰を回す熊一をよそに、桃太郎は、今度はヨネに声をかける。
「ばあちゃん、あんな叫び声変だよ。どこか具合が悪いんじゃ無いか」
「な、なにいってんのさ、桃。唐土のあん摩の掛け声よ。ちっとも変じゃないよ」
 答えになっていない答えをヨネもまた、言い切った。
「そうなのか……」
 釈然としない桃太郎の肩を熊一は抱いた。
「さては、桃。お前、一人だけの狩りが怖くなって逃げ帰って来たか?」
 桃太郎は年頃の子供より体躯が良いが、まだまだ子供。こんなに早く狩を終えるはずはない。
 そう思った熊一だが、桃太郎の背中越しに見える、丸々と太ったオス鹿に目を剥いた。
「桃、まさかお前……」
「ああ、じいちゃん。一人で仕留めたよ。シロに手伝ってもらったけどな」
 傍のシロの頭を撫でながら桃太郎は胸を張った。
「こりゃ、たまげた! お前は自慢の息子じゃ」
「まぁ、桃、良くやったわね!」
 熊一とヨネは、涙ぐみながら桃太郎の頭を乱暴に撫でた。
 桃太郎は、恥ずかしそうにしながら、シロの頭をまた撫でた。
 そして、熊一は、決まって都合が悪くなると桃太郎に説教を垂れる。
「いいか、桃。人間、嘘をついたらお終いじゃ。最後には鬼になる」
「鬼になるとどうなるんだ」
「人を食う」
「本当か?」
「ああ、極悪じゃろ」
 皆、唐土のあん摩の件はすっかり忘れていた。

 そんなこともあってか、それから程なくして、小屋の隣に桃太郎の離れが建てられた。

「桃、キヨちゃんによろしくね」
 ある日、桃太郎は、ヨネからお使いを頼まれた。
 集落に干し肉を持っていって、穀物と交換してくる、いつものお使いであった。
 ヨネは桃太郎が見えなくなったのを確かめると、
「あんた……」
 と言って、引き戸を閉じ、そこにつっかえ棒をした。

 *  *  *

 辛い日々の中、隣家のセツが流行り病に罹ってしまいました。
 人々は病が広がることを恐れて、村はずれの小屋にセツを移しました。
 村人が交代で小屋に食事を運びました。
 でも皆、きみ悪がって、それもやがてほそぼそとしたものになりました。
 アイとシユは、それを見かねて、里長の倉庫から滋養のありそうな鶏卵や干し肉を掠め取ると、セツの小屋にたびたび運びました。
「いつもありがとう。でも、もうすぐわたしはお星さまになるの。だからお願い、約束して。ふたりには、自分にも人さまにも嘘を吐かずに、わたしの分も正直に生きてね……」
 アイとシユは、涙を浮かべながら、握ったセツの手に力を込めました。
 ほどなくしてセツは、誰にも看取られず、星になりました。

 *  *  *

 キヨは、熊一の親戚筋にあたる。そして、桃太郎と同じ歳であった。
「桃太郎、楽しそうですね」
 シロは大股で歩く桃太郎についていきながら言った。
「べ、別に楽しくねぇし。ただのお使いだよ」
 桃太郎は素直であった。
 二年前、雪の降る日、凍えて死にかけていたところを、桃太郎に助けられたのがシロであった。
 シロは、桃太郎のためであったら、死んでもいいとさえ思っている。あの時、本当であれば死んでいた身なのだ。
 やがて集落に到着した。
 早速、キヨの家に辿り着いた。
「あら、桃じゃない。どうしたの?」
 と後ろから声が掛かった。
 当のキヨであった。
 くりっとした瞳に、ぷりっとした唇。髪は結い上げている。
「お、おう。久しぶり」
「そうだね。いつもの用事かな?」
 赤くなった桃太郎をからかう様に覗き込むキヨ。
 シロは、いつものこの光景を見るのが好きであった。
「み、見てみろよ、この鹿肉。俺が一人で仕留めたんだぜ」
「そうなんだ! すごいね!」
 本当は、シロに手伝って貰ったのだが、男は、見栄を張りたいときがある。シロもなにも言わない。
 キヨは、干し肉を受け取ると米を桃太郎に手渡した。
「強い男の子は、好きだよ……」
 好き……。
 桃太郎は、頭の中が真っ白になった。継ぐべき言葉が、頭をひっくり返しても出てこない。
 シロは、にこにこしながらやり取りを眺めている。
 するとキヨが、
「ちょっと、桃……」
 と桃太郎の股間を指差した。
 はだけた着物、そして褌から、むくむくとご本尊が顔を出している。
「あっ、ご、ごめん!」
 そう叫ぶと、股間を抱えて次の家に駆け出した。

