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バカの言語学:「バカ」の語義(2) 三省堂の辞書より

バカの言語学:「バカ」の語義(1) 岩波書店の辞書より

 三省堂(書店ではなく出版社のほうです)のホームページを見ると、左上のロゴマークの上に「ことばは人を育て、未来をきりひらく知の源です。三省堂はことばをみつめて142年」とあります。そして右のほうに目をやると「辞書は三省堂」ともあります。
 確かに三省堂といえば辞書のイメージが強いです。そこで、今回は三省堂の国語辞典で「バカ」を調べてみましょう。


『新解さんの謎』で一躍話題に

 もう20年以上前になりますが、美術家で小説家でもある赤瀬川原平の書いた『新解さんの謎』という本が話題になりました。
 「新解さん」とは、三省堂が出している国語辞典『新明解国語辞典』(初版は1972年、以下『新明解』)のことです。赤瀬川原平は、この「新解さん」の語釈や用例などの記述が独特でとても面白いといろいろ紹介しているのですが、「ばか」の項もまだしょっぱなの序章で「恋愛」の次に取り上げています。

ばか【馬鹿】(雅語形容詞「はかなし」の語根の強調形)
[一]―な
①記憶力・理解力の鈍さが常識を超える様子。また、そういう人。「―者・薄―・人を―にする〔=馬鹿者のように扱う〕・―にならない〔=軽く見過ごせない〕・―に出来ない〔=無視出来ない〕」〔人をののしる時に一番普通に使う語。公の席で使うと刺激が強過ぎるので使わない方がいい〕⇔利口 
②社会通念としての常識にひどく欠けていること(人)。「人から物をもらってろくにお礼も言わない―が有るか・専門―〔=専門外の事については常識的な判断すら出来ない迂遠さを批判した語〕・学者―・役者―」
③不合理さ・つまらなさが常識を超える様子だ。「そんな―な事が/―な目にあう/―を見る」
④「ばか貝」の略。

山田忠雄ほか編『新明解国語辞典』(赤瀬川原平『新解さんの謎』より孫引き)
※適宜改行し、記号なども適宜省略・変更しています。以下同。

 漢字表記の後の( )内が『新明解』の採用している語源説で、『広辞苑』と異なるのも気になりますが、いちばん気になるのはやはり①の用例に続く〔 〕内の「人をののしる時に……」という一文です。「刺激が強過ぎる」という辞書らしからぬ表現にインパクトがあります。赤瀬川原平はこう書いています。

 私は読んだあと、思わず遠くを見つめた。
 〔人をののしる時に最も普通に使うが、公の席で使うと刺激が強過ぎることので使わない方がいい〕
 こんな親切な辞書があるだろうか。親切というよりおせっかいというか。いやいや、犯罪を未然に防ごうという心づかいは親切であろう。犯罪ではないけれど、人生の間違いを未然に防ごうとして忠告してくれる。明解というより、それをはるかに超えて、超明解というか、親切国語辞典だ。

赤瀬川原平『新解さんの謎』

 上掲の「バカ」の項は、『新明解』の初版のものですが、第三版~第五版では以下のようになっていました。赤瀬川原平のコメントも併せて引用します。

ばか【馬鹿】(雅語形容詞「はかなし」の語根の強調形)
[一]―な
①記憶力・理解力の鈍さが常識を超える様子。また、そうとしか言いようの無い人。〔人をののしる時に最も普通に使うが、公の席で使うと刺激が強過ぎることが有る。また、身近の存在に対して親しみを込めて使うことも有る。例、「あの―=あいつが/― ―=女性語で、相手に甘える時の言い方」〕「―の高笑い/人を―にする〔=(a)馬鹿者のように扱う。(b)その存在を無用視したり極端に軽視したりする〕/―にならない〔=軽く見過ごせない〕/―者・薄―」⇔利口
②社会通念としての常識にひどく欠けていること(人)。「人から物をもらってろくにお礼も言わない―が有るか/専門―〔=専門外の事については常識的な判断すら出来ない迂遠さを批判した語〕・学者―・役者―」
③不合理さ・つまらなさが常識を超える様子だ。「そんな―な事が/―な目にあう/―を見る」
④「ばか貝」の略。
[二](造語)
〔口頭〕普通では考えられないほど、程度が極端だ。「―騒ぎ」
[表記]「馬鹿・莫迦・馬稼・破家」は、いずれも借字。

