道場を経営する(四)

1 先日偶然目に入ったYOUTUBE動画の感想である。
 
 BJJ(ブラジリアン柔術)青帯の人が道場主とスパーリングして、5分で6本タップを取られていた。
 動画投稿者の意図としては、「ウチの先生はこんなに強いのだ!」という事をアッピールしたかったのかもしれないが、私は「道場主が生徒を一方的にボコるスパーリングは有害無益だ」という全く別の感想を抱いた。
 
2 上の帯の、しかも指導者が生徒を一方的にボコるスパーリングというのは、まずもって生徒にとってよろしくない。
 
 5分で6本タップを取られるスパーリングであったとしても、これが白帯であれば、マウントやバック等の「悪いポジションに慣れる」経験値を積むのに役に立つという事はあるだろう。
 そうした経験の積み重ねを経て、「悪いポジション」を取られてもパニックを起こさなくなり、それが「ディフェンス」技術の向上に繋がるのなら、一方的な内容のスパーリングであっても無意味とまでは言えない。

 だが、私が見た動画の青帯の人は、どう見ても初心者ではなかった。
 青帯レベルの人がスパーリングで5分で6本もタップを取られた挙句、指導者から「どこを改善すればいいのか?」というアドバイスすら貰えないのであれば、彼は自信を失うだけではなく、指導者に対して恐怖心を抱くようになってしまうだろう。

 道場内の規律の維持のために、生徒間の序列化はある程度必要かもしれないが、それは帯の色による可視化で十分事足りると思う。
 
 イメージとは恐ろしいモノで、一度「この人には絶対に勝てない」という恐怖心を植え付けられてしまうと、自分がいくら上達したとしても、その恐怖心を克服する事は難しく、ほとんどの人は、序列が上位の相手とスパーリングする時は、無意識に遠慮してしまう。
 文字通り「手も足も出ない」スパーリングを繰り返しても、当人にとっては技量の向上に何の役にも立たないし、時間の無駄だと言い切って構わない。

3 道場主が生徒を一方的にボコるようなスパーリングをする理由として考えられるのは、彼(=道場主)は自身の「強さ」によって生徒を従え、ある種「恐怖政治」にも似たシステムで道場を運営しようとしているという事である。
 
 道場全体を個々人の「強さ」によって序列化し、その頂点に道場主が君臨している間は、道場の秩序は固く守られるだろう。
 だが、裏を返して言えば、道場主が「強さ」の面において、道場内のヒエラルキーの頂点から滑り落ちるような事があれば、彼をトップにピラミッド状に形成されていた道場の秩序は一瞬にして崩壊しかねない。

 道場主がヒエラルキーのトップから陥落するという事態は、彼が加齢や怪我によって「強さ」を失う場合だけではなく、門下生の中から彼より強い生徒が出て来たり、公式試合で負けるという事も含まれる。

 だからこそ、彼はPEDを使ってでも試合に勝とうとする(らしい)し、自分が勝てると思った試合にしか出ないのだろう。

 そういった点を踏まえて考えるならば、道場主個人の「強さ」に依存した道場運営というのは、そこに通う生徒のみならず、道場主本人にとっても普段から「絶対に負ける事が許されない」という意味において、非常にストレスフルな環境ではないかと思う。

 世間的には彼の道場は、経営の成功例と見做されているらしいが、今はその経営が上手く言っているとしても、先述したように、彼の「強さ」に翳りが見えた時に、はたして従前と変わらず道場が繁栄し続ける事が出来るのか?私は疑問である。

4 道場を経営するにあたって、道場主個人の「強さ」を基盤にするのは止めた方がいい。

 彼の「強さ」は、立派な経営資本に成り得るが、人間誰しも怪我や加齢から来る衰えと無縁ではいられない事を考えれば、道場主個人の「強さ」のみに依存した経営はリスクが高すぎる。

 この記事でも述べられているように、道場を経営する上で重要なのは、道場主個人の「強さ」に依存しない教育システム作りにある。

 とりわけ、これから柔術を始めようと考えている人の圧倒的多数は、「若くて」「運動能力が高い」フィジカルエリートではないので・・・「エリート」が集団の多数を占めるというのは形容矛盾に近い。トップレベルのコンペティション・チームはその例外になる・・・、そういう「普通の人」が道場に継続して通う事で自分の上達を実感できる。
 ひいては、彼ら彼女らが時間があれば道場に来ようという気を起こさせるようなシステムの構築が求められるだろう。

 私の先生は、誰に対しても5分で6本も取るようなスパーリングをされた事がない。
 今日まで私が稽古を続けられている理由のひとつは、良師に恵まれたという面も大きいと感じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?