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立石 宇ち多゛

 なにかやりきれないことがあったのだ。

 たとえば仮眠室のない職場に連泊せざるを得ないようなことが。徹夜で仕上げた資料が一瞬にして反故にされるようなことが。あるいは人を辞めさせるために工作させられるようなことが。

 いや、もう、毎日と働いて糊口を凌いでいくことそれ自体が。

 末期(まつご)の目、というようなことをいったのは誰だったか。時として人は末期の目、すなわち死者の目を獲得するように思う。ことに徹夜明けの昼最中はそう。ものの輪郭が洗われたようにくっきりして、この明澄感は、あるいは死後の目に近いかもしれないなどと自嘲する。とまれ、自嘲されるうちはうかつに死ねるものではないとも思っている。

 昼下がりに退社したそのときの目とは、末期のそれにほかならなかった。電車の窓外の風景はいうなれば反転世界、行き交う人々にしてもことごとくこの世の者でなかった。その車輌に乗客はほかに誰もいないにもかかわらず、座席に座らず、扉の嵌め殺しのガラスにひとり取りついて、短か日の暮れかかる町並みを高架から眺めていた。

 川を渡るごとに軽くなる、ということはあるだろうか。あるいは薄くなる、淡くなる、透けていくというようなことが。川を渡るごとに掠め取られているのかもしれない。大川にかかる巨大な鉄筋の橋にトラックが行き交い、その下に茫洋として薄の原が広がって、渺渺として風の吹き荒ぶ。曇りなき空の青に、一点の飛行機がそのジュラルミンの腹を煌めかす。眼下の遥か向こうから、丈高い草を掻き分け掻き分けして駆けてくる男があり、追われている、いや追いかけている、と見ていると、やがて立ち止まり空を仰いで呆然と立ち尽くすようだった。大わらわに日々奮闘するいっぽうで、俺ひとりの裁量で事の立ちゆかなくなるなんてことがあるものかと冷笑し、取り澄ますもうひとりの自分がどこかに常にある。事は始まったばかりのはずなのに、もう終わった、なにかもすっかり終わったと安堵する心がすでに萌している。いっそ、なにも始まらなかったでいいじゃないとくつくつと笑い出し、物陰にうずくまったうしろ姿がやおら傾いで、奇怪な踊りを踊り出す。いま、空を仰いで呆然と立ち尽くすアレは、ほかならぬ俺自身の心象風景の俺、と縋るようにひたとガラスに手のひらを置いた。こうしているあいだにも、なにもかもがとうから始まっていて、またなにもかもがとうに終わっているのではないのか。

 ふと若い時分の恥の記憶が蘇った。無縁を決め込んでおっとり構えていたら、あらぬ方向から怒鳴られて、見れば狂犬のような眼差しに合う。俺が呑気に構えているばかりに流れが滞っていた、誰かの苛立ちのタネになっていた、そんなこととはつゆ知らず、あわてて前へ出ようとする、あるいはうしろへかわそうとすると、それがとんだ無様を演じることになって、周囲の失笑を買う。こんなはずではなかった、自分はもっとうまくやれるはずだったと、傲然として上げる視線の先に、ほかならぬいまこの自分が控えている。過去の私の恨めしげに訴えかける相手が、彼にとって未来の自分であるところの私であるというのは、いかにも筋違いではないかと、こちらは憤然とする。俺はね、そんなお前を恨んだり軽蔑したりなんかしないよ、あのときああしていればよかった、こうしていればよかったなんて、微塵も思わないのに。

 なにを怯えている、と自分で自分に尋ねていた。

 押上、曳舟、八広、四ツ木……と電車の停車するごとに駅名を口ずさむ。なにやら意味を帯びてくる気配がある。そんなときこそは末期にあることのしるし。四ツ木からは線路の脇すれすれまで古い家並みが立て込むようになり、またひとつ川を渡るといっそう窓外は寂寥として、我が身は一段と軽くなり、これで俺も完全無欠の幽霊と相成りましたとほくそ笑んでいる。

 立石に近づくにつれ、人か物怪か、わらわらと目につき始める。高架が切れて、いつか電車が地平を走り始めたからとはいえる。踏切の開くのを待つ人々の背つきがなにやら無性に懐かしい。思えば踏切そのものが風化しつつある遺物のようなものである。それを、踏切で渋滞する車や人が、踏切そのものを待ちわびでもするように見えてくる。自分より若い人間はひとりもおらぬよう。窓外のそこかしこに行列が目について、これはどうしたことかと目を剥きながら、電車が駅に停車すると、誘われるようにしてホームに降り立っていた。

 現場へ向かうマイクロバスを待つ集団、あるいは賭場の開くのを待つ集団、とも見紛うような客層である。思えば冬の日没前のこんな中途半端な時間に、これら初老の男たちなにする者ぞとなるのも道理。列のしんがりへ、ネクタイにスーツにカシミアのハーフコートといういでたちに手にはブランドものの革鞄で加わるなんぞは、いかにも木に竹を継ぐ場違いさである。しかし故意にいい落としをするには及ぶまい、先刻から臓物の焼ける匂い、臓物の煮込まれる匂いの、駅前から屋根付き商店街の鳥羽口まで濛々と立ち込めて、男たちはいうなれば蜜に集まる甲虫やら羽虫やらの類にほかならない。