山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第五版』

 なるほど、いっそうの充実を見せている。問題は「女性語で」の項。じつはそのカッコの上に「――」とあるが、これは単なる二本の棒ではなく用例なのだ。つまり、
「馬鹿馬鹿」
 ということらしい。漢字では感じが出ないが、要するに、
「ばかばか」
 ということ。しかしここまできたら、
「いやん、――」
 としてほしかった。あるいは「ばか」の下に小さいカタカナの「ン」がつくこともある、という、よりいっそうの親切心も必要だろう。

赤瀬川原平『新解さんの謎』

 オノ・ヨーコとも活動をともにしたことがある前衛芸術家にして芥川賞作家でもあった赤瀬川原平ですが、同時に昭和のオッサンでもあったというべきなのでしょう。女性が「ばかばか」と言って甘えるなんて、半世紀以上昔の映画やテレビドラマのようで、まあ面白くなくはないのですが、現在では「不適切」とまではいわないにしてもかなり不評を買いそうです。

三省堂の他の国語辞典も

 ところで上記の「ばかばか」という言い方は、同じ三省堂が出している『大辞林』にも出ていて、「若い女性が親しい男性に対して、その意地悪な言動などを愛情気持ちを込めて批判する場合に用いる」となっています(後述)。『新明解』よりも細かく、「若い女性」などと限定までしています。
 『大辞林』は現在第四版まで出ていますが、第何版からこの記述があるのかは不明です。もしかすると『新明解』が話題になったのを受けて加えられたのかもしれません。
 そうだとすると、『三省堂国語辞典』(以下、『三国』)にももしかして……、と思って調べてみると、最新版である第八版から「豆知識」という欄ができていて、「ののしるときにも使う。親しい間がらで、「ばかだなあ」と軽い気持ちでからかうこともあるが、誤解のもとにもなるので注意」とわざわざ「注意」してくれています。こちらも「親切国語辞典」です。
 しかし女性の「バカバカ」は出てきません。第七版以前もなかったようですが、『三国』は2021年の改訂にあたって、ジェンダーバイアスを取り除くことに努めたようなので、載っているわけがありません。
 さらに『例解新国語辞典』も調べてみましたが、中学生向けということもあり、やはりこの手の記述はありませんでした。
 なお、『新明解』の現時点もおける最新版である第八版では、第三版における〔 〕内が新設の「運用」欄に移されました。記述も以下のように変わっています。

(1)[一]①について。
(a)人をののしる時によく用いられる一方、心を許し合える間柄の人に対しては親近感を込めて何らかの批判をする際に用いられることがある。例、「あのばか〔=ばかだと言える間柄の人〕が、またこんなことをして/ばかばか〔=女性が、相手を甘えた態度で非難して言う言葉〕」
(b)度を超えて人がいい様子を、ほほえましく思って(皮肉って・自嘲して)言うことがある。例、「あいつ(おれ)もばかだねえ」
(2)[一]③は、「そんなばかな」などの形で、あまりにも意外なことに出会って、あり得ないことだという気持ちを込めて感動詞的に用いられることがある。例、「もうすぐ会が始まるのに司会者が来ていないだと、そんなばかな」