「はぁ、やっちまったなあ……」
 夕方、家路に向かう桃太郎はため息交じりに言った。
 想いを寄せる女の子の前で、元気になったご本尊を見られてしまった。
「大丈夫ですよ、桃太郎。キヨさんは寛大なお方です」
「そうかぁ?」
 と首を捻りながら、秋川にかかる橋を渡っていると、
「おい、桃太郎か?」
 と呼び止められた。
 ここ奥多摩から東へ五里ほどいった五日市の僧侶、柿珍念であった。

第四章 盗人

名月

「どうした? 桃太郎」
「……」
 柿珍念は、桃太郎と離れで布団を並べている。
 この和尚は、この日の夕刻、山中で桃太郎とばったり出会った後、熊一、ヨネのもてなしを受け、ここで一泊することにしていた。
 母屋からヨネのひときわ大きな絶叫が止んで、しばらく経つ。どうやら唐土のあん摩が終わったらしい。
 静かになるのを見計らって、和尚が、元気のない桃太郎を問いただしたのだ。
 桃太郎は、ぽつり、ぽつりとキヨとのやりとりを白状した。
「わっははっ……、いやいや笑い話ではないな。お主にとっては死活問題じゃ。お主の一物は、釈迦如来様のようにやたらと貫禄があるからキヨの奴も驚いたんじゃろ」
 和尚はそう言って、自分の禿頭を、ぴしゃりと叩いた。
 シロが寝返りを打っている。
「なぁ、和尚さん……」
「なんじゃ?」
「坊主は、肉を食わないんじゃないのか?」
 この日の晩、和尚には、猪肉の鍋をご馳走した。
「馬鹿たれが。坊主も所詮は人間。酒も飲めば、女も抱く。年中、坊主は疲れるわ」
「そうなのか……、なぁ、和尚さん。強くなるにはどうしたらいい?」
 少年にとって、その出来事は思うことがあったのであろう。和尚は答えた。
「そうじゃのう、強さとは、弱さの種。弱さとは、強さの種。いや、難しいな」
 和尚は、一拍おいて続けた。
「小難しいことより、どうじゃ、体でも鍛えてみれば」
「鍛える?」
「そう、剣術とか、木樵とか、身体を鍛えることじゃ。清らかな魂は、健全な肉体に宿るからのう」
「剣術……」
「わしの弟に、弁慶という奴がおるんじゃが、荒くれ者での、一向に寺に戻りゃせん。奴が寺に居れば、お前の師匠となって稽古をつけてやれるんじゃが……」
「弁慶……、今どこにいるんだ?」
「すぐそこの雲取の山頂のあたりで、修行と称して剣術の腕を磨いておるわい。もう遅い、寝ようぞ……」
 和尚は、そういうと軽く寝息を立て始めた。
 弁慶……。
 桃太郎は、寝返りを打った。

 翌朝、桃太郎が起きると、すでに和尚は集落に出立していた。
 昼、桃太郎は、シロと共に畑に向かった。最近、マクワウリが盗まれるのだ。そこで、二手に分かれて待ち伏せをすることにした。
 果たして……。
 不届き者は、抜き足、差し足てやって来た。首を振って周りを窺う。そして、畑を囲う縄を潜ってマクワウリに近づく。
 その時、シロが草むらから躍り出て、不届き者の腕に噛み付いた。
「あ痛たたっ! この、犬畜生め!」
 そう言うと、不届き者はシロの懐に拳を叩き込んだ。
 シロは、もんどり打って畑を囲う縄に打ち付けられた。
 もうマクワウリどころではない。
 不届者は、逃げるため、草むらに飛び込んだ。
 どんっ!
 何かにぶつかった。人間であった。たくみに後ろを取られると、羽交締めにされた。
 締め上げられる。
 意識が遠のく……。
「ま、待て、こ、降参だ……」

