差別と区別

1 「障害者」という言葉について、「社会的に害悪な存在であるかのような誤った印象を与えかねない」との理由で、「障がい者」と記載すべきという議論がある。おかしな話である。

 「障害者」とは、心身共に五体満足な「健常者」という理想的な(=架空の)存在との対比で、心身に何らかの欠落があり、日常生活を送るのにハンデ、つまり障害を負っている人、という意味でしかない。「健常者」という理想の存在と比べれば、誰しも病気や怪我を問わず、お金がない、時間がない、彼女(彼氏)がいない、等々の理由で誰でも「障害者」である。
 「障害者」を「障がい者」と呼び変える不毛な議論の先に、「ハゲ」を「頭髪の不自由な人」、「太った人」を「身長が横に不自由な人」と呼ばなければならないというファナティックな意見すらあるらしい。
 「障害者」を「障がい者」と、「ハゲ」を「頭髪の不自由な人」と呼ぶことで、彼らに対する差別が改善するのだろうか?文字通りそれは「言葉遊び」に過ぎず、それで差別が解消されるという事は絶対にないと思う。

 私事になるが、私は若い頃に病気をして、数年間まっとうな社会生活を送れなかった。当時両親を始め周囲に多大な迷惑を掛けたが、当時の私は医学的に「障害者」にカテゴライズされたわけではなかったものの、主観的には「障害者」とされた人々と立場的には全く変わらないと思っていた。
 また、40を過ぎた今、20代の頃と比べると、明らかに怪我や疲労からの回復は遅くなったし、無理も利かなくなった。いずれさらに齢を重ねれば、身体機能の衰えを「老い」という形で明確に実感する日も遠くないと思っている。

 そうした事を考え合わせると、事故や怪我だけでなく「老い」も含めて、誰しも自分が「障害者」の仲間入りをする可能性と常に隣り合わせで生きていると私は考えている。だから、それとして「障害者」の人々を自分とは異質な存在として差別する気にはなれない。

2 「差別は区別から生まれる」というのが私の持論である。人間を「障害者」と「健常者」に2分法で切り分けて、あらゆる個人をそのどちらかにカテゴライズしようとすることが、差別の源泉だと私は考える。
 冒頭に挙げた「ハゲ」ないし「頭髪の不自由な人」で考えてみよう。ある集団において、「ハゲ」が少数者であり、頭髪の少ない者が目立つから、彼を「ハゲ!ハゲ!」言って、馬鹿にする人が出てくるのである。もし、集団の成員の9割が「ハゲ」で占められていたらどうなるだろうか?おそらく「頭髪に不自由のない人」の方が、逆に目立って、何らかの形で差別されるのではないかと思う(「身長が横に不自由な人」についても同様の思考実験が可能だ)。

 「障害者スポーツ」として、パラリンピックを頂点に、各種スポーツにおいて「障害者」を参加資格とする大会が世界中で開かれている。
 「障害者」に対する差別が深刻だった時代、言い換えれば、彼らと「健常者」との間に明確な断絶があり、「障害者」が「健常者」に対して、人間として質的に劣ると考えられた時代であれば(ナチスドイツはその典型である」)、「障害者」が自分らしく生きる場として「障害者スポーツ」の場は意味があったのかもしれない。
 だが、今日においても「健常者」との対比で「障害者スポーツ」としての大会を開催する事には、私は諸手を挙げて賛成する気になれない。

3 だいぶ前の話になるが、ウチの道場にまだ20代くらいの片腕のない青年が「柔術をやりたい」と言って見学に来たことがあった。
 彼は剣道や水泳をやっているらしく、事故で失くした片腕を除けば、見るからに健康そうな身体をしていた。インストラクターの先生が「そもそも柔術とは・・・」と柔術の説明をしようとするのを遮って、「パラの試合はあるのか?どうすれば試合に勝てるのか?」と試合のことばかり質問していたのを覚えている。
 結局彼は2度ほど道場に来たが、日本ではパラ柔術の試合は年に一度あるかないかの頻度でしか開催されないと知って、その後二度と道場に来ることはなかった。
 どうも彼は、「柔術が好きで稽古したい」のではなく、「試合に勝って有名になりたい」からパラカテゴリーの存在する柔術に興味を持ったのではないかと感じた。
 おそらく彼は、試合のない「合気道」や「琉球空手」「中国拳法」といった武術には見向きもしないだろうし、たとえそれらに触れる機会があったとしても、「有名になれないから」というだけの理由で、それらの武術の価値に気付くことは一生ないだろうと思われる。

 もうひとつ、別のパラアスリートの話である。彼はパラ部門で何回か優勝し、マスターにも出ている。彼の周囲の反応を見ていると、マスターの試合で勝てば「(障害者でありながら)健常者に勝つなんて凄い!」と賞賛し、負けても「ハンデがありながら、挑戦するだけでも立派だ」と賞賛を惜しまない。
 私の見る限り、彼は「パラの選手が健常者の試合に出るだけで凄い」という人々の思い込みを利用して、試合に勝とうが負けようが周囲からの賞賛を浴びて悦に浸っているようにしか見えない。言葉は悪いが、彼は自らの障害を売りにしていると言っても差支えないと思う。

 柔術に限らず、試合に勝つために要求される技量や努力は「健常者」(これ以降に記載する「健常者」とは、「パラカテゴリーにエントリーできない人」という意味でしかない。残念だが、他に適当な言葉が見当たらない)と「障害者」で変わらない。スポーツで試合に出たことのある人なら想像が付くかと思うが、「健常者」と「障害者」が試合をして、「健常者」が勝てば、勝って当たり前と思われ、「健常者」が負けたら、ハンデを貰いながら負けてダサいと非難されるとしたら、「健常者」としては立つ瀬がないだろう。
 この場合、「アダルト」ないし「マスター」の試合であるにもかかわらず、そこに「パラ」という異質なカテゴリーの発想で試合を見るから、そのような「逆差別」が生じるのである。
 「健常者」であれパラアスリートであれ、それが通常の「アダルト」ないし「マスター」の試合であるならば、その勝利ないし敗北の価値は、誰に取っても等しく同じ一勝ないし一敗であるべきである。それが「健常者」も「障害者」も等しく自分らしく生きる社会の実現を目指す「ダイバーシティ」の理念に最も適合的な取り扱いだと思う。

 BJJの試合において、「パラ」と通常の試合の区分を設けることに反対はしないが、少なくとも「パラ」カテゴリーにエントリーした選手が通常のカテゴリーにダブルエントリーするのを認めるべきではないと思う。ごく一部のパラアスリートによる売名行為を許していると、パラスポーツに関わる全ての人々がさもしい功名心ないし承認欲求を満たすためにスポーツをやっていると誤解されかねない。
 有名になりたいだけなら、武術以外に他にも手段はあるだろう。「障害者」=「かわいそうな人」(あるいは「社会的に害悪な存在」でも同じであるが)として、彼を一般人から「区別」するからこそ「差別」に繋がっているという図式に一人でも多くの人が気付いて欲しい。


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