山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第八版』

 赤瀬川原平に「親切国語辞典」と言わしめた「公の席で使うと刺激が強過ぎることが有る」という一節が削られてしまいましたが、(b)が加わった上に語義の③「不合理さ・つまらなさが常識を超える様子だ」についても触れられています。(b)の「ほほえましく思って(皮肉って・自嘲して)」という書き方に、考え得る限りいろいろな場合を記そうとする意欲が感じられます。
 このような、使う状況とか文脈とかによる言葉の意味の多様な違いは、言語学の世界では「語用論」と呼ばれる分野の研究対象になっています。
 語用論的なレベルでの意味は他社の辞書でも、ごく簡単になら採り上げられています。しかし三省堂の国語辞典では、許されるぎりぎりの範囲内でかなり細かく記述しているのが特徴的で、読み物として楽しめるようにもなっています。もっとも「適切さ」という観点からすると、突っ込みどころがなくもないのですが。

常識との関係で「バカ」をとらえる

 それでは『新明解』における「ばか」の語釈を見ていきましょう。まずは第三~五版のものです。語釈だけを再び引用します。

[一]
①記憶力・理解力の鈍さが常識を超える様子。また、そうとしか言いようの無い人。
②社会通念としての常識にひどく欠けていること(人)。
③不合理さ・つまらなさが常識を超える様子だ。
④「ばか貝」の略。
[二]
〔口頭〕普通では考えられないほど、程度が極端だ。

山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第五版』

 『広辞苑』では「おろかなこと」と「社会的常識に欠けていること」をひとくくりにしていましたが、『新明解』では①と②に分けています。そして①では、「記憶力・理解力の鈍さ」(=おろかさ)が「常識を超える」ほどなら「バカ」である、という説明になっています。
 また③では「不合理さ」(=とんでもなさ)と「つまらなさ」とを並べているのは『広辞苑』と似ているものの、①と同様に、それらの性質自体が「バカ」なのではなく、これらが「常識を超える様子」であれば「バカ」なのだと言っています。
 こういう分け方やまとめ方は『広辞苑』と比べて、だいぶすっきりしているように思います。一つのくくりの中に複数の語釈を併記していないということもあり、違和感なく受け入れられます(ちなみに、道具が役に立たなくなる意味での「バカ」(『広辞苑』の③)は、「ばかになる」という成句での扱いになっています)。
 ところで、上記の語釈のうち①~③にはすべて「常識」という言葉が出てきます。そしてその常識を「超える」とか「欠けている」とか、つまり常識との否定的な関係から「ばか」を説明しています。また[二]の接頭辞的な「ばか」の語釈にも「普通では考えられないほど」とありますが、この「普通」も「常識」と言い換えられます。
 もっとも②では、ことさら「社会通念としての常識」という言い方をしています。これは、①と③の「常識」と意味が異なるということなのでしょうか。『新明解』第五版で「社会通念」を引いてみましょう。

その時代その社会一般の人に支持されている常識や、その枠の内にとどまることが良しとされる判断。

山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第五版』

 これはおそらく「常識」に関して、特定の時代や社会の中で人の考えや判断を拘束する側面を特に「社会通念」と呼ぶのだ、ということかと思いますので、先ほどの語釈②では「常識」のそういう側面が強調されているようです。もちろん①と③の「常識」もそういう側面があるのですが、①と③の「常識」は基準や規範という形式面の意味合いが強く、②のほうは「常識」の中身(マナーとか日常生活にかかわる知識とか)を指していると考えれば問題はないのかと思います。
 ①と③では常識を「超える」となっているのに対し、②では常識が「欠けている」となっているのも、そういう違いを表しているのでしょう。
 ともかく、こういう「常識」との間に、逸脱や欠如とかいった否定的な関係があるのが「バカ」である、というのが『新明解』第三~五版の解釈のようです。
 そうだとすると、どうして「バカ」という言葉が親近感や異性への甘えを表すのにも使えるのかと疑問になってきますが、これは常識というものが親しくない人間同士の間(まさに「公の場」です)で重んじられるものであって、親しい間柄ではその拘束力は弱まる、ということなのかもしれません。少なくともそういう読み取りは可能だと思います。語用論的な観点から「バカ」という言葉を考えることも、いずれ改めて行いたいと思っています。

言った側の主観的な判断として「バカ」をとらえる

 すでに述べましたように、『新明解』は上記の第三版以降も版を重ねて、現時点では第八版まで出ています。この間にかなり大きな改訂もあって、新設された「運用」欄はすでに引用しましたが、語釈のほうは以下のようになっています。

