一人暮らしをはじめて思うこと。
一人暮らしをはじめて約2週間が経った。
恥ずかしながら、齢28にして人生初の一人暮らしだ。
これを聞くと「とんだ甘えたお坊ちゃんだ」と嘲る人もあるだろうが、実際「お坊ちゃん」とまでいかなくとも、世間でいう中流階級くらいの家に生まれ育ったわけだから、顔を真っ赤にして異を唱えられるような立場でないことくらいは僕自身が一番知っているつもりだ。
僕は現在教育関係の仕事を約3年ほどしており、教え子達に自立の精神を授けてきたつもりだったが、やはり人は温かく安全な巣から飛び立ち、冷たく堅牢な環境の中に身を投じる経験があってこそ、初めて「自立の精神」を覚えるものだと確かめることができた。
従って、一人暮らしを開始するに至った経緯は「やむを得ず」と言った感じの、突発的で事故のようなものだったけれども、いざその道が避けられないのだとわかった時には、むしろ僕は希望に溢れていた。
なぜなら僕の中にはある種のコンプレックスがそれまで渦巻いてたということもあり、遂にその渦の発生源に飛び込める時が訪れたという喜びの方が、アクシデントによる環境の変化に対する戸惑いに勝ったのである。
そのコンプレックスとはまさに上に記したような「自立の精神」であり、「確かめることができた。」と表現したのも、そうであるとはわかっていたものの、今までそれを現実に描くことができていなかったことに由来する。
それが今回、アクシデントがことの発端といえども、これまで願っても叶わなかった環境の変化が訪れたことにより遂に1人の男として自らを高めることができる時間と空間を手にすることができたのだ。
人生は塞翁が馬というが、どう転んでも心を躍らせる方向へ立ち上がるのが僕のスタンスであり、最大の強みと言っても過言ではないと思う。
部屋の広さはワンルームであるため、友人には「ちょっといい独房」などと揶揄され、僕もその言葉には笑いながら同意したけれども、広々とした実の家に閉じこもった世界よりも、このちょっといい独房を拠点とした今の生活のほうが、広く世界を、自由を感じられるのはなんとも不思議な話だ。
僕は今、「生かされてる」のではなく「生きている」。
さて、この話の本題となるのはこれから話すことである。
僕が今回一人暮らしを始めるにあたって「我ながら成功した」と感じたことは、『真にかけるべきところに金をかけられた』というところだ。
僕の中には、ある一つの価値観がある。
それは「花より団子」ではなく「団子より花」という価値観だ。
無限に資金のある大富豪でないことは却って幸福を産むものであり、限られた資金の中から何を選択し、その結果にどれほど満足することができるかというゲームを楽しむことができるのは、庶民の一得であろう。
人間は自らが選択したことが成功に繋がった時、そこに自信と誇りが産まれ、これまでの自分から一皮剥けた新たな自分に生まれ変わることができる。
そして今回僕はまさに新たな自分に生まれ変わることに成功したのだ。
さて、ではこの度僕はどのようにして新たな自分に生まれ変われたのか、そのプロセスを拙文ながらここに記したい。
先ほど「団子より花」と述べたように、僕はもともと直接的な実利よりも、多くの人から見たら少し回りくどい、言うなれば精神に働きかける益に価値を見出すタイプの人間だ。
だから一人暮らしをするにあたっても、洗濯機や冷蔵庫などの生活の必需品となるようなものに回すべき資金を、読書や勉学に快適性を与えるスタンディングデスクとオフィスチェア、精神に集中力を付与する力を持つネイビーの壁紙と大理石柄のフロアタイル、そして夜には1日の煩わしさを取り除いてくれるアロマデュフューザーに注ぎ込んだ。
これら全てを合わせると、少しいい洗濯機や冷蔵庫、乾燥ラックなどが買えてしまえるくらいの値段にはなるものの、僕の中ではそれらを上回る大きな利益をもたらしてくれる宝具を手にすることができたのだ。
食材に関しては今のところ冷蔵庫に入れる必要のないものを選んでいるし、洗濯に関しても事前に大量の衣服を持ってきたので、週一、二回のみ近くのコインランドリーに足を運べば清潔は保てる。
どんなことでもそうだが、やはりスタートダッシュというものは肝腎だ。
これから始まる新たな生活の中で、味気ない空間にいて精神的な健康が保たれる自信はとてもじゃないが自分にはなかった。
そしてなにより、1人で過ごす時間が増えるということは、その分成長するために費やす時間を確保できるということであり、そうであるならばその時間を可能な限り能率的かつ快適なものにしなければ、全くもってこの貴重な時間も無駄になってしまうというものだ。
結果今、僕はとても活力に満ちた生活を送れている。
なお、先ほど述べていなかったものの、食に関してもかなりのコストをカットしており、今はお茶漬けや安い春雨などを繰り返し食べる日々であるが、工夫次第でとても満足なものになる。
一昨日はご飯に醤油を混ぜて炒めただけの、炒飯とも言えない具無しの炒飯に少しの山葵を乗せただけのものを食べてみたが、空腹と相まってのことか平時に1000円、2000円出していただくお店の食事に勝るほどの多幸感に包まれた。
と、いってもこれは非日常的であるから感じられた幸福であり、これが続くようであれば精神に有毒であることは明らかであるし、なにより栄養は健康に直結する要因であるため、お金が入り次第最低限の健康は確保できるような内容には変更していくつもりでもある。
このように今の僕の食事や生活そのものは質素なものではあるが、スーパーで購入した数日分のワインもあるし、なによりこの部屋には何度見ても飽きることのない一枚の絵画があれば、眼と心に癒しをくれるブーゲンビリアもあり、そして数ヶ月……或いは一年かけても読み尽くせない本たちがある。
食は貧しくても心は豊かであり続けられる。
教え子たちに説いてきた『教養とは、どんな環境でも楽しく生きるための術である。』という教えを真に体現することができているのは、なによりも幸せなことだ。
あとは努めて学び、努めて創るのみ。
数年間の一人暮らしという修行の期間。
最大限に楽しもうと思う。
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