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宗教を産むのは必然か

宗教は、なぜ生まれるのか。

世界中で、姿形は変われど、神様、仏様を信仰している。

イエス・キリストや釈迦は実在していたが、死後神格化されている。

日本では、お天道様が見ていると言い、目に言えない何者かを信じている。

目に見えない、なんなら見たこともないし見た人もいないようなものを信じるのは、頭脳が発達したヒトにしては、いささか不合理である。

宗教が生まれた理由は、逆説的ではあるが、合理性を突き詰めたことにあると思われる。

狩猟の時代から、ヒトは頭脳を発達させてきた。
中でも、人が最も発達させてきたのが、前頭前野と言われる部位。

思考、推論、計画、ワーキングメモリーなどを司る、高度な中枢機能である。

こうした発達により、ヒトは、本能のまま生きるより、論理立てて生きることを発展させてきた。

ああすれば、こうなる。

明日は、雲の動きから雨が降りそうだ。今日のうちに、収穫に行こう。

などである。

あらゆることを合理的に考えるようになるが、どう考えても不合理な、ヒトには解決できない問題も出てくる。

わからないままにしておくわけにはいかないから、無理やり合理性をつけた。

それが、宗教ではないだろうか。

人生はうまく行くか全くわからないから、信仰に基づいてこのように行動すれば、幸せになる。救済される。という論理を組み立てた。

そうすれば、うまくいかなくても、進行が足りないという「合理的な」理由をつけられる。

どんどん自然を排斥していき、頭の中だけで解決しようとすると、分からないことは、許されない。

それでも、ヒトには分からないものもある。

全知全能な神様を生むことにより、この分からなさを解消してきた。

このように考える。

現代のカルト宗教を信仰する気持ちもこれに似ている。

何かとうまくいかない。こうすればうまく行くという合理性を持った、心の拠り所が欲しい。

この宗教ならば、救ってくれる(気がする)。

こうした思考に至るのは、養老孟司さんの考えを拝借すれば、自然を排除してきたからである。

自然なんか合理も何もない。

晴れていると思ってもすぐに雨が降るし、地震も予告無しである。

そうしたどうにもならない自然というものを排除し、論理だけを組み立ててきているから、うまくいかないことにも理由を求める。

どうにもならないことにも無理矢理理由をつけようとして、宗教を産むという流れだと思う。

信仰の自由があり、否定はしないが、人口だけでなく、自然の世界も忘れないようにしたいと改めて思う。

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