[一]―な
①記憶力や理解力が世間一般に比べてひどく劣っているととらえられること(人・様子)。
②社会通念としての常識にひどく欠けていること(人・様子)。
③どう考えても不合理で、納得できないと思われること(様子)。
④「ばか貝」の略。
[二]造語
普通では考えられないほど、程度が極端であること。

山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第八版』

 ①と③から「常識を超える」という表現が消えています。そしてそれぞれ「世間一般に比べてひどく」と「どう考えても」に置き換えられ、文末に「~ととらえられること」「~と思われること」という言い回しが使われています。
 この変化は何を意味しているのでしょうか。
 「常識を超える」という表現が消えているだけならば、同じ言葉が3回も出てくることを回避しただけだと単純に考えることができます。①の「世間一般に比べてひどく」も、③の「どう考えても」「納得ができない」も、要するに常識という基準・規範から逸脱している、という意味だと見なすことは可能です。
 しかし文末の「~ととらえられること」「~と思われること」という言い回しは、話がそこに留まらないということを示しているように思います。
 おそらくこれらの言い回しは、「バカ」という言葉が「バカ」と言われる側(人にしろ事柄にしろ)の性質というより、「バカ」という言葉をつかう側、つまり「バカ」と言う側の判断を表しているのだと考えられます。
 例えば、AさんがBさんに対して「あなたはバカだ」と言ったとしましょう。この場合、『新明解』の語釈に従えば、Aさんの口から出た「バカ」という言葉は、「Bさんは頭が悪い」ということを単純に表しているのではなく、「『Bさんは頭が悪い』と私は思っている」ということを表しているのだということです。つまり、性質そのものではなくその性質についての判断を表しているということです。
 性質そのものと性質についての判断を分けて考える、ということは、その判断が主観的であることを意味しています。「主観的」といっても、Aさんの全く個人的な感想ということではありません。Aさんは「世間一般と比べ」たり、いろいろな観点から「考え」たりしています。しかしそういう比較や考慮はあくまでAさんの主観の中で行われているのですから「主観的」といえるわけです。
 ですから「バカ」と言われたBさんにしろ、傍で聞いていた第三者にしろ、Aさんがどういう基準や考えによってBさんを「バカ」と判断したのかを理解していないと、Aさんの判断が正しいか間違っているかについては何ともいえません。
 第七版までは判断基準を「常識」という社会的に共有されたものと見なしていましたから、少なくとも同じ社会に生きてさえいればわかって当然なことであって、ですからAさんの判断は客観的(厳密を期して難しい言葉を使えば「間主観的」または「共同主観的」)といえます。しかし第八版では「常識」という言葉を外したため、Aさんがどういう考えでBさんを「バカ」と判断したかは必ずしも明らかではなく、ただAさんがBさんを「バカ」だと判断した事実だけが明らかだ、ということになります。
 こういうとらえ方は、必ずしもAさんが言いたかったこととは一致しないのかもしれません。Aさんからすれば、Bさんが「バカ」だから「バカ」と言っただけだ、ということは十分ありうることです。その場合、Aさんにとっての「バカ」の意味は、あくまでBさんの性質そのものといえます。
 しかしBさんや第三者の側から考えると、それはあくまでAさんがそう思っているということにすぎません。もちろん、その場の状況や文脈で、Bさんが「バカ」と言われても仕方がないとBさん自身や第三者が思えば、その人たちから見てもAさんの判断は正しいということになります。しかし何でAさんがBさんを「バカ」なんて言ったのか、その判断基準や根拠がBさん自身や第三者にわからなければ、「Aさん、怒ってるな」と思うか、「Aさんこそバカだろう」と思うか、あるいは「それはあなたの感想ですね」と言い返すしかありません。
 こう考えていくと、「バカ」という言葉は、言う側にとっての意味と聞く側にとっての意味が一致しない言葉なのかもしれません。これはこの言葉が、第八版の運用欄にあるように「人をののしる時によく用いられる」からなのでしょうか。
 となると、どうしても語用論的な観点からの考察が必要になりますが、それは別の機会に譲りましょう。ここでは『新明解』という辞書がやはり語用論的な観点を重視している辞書なのだということを確認するに留めたいと思います。