 不届き者は、後ろ手に縛られて、気に括り付けられているところで、気がついた。
 目の前に仁王立ちする者が言った。
「おい盗人、名は? 俺は、桃太郎、こっちはシロだ」
 身動きが取れない不届き者は、観念した。
「……エテ吉。猿のエテ吉……」
 絞り出すように言った。
「どうして盗んだ」
 桃太郎が問い詰める。
「ちっ、しょうがねえだろ。群れからはぐれて、食うもんもねえし……」
「だからといって人様の物を黙って持っていちゃあ駄目だろう!」
「はいはい、そうですね。もう好きにしやがれ!」
 開き直るエテ吉の頭を、桃太郎は鷲掴みにして、何度も激しく揺さぶった。
 エテ吉のちょうど目の前に桃太郎の股間が迫った。その褌から見たこともない大きさのキンタマが二つ、はみ出していた。
 しばらくすると、桃太郎は
「もう懲りただろう。二度とやるなよ」
 そう言って、シロに縄を解かせた。
「……許してくれるのか」
「許すとは言ってない。お前は罰を受けた。それだけだ」
 エテ吉の脳裏にあの大きなキンタマが掠めた。そして桃太郎に駆け寄ると、その耳元に囁いた。
「……なに、馬鹿かお前は……、そんな……、俺をみくびるな……、そうなのか……? 考えておいてやる……」
 そんな桃太郎と猿のやり取りをシロはニコニコと見つめていた。

 *  *  *

 セツが亡くなった翌日、誰かが里長に告げ口をしました。
 アイとシユが倉庫から食べ物を盗み、セツに与えていたというのです。
 里長は、カンカンになって怒りました。
 兄弟を力一杯、鞭で打ち据えました。
「病の小娘になんともったいないことを! あんなものには、ニワトリの餌でも食わしておけば十分なんじゃ!」
 正直、この後起こったことは、兄弟にとっては夢心地でした。
 夢か現か幻か……。
 正気を取り戻した時、兄弟の足元には、血まみれになった里長が、息を引き取って横たわっていました。

 *  *  *

 夕刻、桃太郎は集落の近くまでやって来た。
「来ると思ったぜ、桃」
 エテ吉は、ニヤニヤしながら桃太郎の顔を覗き込んだ。
「勘違いするな。俺はお前がまた、不逞を働かないか見張りに来ただけだ」
「そうか、そうか。そういうことにしておいてやる」
 互いに声を潜めていた。
 ここは集落の湯治場。要は温泉である。
 その女湯を囲う茂みに、二人は身を潜めていた。
 ぞくぞくと集落の女衆が湯船に浸かる。
 桃太郎は凝視した。これだけの大勢の女の裸を見るのは初めてであった。
 その様子を見て、エテ吉は得意になった。彼の趣味は、覗きであった。
 桃太郎は、湯に目を走らせる。湯煙がゆらゆらと立ち込め、女体の艶かしさを際立たせていた。
 むくり、むくり……。
 釈迦如来が起立する。痛いぐらいである。
 ふと隣を見やると、同じく起立させた釈迦如来を激しく擦っている。
「何やってんだ、おまえ?」
「はあ? 知らんのか。女体を見た時にするまじないだろ。これをやらんとキンタマが腐って落ちる」
「本当か?!」
「ああ、だから桃もやってみろ」
 慌てた桃太郎は、自らの釈迦如来を激しく擦り出した。
 なにやら不思議なまじないであった。
 痛くはないのだが、こそばゆいような、宙を浮いているような……、それになぜだか分からないが、擦る手が止まりそうにない。
 よく見ると、向こうの茂みに禿頭が見える。
 柿珍念であった。
 和尚もまた、激しく釈迦如来を擦っていた。
 三者は、ほぼ同時に果てた……。

 落ち着いた頃、エテ吉は大きめの木片を取り出し、筆をさらさらと走らせた。
 彼の特技は、絵を描くことであった。
 これが浄土夢心地なのか……。
 あまりの経験に茫然となっていた桃太郎は、我に返ってエテ吉に言った。
「なにをやっているんだ?」
「何って、今日の獲物をこうやって残すのよ」
 女の裸体が描かれていた。
「おまえ……」
「桃、特にあのおなご、まだ幼いがこの絵みたいになるぜ」
 エテ吉の視線の先を、桃太郎は手繰った。
 なんと、キヨであった。
 エテ吉は、キヨの裸体を見て、その将来を妄想して描いたのだ。
 桃太郎は昼間のように、エテ吉の頭を掴んで激しく振った。
「い、いきなり、何するんだよ……」
「いいかエテ吉、よく聞け。あのおなごは描いちゃ駄目だ」
「なんでよ」
「駄目だ、絶対に」
 桃太郎の目は血走っている。
「わ、分かったよ」
 エテ吉は折れた。
「いいかエテ吉、大事なことだからもう一度言うぞ。あのおなごだけは、絶対に駄目だ」
「たから、分かったつうの」
「いいかエテ吉、大事なことだからもう一度言うぞ。あのおなごだけは、絶対に駄目だ」
「……」
 同じやり取りが、この後、三度続いた。
 キヨの艶絵を描くごとに俺に持ってこい……。
 エテ吉は、桃太郎がそう言っていると解釈した。

第五章 師弟

奥多摩の川!