 列は長いが回転は早い。暖簾をくぐると店内は裸電球の二、三ぶら下がるばかりの仄暗さで、むさい男たちがところ狭しとひしめき合って、黙々と串に食らいつく、キのままの焼酎を小さなグラスでちびちびと舐める。悪徳に染まる後ろ暗さを丸い背中に帯びて、いかにもみな共犯者めく。ここへ飛び込むのかと構えていると、白い割烹着を着た、堅気とはとても思われない店の男がドスを利かさぬようせいぜい喉を絞って「アンちゃんはそこね」と暖簾の真下、なかば店の外にあるようなカウンター前の丸椅子を顎で指した。座ろうにも胡麻塩頭に肩幅のある客ふたりに隠れるようにしてある席で、こちらが気後れしていると、カウンターの内にいた同じ白い割烹着の老爺が見かねて客らに、ごめんなさいね、そこにこの人入れるからねととりなすと、客らは思いのほか素直に私の身幅には十分すぎる隙間を開けてくれる。店の主人であろう老爺は、老眼鏡で両目が拡大されるせいか、すっかり髪の白くなった小柄な西洋人に見えなくもない。焼き物の煙と煮物の湯気とで店内は地獄の窯のように逆巻いて冬の寒さを押しやり、店内はひっきりなしに上がる客らの注文の声とそれを拾って復唱する割烹着の男らの賭場の符牒のような声とに湧き返り、静かなる熱狂とでも呼びたいような空気にすっかりこちらは気圧される。さてなににします、と老爺に聞かれて店内見渡すもお品書きなどどこにもない。途方に暮れ、もたつくと叱られそうでびくびくしていると、初めてなら煮込みからいってよ、飲み物は瓶ビールでいいよね、と老爺が道をつけてくれる。それでお願いしますとは答えたものの、職業柄身に染みついた折り目正しい発声の仕方といい、そのかしこまりぶりといい、場違いさに我ながら面食らう。こんなはずでは、と思いかかって、老爺の前に据えられた巨大な鍋の、中身の赤いような紫のような、甘やかな匂いを立てながら煮えたぎるものへはや目を奪われる。おたま一杯のそれが目の前に供されて、こんな馥郁たる香もあるものかと覚えず震えるようで、箸を割り、恐るおそるの手つきで豆腐の角を崩してその一片を口に運べば、これは、ちょっと、いや、などと驚きと困惑とが綯い交ぜになって、要するに感動のあまり言葉も出ない。ついに見つけた、と内心快哉を叫んでいる。

 郷に入れば郷に従えではないが、「あぶら塩よく焼き」「レバタレわか焼き」等々、人生の諸先輩らの注文の仕方を真似て声を上げてみるが、自分の声の艶張りがこれまでさして意識したこともないのにここでは不協和な感じでいたたまれないし、間合いも微妙に間違ってるようでなんとも忍びない。割烹着の男たちがぎろりとこちらを品定めするような目を送るが、やれやれとでもいいたげな面差しの現れるのも瞬時で、下手の注文でもきちんと拾って復唱してくれる。復唱は焼き物担当の耳に入り、これがうんともすんとも答えないので果たしてきちんと注文が通っているのか不安になるが、これがどうして、正確無比を誇るのである。見ればこちらは紅一点、割烹着は着ずエプロンに頭を手拭いで覆った細面で、抜けるように白い肌がのちのち印象に残る。黙々と串を炙っていっさい顔を上げず、焼き上がりのときに「ナンコツ塩よく焼き」と声を上げ、傍の皿へちゃっと置く。割烹着の男がそれを引き取ると、店内見渡して、「ナンコツ塩よく焼き、誰」と聞いて回る。「焼酎梅割り」とこれまた諸先輩を真似ていうと、宝焼酎の一升瓶を脇に抱えた坊主頭が店内を縫って来て、グラスに並々注いで仕上げに梅のシロップをひと差しふた差ししてくれる。酒の回るにつれ、この不愛想な空気が秘湯の湯のように肌へ身の芯へと染み渡っていく。泥んでいく。慣れではなく、酒だ。酩酊こそが免罪符、もう昔からの常連客のような顔をして、注文のトーンから間合いから、調和していくことの心地よさ、ここだよ、俺の帰りたかったところとは、などと涙しそうになっている。


焼き物のうまさはさらなり。


 焼き物のうまさはさらなり。酢醤油に浸る刺しもまた。その店こそは、東京のもつ焼き屋の筆頭に上がる名店「宇ち多゛」であるとはこの時点で知らなかったというのがのちの自慢のタネである。いよいよ調子づいて、「ツル塩よく焼き」と頼むと老爺がチラとこちらをうかがう気配があった。「一見でそれを注文するとはね」とは、先刻から肩触れ合う隣席の先輩。
「ツルってのはなんだかわかる」
「わからないです」
 先輩は呆れて笑う。もう歯がそこかしこ抜けておられる。
「豚の一物。アレが蔓(つる)状になっていて、ちょっとやそっとじゃ抜けないようになってるの」

 たらふく食らってこの値段、と目を剥いた。店を出るとすっかり日は落ちて、空は真紫に染まっていた。先刻までの幽霊が、すっかり気を充填して、二足でしっかり立っている。地面の固いのは冬のせいかと訝りながら。風が走り、踏切を横切る往来は買い物客でそれなりの賑わいを見せている。青果屋の棚に並んだ色とりどりの水菓子の盛り付けが、裸電球の下で、青線の街娼を思わせるどぎつさで輝いている。

 思えばはや、師走であった。



名店「宇ち多゛」

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