『大辞林』の独自性

 続いて、先ほど名前の出た『大辞林』(初版は1988年)の第四版で、「ばか」の項を見てみましょう。

ばか【馬鹿・莫迦】〔梵 moha(愚の意)の転か。もと僧侶の隠語。「馬鹿」は当て字〕
[一](名・形動)[文]ナリ
①知能の働きがにぶいこと(さま)。そのような人をもいう。⇔利口「―な奴」
②道理・常識からはずれていること。常軌を逸していること。また,そのさま。「そんな―な話はない」「―を言うな」
③程度が並はずれているさま。度はずれているさま。→馬鹿に
④役に立たないさま。機能を果たさないさま。「スイッチが―になる」
⑤特定の物事に熱中するあまり,社会常識などに欠けること。「学者―」「専門―」「親―」
⑥名詞・形容動詞・形容詞の上に付いて,接頭語的に用い,度はずれているさまの意を表す。「―ていねい」「―正直」「―騒ぎ」「―笑い」「―でかい」
〔(1)並外れてお人よしなさまを親しみを込めて言う。また遠慮のない間柄の人に対して、その不手際を批判する際に親しみを込めて用いる。「そんなことをするなんて、あいつも―だな」「あの―がいつまで待たせるんだ」 (2)「そんなばかな」の形で、その事態が成立するはずがないという意を、驚きあきれた気持ちを込めて言う。「そんな―な、まだ着いていないの」〕
[二](感)
相手をののしったり,制止したりするとき発する言葉。「―,やめろ」
〔(1)「ばーか」と伸ばして発音すると、相手を軽蔑する気持ちを表す。 (2)「ばかばか」の形で、若い女性が親しい男性に対して、その意地悪な言動などを愛情気持ちを込めて批判する場合に用いる。「私の気持ちを知らないなんて、―」〕

松村明編『大辞林 第四版』

 最後の「ばかばか」についてはすでに触れましたが、「ばーか」なら軽蔑、「ばかばか」なら「若い女性」が愛情を込める、というのはやはり限定しすぎなんじゃないか、と思います。若くなくても女性でなくても愛情を込めて「ばかばか」ということはあるでしょうし、愛情を込めて「ばーか」と言うことだってあるはずです。
 [一]のほうの「並外れてお人よしなさまを親しみを込めて言う」は、私が調べた限りでは『大辞林』のみが指摘していて、これはいいと思います(まさに、遠藤周作の名作『おバカさん』です)。
 ただ、その後に「また遠慮のない間柄の人に対して、その不手際を批判する際に親しみを込めて用いる」とあって、これも確かにそういう使い方があるとは思うのですが、2つ目の用例に「あのバカがいつまで待たせるんだ」とあるのは、少しずれているかな、と思います。この場合、話し手と聞き手がともに待たされているのであって、「バカ」と言われているのは聞き手ではなく、その場にいない第三者のはずですから、「遠慮のない間柄の人」とは限りません。話し手と聞き手がともに嫌っている上司なら、陰で「バカ」と呼ぶことは珍しくないはずです。
 〔 〕内はこれくらいにして、メインの語釈に関して言うと、感動詞としての「バカ」を語義に入れているのが目を引きます。私が調べた限りでは、この意味の「バカ」を独立した形で取り上げているのは『大辞林』と、同書のデータベースを元に作られた『ハイブリッド新辞林』(松村明・佐和隆光・養老孟司監修、1999年)のみです(補足の形で取り上げている辞書は他にもありますが)。私はこの「バカ」の用法をとても重要だと思っています。
 それから「専門バカ」「親バカ」の「バカ」を②の「道理・常識からはずれていること」とは分けて、⑤で「特定の物事に熱中するあまり,社会常識などに欠けること」としているのが『新明解』と違っています。

『三国』の新しい語釈は学力観の変化を反映?

