幸せってなに

昔、いつ言ったのかも思い出せない昔、干した洗濯物が日を浴びて風に揺れている光景を見て「幸せ」って呟いたことがある。
多分その呟きを覚えていた誰かに(誰に言われたのか覚えてない。記憶障害持ちなので)「チープな幸せ」って言われた。(そういう非難や嘲笑、悪罵だけは覚えてる)

洗濯物を干す、という普通の人なら当たり前にできるであろう行為だからチープと言われたんだろうけれど、私には当たり前にできなかった。
一日の内、何か一つでも有意義なことができただけで、気力体力使い果たしていた(今も余り変わらない)。
だから洗濯物を干せたのは私には何かすごいことができた日だったし、その洗濯物がベランダで日を浴びて風にそよいでいるという光景は幸せに値した。

それをチープと言うなら確かにチープなのだけど、それをチープだと言えるその人を私はひどく妬むし、悔しい。
チープだと嘲笑できるその人の幸せが、私にはどんなに頑張っても手に入らない。

正直に言おう。
私は一週間の内、お風呂に入れるのは1日ぐらいなのだ。
汚いと思われるだろう。怠惰の極みだと思われるだろう。
私だって毎日お風呂に入りたい。どんなに入りたいか「普通」の人にはちょっと想像がつかないと思う。

服を脱いでシャワーを浴びて湯船に温まって浴槽から出て頭を洗ってシャワーで洗い流してトリートメントしてる間に歯を磨きトリートメントを洗い流し顔を洗って体を洗って……その手順考えただけで、絶望的に疲れてしまうのだ。
うつ病になった人ならわかる感覚だと思う。
たかが入浴すら出来ないのだ。
それが私の自尊心をどんなに傷つけているか、あまり理解できる人はいないだろう。

身綺麗にすることすらできない私が、洗濯物を干して幸せを感じることは、チープだろうか……。

病気のせいだし、病気になる前は普通にできていた事が、もう何十年も出来ないまま過ごす羽目になってる。
私がどんなに「普通」の「平凡」さに恋い焦がれているか。

昨日の土曜日、精神科で毎月の筋肉注射を受けてきた。
普通の人ならこんな激痛を毎月味わわなくて済むし、正気も保っていられるのだ。

なにに幸せを感じるかは人それぞれ違うけど、どんなことに幸せを感じるかで、その人の背景がある程度は想像がつく場合もある。
そして、その人の幸せの定義について、笑いたい人は笑えばいいし、馬鹿にするのも自由だ。
でも幸せの定義が小さければ小さいほど、どれだけの不幸を、自尊心を満足させるだけのことも出来ない不幸を背負っているか、想像できる人は笑わないでほしい。