「でっ、でかっ……!」
 桃太郎たちの前に立ちはだかったのは、雲をつくほどの巨体を揺らす、クマであった。
 クマの腕が、桃太郎を襲う。爪先を鋭く光らせて……。

 近頃、桃太郎は、犬のシロと猿のエテ吉の三人で狩に出かけるのが日課となっていた。
 エテ吉は、湯治場での一軒以来、せっせとキヨの艶絵を桃太郎の離れへ届けていた。
 そのうち、共に飯を食うようになり、やがてエテ吉も離れで寝泊まりするようになっていた。
「おい、桃、今日はどうすんだ?」
 頭の後ろで腕を組みながら、エテ吉は言った。
「そりゃ、大物の鹿よ」
「お前、そればっかだな。そういうのは馬鹿の一つ覚えって言うんだぞ。大物、大物って、クマが出たらどうすんだよ」
「はい、桃の言うとおり大物を狙いましょう!」
 シロの目が輝いている。
「忠犬か!」
「犬ですから、何か!」
 普段はおとなしいシロであるが、桃太郎を馬鹿にされると声を荒げる。
「……ったく、犬畜生が……」
「エテ公に言われたくないんですけど!」
「おい、お前、もう一回言ってみろ……」
「しっ、静かに!」
 取っ組み合い寸前の二人の傍で、桃太郎は鋭く言った。
 いい頃合いの距離に、鹿が草をはんでいる。
 大物である。
 桃太郎は、矢を弓につがえると、
 ヒュッ、と放った……。

 *  *  *

 アイとシユは、殺しのカドで、郡司の前に引っ立てられていた。
「アイにシユ、その方ら、里長を殺したのはまことか?」
 二人は、押し黙っている。
 記憶が頭を行き来する。
 里長の振り下ろす鞭に、無我夢中でしがみついた。
 そんな兄を見たシユが、里長の腕にしがみつき、力の限り噛みついた。
 驚いた里長が、倒れ込む……。
 鞭を奪ったアイは、それを里親の首に……。
 気がついた時は、血まみれの棍棒を握り締め、突っ立っていた。鳥の声が朝を告げていた。
「どうなのだ……!」
 声を荒げる郡司に、二人は同時に答えた。
「知りません」
 その時、二人の頭にツノが生えた。
「本当か?」
「知りません」
 また、もう一本、ツノが生えた。

 *  *  *

 三人は意気軒昂で引き上げる。
 これまでにない大物を仕留めた。
「やっぱオレの羽交締めが、一番、鹿野郎に効いたよなあ。流石のオレ様だぜ!」
「いえいえ、桃の弓の腕前が、一番です」
「忠犬か!」
 桃太郎の弓に驚いた鹿……。
 エテ吉は、巧みに木立を、ひらり、ひらりと飛び移り、上から鹿を急襲する。
 そして、その背にしがみつき、首を締め上げているところに、シロが追いつき、腹をがぶり、鹿がずてんっ、と転がる。
 最後に、桃太郎が、剣で鹿の首の動脈を断ち切って、狩は終わるのだ。
 今回も、三人にとって定石どおりであった。
 雲取山の中腹あたりまでやってきた。
 そこの細道の角を曲がれば、あとは下り坂を行くと半刻ほどで小屋に行き着く。
 その角を曲がった時、急に辺りが薄暗くなった。
 三人は、太陽を見上げた。
 クマであった。
 漢字では「熊」と書く。あんま施術中の、熊一の熊である。
 さておき、三人は、あまりのことに固まってしまった。ようやく桃太郎が言葉を絞り出す。
「でっ、でかっ……!」
 それと同時にクマは、桃太郎めがけ前足を振り下ろす。
 咄嗟に桃太郎は、後ろへ飛び退いた……。

 *  *  *

 アイとシユは、遠流に処されることとなった。
 状況は、二人による犯行を示していたが、目撃者がないこと、子供であること、それと……。
 判事の最中に、この二人の頭からツノが生えたのである。
 郡司は、きみが悪かった。
 何かの凶兆ではないか?
 都から遠ざけたほうが良い。そんなことが頭を掠めた。
 そこで、本来なら死刑のところ、罪一等を減じて、島流しとなった。
 こうして、兄のアイは八丈島に、弟のシユは佐渡島に流された。