 続いて、『三国』を見てみましょう。
 『新明解』の語釈のユニークさは今やすっかり有名になってしまいましたが、『三国』の語釈も実は結構ユニークです。編集委員の一人である飯間浩明は、『三国』の目指す方向を一言でいうと「『要するに何か』がわかる辞書」だと言っています。
 例えば「にわとり」を他の辞書で調べると、学問上の分類(キジ科)や原種(東南アジアのセキショクヤケイ)などが書いてあります。しかし『三国』の第八版で「にわとり」の項を見るとその手の記述はなく「たまご・肉をとるために飼う鳥。頭に赤いとさか(鶏冠)があり、あごの下にも肉がたれている。ほとんど飛べない。鳴き声は、こけこっこう」となっています。
 また「多い」という言葉を見ると「数や量が、かなりの程度に達する状態だ。こんなにある、という状態だ」となっています。「こんなに」という表現は、曖昧ですが実感としてはよくわかります。こういう点が『三国』の特色になっています。
 「「バカ」の語義(1)」で、ある言葉を人々が使う仕方の「ある程度一般的な共通のところ」がその言葉の意味なのだと私は書きました。私たちはにわとりがキジ科に属することを知らなければ「にわとり」という言葉を使えない、なんてはずはありません。そもそも、生物学者たちが鶏をキジ科に分類するよりずっと前から「にわとり」という言葉は使われていたはずです。にわとりの分類や原種などは百科事典や鳥類辞典などに載せるべきことであって、国語辞典には言葉の意味だけを載せればいいはずです。そういう考えから『三国』はあくまで「国語辞典」であることに徹しているといえます。
 それでは『三国』で「ばか」を引いてみましょう。「豆知識」の欄はすでに引用したので、語釈と用例のみを見ます。

[一]①ものを考える力が弱い〈ようす/人〉。また、誤った考え方をする〈ようす/人〉。おろか(もの)。「―者・―をさらす・―は死ななきゃ治らない・―な犬・―なことをした・―とけむりは高い所にのぼる」(↔利口)
②りくつに合わない〈ようす/こと/ことば〉。「そんな―な(ことが)!・―も休み休み言え」
③つまらないようす。「―な目にあう」
④〔はたらきが〕だめになるようす。「鼻が―になる・鍵が―になる」
⑤〔俗〕程度がむやみに大きいようす。めちゃめちゃ。「そこの焼き鳥が―にうまかった・―な受けようだ・―ほどねむい」
[二](造語)〔俗〕程度がすぎること。「―安(値)・―高い・―受け・―かわいがり・頭に―がつくほどの正直〔=ばか正直〕」〔強調して「ばかっ高い・ばかっ早(ぱや)い」などと言う〕
[三](造語)〔俗〕それだけにかかわってばかりいること。「専門―・仕事―」

見坊豪紀ほか編『三省堂国語辞典 第八版』

 「要するに何か」がわかるような記述、ということで、確かに簡潔ですが、ちょっと物足りない気もします。特に最後の「専門バカ」の「バカ」を「それだけにかかわってばかりいること」としているのは、間違ってはいませんがこの言葉のニュアンスをとらえきれていません。
 ただ、①の「誤った考え方」という表現は面白いと思います。他の辞書が「知能の働き」とか「記憶力・理解力」といった心理学的な表現を用いているのに対し、「誤った」という言い方は、「バカ」と言う側(先ほどの例でいうAさん)の主観の内容をうまく言い当てています。
 しかし『新明解』のように、Bさんの考え方が誤っているということがAさんの主観的な判断であることは表現されていませんし、判断基準の存在にも触れられてはいません。同じ三省堂の国語辞典でも、この点で両者は対照的です。
 ところで、上記の①は第八版で初めて登場したものです。第七版を見ると「りくつに合わない…」という語義の前に、次の2つが並んでいます。

