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整理と縮小の年

2022年を迎える朝は瀬戸内海に上る太陽と共に始まる。大晦日は六甲山の裏側で雪の中、寺で瞑想に耽っていた。これまでFacebookでずっと続けてきた日々思い付いた考察のログを取ってきた「親指の哲学」は、こちらのnoteに移行して集約できればと考えている。
今月25日に河出書房新社から出す自分の新刊本、「まなざしの革命」に伴って、おそらくこれから無闇に人と繋がることやSNS上でディスカッションすることを控えた方が良いと考えたからだ。少し自分の中でSNSとのいい距離感をはかりたい。
SNSは気軽に手軽に発信できるので便利だが、一方で簡単にメッセンジャーで連絡が来たりコメントが来たりする。それはそれでいいことも沢山あるのだが、逆に返答に困るようなことも沢山ある。
コミュニケーションツールなので仕方ないが、日々のログやメモとして記録するのに、反応を返さねばならないのも気を使う部分もある。それにFacebookは書かれている内容というよりも、書いた人と読み手の関係性で反応が定まる傾向が強い。読んでいる人も知り合いかどこかで知り合った人ばかりで、どこまで内容に共感してくれているかも分からない。なのでしっかりと内容が伝わるようなnoteに集約していくのが良いのではないかと思っている。

次の本では「平和」というタイトルの3章や「情報」というタイトルの4章で、ハイブリッド戦争や現代の情報戦の事なども結構書いている。それに5章の「広告」でも触れているが、Google、Facebookなどの監視資本家たちの動きも気にはなっている。まぁnoteで書いているので、同じだが、出来ればあまり目をつけられたくないので、あまりビッグテックのツールに乗らない方が良いのかなとも思う。

ということで、これまで十数年続けてきたFacebookでの日々の思考ログは、せっせとこちらのノート「親指の哲学」に移行していき、メッセージとしてしっかり発信するのは著書かこのノートかポッドキャストに集約しながら整理していければと思う。

「まなざしの革命」の8章の「交流」でも書いたが、これから世界はこれまでの拡大から収縮の方向へ向かうのではないか。自分もデジタル的に自分の把握できる範囲を絞っていきながら、小さく畳んでいければと思う。最後はこの世からスッと消えてなくなれば理想だ。

昨夜の2021年の大晦日のログを以下にシェアしておこうかと。

2021年の終わりを寺で静かに瞑想に耽りながら迎える。自分の身心を静かに観察すること出来ずして、これから世界で起ころうとする大混乱を静かに観察することなど出来ない。

2022年はいよいよ世界の形が大きく変わり始めるだろう。同時に今年からは自分自身の社会での受け止められ方や、個人としての意味合いも大きく変わる。今までの清算と整理が必要になる。

これまで問われもしないのに無駄に書き溜めてきた奔放な言葉を慎み、真剣に耳を傾けようとする人に語るべき言葉を収斂させねばならない。SNSは整理しながら、情報と言葉はウェブサイトに、思考は本と作品にまとめて行くことになるだろう。本当になすべきことに集中するために、アウトプットのチャンネルを一つずつ閉じていく準備が必要だ。

この場でしか繋がっていない人もいるし、その多くはおそらくこの先に二度と会えない人ばかりだ。チャンネル自体は残しておこうと思うが、縁というのは人の手ではコントロール出来ない。これまでに縁あり多少なりとも意識と慈悲を傾けて頂いたことに感謝して、閉じて行く方向へと向かうべきだろう。

おそらく次の本を機に、自分を取り巻く流れが大きく変わる。しばらくは、案内も含めて多少言葉を紡ぐ必要があるが、多分これまで通りにはいかなくなる。前著で近づいてきた人々の多くは離れて行き、また別の人々が近寄ってくる。問われ、乞われ、指さされ、勝手に期待され、これまで以上に要らぬ言葉をやり取りすることになるだろう。

その流れの渦に翻弄されぬように己の心をしっかり保っておかねばならない。無闇に人と繋がること、自由に言葉を発することが必ずしも安全ではない時代だ。そんな流れに入る世界では、自分も閉じていく道へと向かうのは必然なのだろう。

これまでの世界は「生命であることを喜ぶ」ことに価値が置かれた。だが、これからの世界は「生命であることを乗り越える」ことが必要な局面に入る。そのための鍵は苦と痛みの正体を知ることで、向き合うことを避けては通れない。

それは暗く陰鬱な態度で臨むことでも、その反対に甘い幻想に逃げ込むことでもない。これまでもずっと内にあったのに、ないことにしてきた苦を、そのまましっかり認めることから始めねばならない。

この先の世界では、苦しみが暴力的に外からもたらされることになる。そこでは生命であることを乗り越えるどころか、生命でいられなくなることへの恐れが掻き立てられるだろう。準備が出来ていないと激流に流されて選択肢がある場所へともう戻ってこれない。

だからまずは自らの内の苦と向き合い、心をしっかりと保つための準備が必要になる。己の準備を整え、そして人を手助けする。準備が出来ていない者は助けることは出来ないからだ。神秘とは心の因果が整わぬ者の前には現れない。

人はいつまで生きられるか分からないし、呆気なく命を落としてしまう。しかし死んで終われるほどこの世界は単純には出来ていない。生のサイクルを断ち切る道への門はいつでも開かれていて、その鍵は既に手にしている。だが、それを開けるには勇気と努力が必要なのだろう。

ここまで個としての生を紡いでこれたこと、そして心の因果を導いてくれたことは、直接間接問わず自分に関わった全ての生命の賜物だ。再び会うことはない生命たちに深く感謝し、次へと進みたい。生きとし生ける全ての生命が幸せでありますように。

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