 *  *  *

「ほっ、ほら見ろ! 言わんこっちゃない! 悪い予感が的中しちまったぜっ!」
「も、桃は、悪くありませんっ! エテ吉が余計なことを言うからですっ! さあっ、桃を助けますよっ!」
「ちっ、こんな時まで、忠犬かっ!」
 桃太郎たち一行は、右往左往と山を逃げ惑っていた。
 桃太郎に先行するシロとエテ吉が、クマに上から、横合いから、石を投げたり、激しく吠えたりして、その気を引いていた。
 その隙に、桃太郎がクマとの間合いを開ける
 でもまた、詰められる。
 そんな攻防が半刻も続いていた。
「もう駄目だあっ……!」
 桃太郎の顎はすっかり上がっていた。限界がきた。もつれる足が、木の根に取られる。
 どかっと、頭から倒れ込んだ桃太郎は、すぐに振り返った。
 すでに、クマが仁王立ちしている。
「桃!」
 シロとエテ吉は絶叫した。
 クマは、桃太郎めがけて腕を振り上げる……。
 その刹那……。
 しゃんっ!
 クマの肩口に稲妻のような閃光が、縦に走った。
 クマの腕が、どさりっと地に落ちる。
 しゃんっ!
 息つく暇もなく、首元に稲妻が、今度は横に走る。
 クマの首が宙を舞って、ごろんと地に転がった。
 くまはそのまま、仰向けに、どしんっと倒れてしまった。
 クマを倒した。
 そして、そのクマの代わりに現れたのは、それ以上の巨体で周囲を圧する、白頭巾を被った僧侶であった。
 野太い眉を眉間で、硬く結び、片手にはクマを倒した薙刀を持っている。
 弁慶、その人であった。

 *  *  *

 もう何年経ったであろうか。
 一年ほどのような気もするし、百年ほど経ったような気もする。
 アイは、八丈島の牢獄で、粗末な食事を与えながら、来る日も来る日も、ここに来てからの暦を数えていた。
 アイは、怖くなっていた。
 記憶が消えてゆくのである。
 弟がいたような気がする。
 人を殺したような気がする。
 今日の食事を摂ったような気がする。
 アイから、人間であった頃の、記憶がなくなろうとしていた。
 ただ、一つの記憶を除いては……。

 *  *  *

「ちょっと待って!」
 仕留めたクマを引き摺って、その場から引き上げようとする弁慶の背に、桃太郎は叫んだ。
「ひょっとしておっさん、弁慶か……?」
 立ち止まった弁慶は、首だけで振り返った。そして、軽く鼻を鳴らすと、また歩き出した。
「俺を弟子にしてくれ! 弁慶、いや、師匠っ!」
 桃太郎は必死であった。柿珍念に弁慶のことを聞かされて以来、考えていたことだった。この好機を逃すまい……。
 一方、弁慶は「師匠」という言葉に反応していた。
 昔から荒くれ者で、周囲から疎まれ、どこか世間を斜に構えて見ることが癖になっていた。
「なあ、師匠、頼むよ。俺、強くなりたい……」
 本日、二回目の「師匠」。
 弁慶は、桃太郎に向き合った。
「強くなりたい? 惚れたおなごでもおるのか?」
 桃太郎は俯いた。
 少しは相手をしてやろう、弁慶はそう思った。
「名はなんと申す?」
「師匠! 俺は、雲取山の桃太郎!」
「師匠! 僕は、雲取山のシロです!」
 桃太郎とシロが元気よく答える。
 ーーエテ吉にとって、寝耳に水であった。
 こんなおっかないおっさんに付き従って、修行などごめん被りたい。そうだ、ずらかろう、そんな思いが胸を掠める。
 ただ、桃太郎たちと過ごした狩や、湯治場での覗きが楽しくなかったのか、と言われれば嘘になる。
 ここで、断るって出来るのかよ。
 観念した。
 エテ吉は、空気を読む男であった。
「し、師匠、オレは、雲取山のエテ吉……」
 思わぬところで、「師匠」の三連ちゃん。
 弁慶は、すっかり気をよくした。
「いいだろう、気に入った! それがしは武蔵坊弁慶! これからは、師匠と呼ぶがよい!」
「はい! 師匠!」
 桃太郎たちの新しい挑戦が、始まろうとしていた。

 

 



 
 
 


第六章 漁師と片子

第七章 波濤を超えて

第八章 奇襲

第九章 死闘

第十章 嘘の代償





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