①おろかで、教えてもよく覚えない状態(の人)。「―者」
②頭がかたくて、いくらやっても、言われても、わからない状態(の人)。「―をさらす・―は死ななきゃなおらない」

見坊豪紀ほか編『三省堂国語辞典 第七版』

 ②の「頭がかたくて」という表現はかなり特異です。他の辞書では見かけたことがありません。この一節を除けば、①と②はともに記憶力や理解力の欠如を表していて、大した違いはないように思います。そしてそれらの能力の欠如の原因を単純に脳の出来に帰する人は多そうです。
 しかし上記の②は、脳の出来とかより何らかの思い込みや信念、あるいは誤解や迷信などにとらわれているために、それらに反する事柄を理解できなくなっている、というふうに読み取れます。ですから思い込みなどを捨てさえすれば理解できるようになることが含意されているように思います(もっとも②の用例のうち「バカは死ななきゃなおらない」は、そんなことは死ぬまでできないという意味なのですが)。
 私は、この意味での「バカ」が、特に何か議論しあうような場で非常によく使われているように思います。ですから、バカ学的には非常に重要な指摘だと考えています。
 しかし残念なことに、『三国』の編纂者たちはこれを削ってしまいました。そして第七版の①②は先に述べたように記憶力や理解力の欠如を表す言い方だったのですが、それが第八版では思考力(考える力)の欠如を表す言い方に替えられている。なぜなのでしょう。
 そういえば、昭和が終わって平成になったころ、文部省(現在の文科省)が暗記重視の「詰め込み教育」への批判を受けて「新しい学力観」などと言い出し、主体的な学習や思考力・判断力の育成を重視する方針を打ち出しました。それから30年ほど経っていますが、『三国』の著者たちはそういう学力観が社会にも定着したと見なして語釈を変えたのかもしれません。しかしそのような解釈でも、「頭のかた」さが知的能力のブレーキになって「バカ」と呼ばれるということはあるはずです。

中学生向けの表現

 最後に『例解新国語辞典』の第十版を見てみましょう。

ばか【馬鹿】〈名・形動〉①ふつうの人より頭のはたらきがにぶいこと。また、そういう人。「ばか者」↔利口。類 うすのろ。まぬけ。あほう。
②なにかにうちこんでいる度合いがはなはだしくて、ほかのことができないこと。また、そうした人。「専門ばか」
③ふつうではちょっと考えられないようなこと。「そんなばかな!」「ばかも休み休み言え」
④つまらないこと。くだらないこと。「ばかを言う」「ばかを見る」「出費がばかにならない」「ばか話」
⑤(「ばかになる」の形で)本来のはたらきがうしなわれる。「かぜで、鼻がばかになった」 類 だめになる
⑥程度がなみはずれていること。「上に「ばか」がつく正直さ」「ばかていねい」「ばか正直」「ばかぢから」→ばかに

林四郎監修『例解新国語辞典 第十版』

 先ほども触れましたように『例解新国語辞典』は中学生向けですので、ひらがなが多く、語釈にもなるべく平易な言葉を使っています。
 そんな中で注目すべきなのは「ふつう」という言葉です。これは『新明解』でいえば「常識」ということで、そう考えると、上記の語釈はほとんど『新明解』のものを平易な言葉で言い換えているのだといえます。ただし、最新の『新明解』には④にあたるものがなく、⑤は成句での扱いになっています。

バカの言語学:「バカ」の語義(3) その他の辞書より

◎参考・引用文献
赤瀬川原平『新解さんの謎』 文藝春秋、1996年/文春文庫、1999年
山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第五版』 三省堂、1997年
山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第八版』 三省堂、2020年
松村明編『大辞林 第四版』 三省堂、2019年
見坊豪紀ほか編『三省堂国語辞典 第七版』  三省堂、2014年
見坊豪紀ほか編『三省堂国語辞典 第八版』  三省堂、2021年
飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ』 三省堂、2014年/新潮文庫、2017年
林四郎監修『例解新国語辞典 第十版』 三省堂、

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