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文体練習 vol.3「ドア」

 無機物を主人公に小説を書く、というのはどうだろう。たとえば今まさに目の前にある「ドア」をめぐって。

 むろん、シュルレアリストあたりがすでに手をつけている試みだろうから、いまさら新奇を衒うつもりはない。「ドア」を主人公にするとして、それはどう書かれるべきか、手遊びに考えてみたいまでである。

「このドアは」とするより、「そのドアは」とするべきだろう。

「そのドアは、二〇〇一年にこの家が改築されるのと同時に、二階の長男の部屋の仕切りとして設置された。ありふれた合板製の四方枠使用の安っぽい代物で、安っぽいと敢えて言うのは、まず軽いこと、ノックをするとその音がうつろであること、そしてニスが塗られてはいるものの全体表面がざらついた質感であることのおよそ三点の欠点が挙げられるからである。
「あれからまず十年、部屋の主人が朝に起床してトイレに立つべく開けられると、その後はシャワーやら着替えやらを済ますあいだも開け放たれたままになるのが通例で、一日のうち初めて閉められるのは部屋の主人が外出から帰還してからになるが、家の主婦が干し終えた衣類を部屋の箪笥に収納するなり、寝具を干すなり、掃除に入るなりすれば、その限りではない。主人が小学生の時分なら、帰還するなり遊び場へ蜻蛉返りなんてこともままあるわけで、そうなるとその日初めてドアが閉められるのは、誠に主人の就寝間際なんてこともザラであり、そうであれば一日の開閉は合わせて一回ずつとなるわけだが、学年の上がるにつれ、子どもは塾に通い出し、親の叱言をきっかけに自室に籠ることが増えてきて、さらに年齢が上がれば、勉強すると称して覚えたての悪習に没頭してそのまま寝てしまうなんてことが常態化する。中高生のうちは、開閉組んでその回数は一日平均して四回というのが妥当ではなかったか。ちなみに部屋を出るためにドアを開ける主人は、その都度閉めるというお行儀の良さを、少なくとも家にいる限り持たなかった。
「そのドアが出来たのが部屋の主人が小学校四年生の時分だから、三年間は一日平均二回として計二一九〇回、中高の六年間は一日平均四回として八七六〇回、都心の大学に通うようになった主人が部屋をあとにするまでに、ざっと一万回の開閉が行われた計算になる。開と閉とを別個に数えれば、実に二万回そのドアは働いたことになる。……」

 ここまで書いてから、二万回のうち、もっとも印象深い開なり閉なりの考察に移るというのはどうだろう。いつの開なり閉なりが印象深かったかについて、インタビュー形式で展開したいところだが、はて、そのインタビューは部屋の元主人にすべきか、ドアそのものにすべきか。

「……ぼくにとって一番印象深いのは、もちろん最後に部屋を出る瞬間ですね。もうこの部屋の主人としてはここに戻ることはないかも知れない、そんな思いがドアノブに手をかけた瞬間、込み上げてきまして。ぼくは生来感傷的なタチではないんですが、このときばかりは抑えが利きませんでした。自然にぼくは、心のなかで、ありがとう、と呟いて涙ぐんでいた。ドアをそこにある存在としてまざまざと意識したのはあれが初めてでした。それでぼくはあのとき迷ったんだった。このドアは開け放しておくべきか、それともパタリと閉じて出ていくべきか。インタビュアーさん、ぼく、どっちを選んだと思います?……」

「……忘れもしません。あのときの緊張は。なにぶんわたしにとって生まれて初めてのお勤めだったわけですから。工場ですっかり出来上がったときには、暗い倉庫のなかで、仲間たちとどんな家に取り付けられるものか、飽かず語り合ったものです。豪邸を夢見る者もありましたが、わたしたちはしょせん廉価な量産品です。せめて家がその一生を終えるまでは添い遂げたいものだと、それがわたしたち大半のささやかな夢でした。わたし個人としては、生まれたての嬢ちゃんか坊やの部屋の扉になれることを密かに願っておりました。物憂い昼下がりには、天井から下げられた色とりどりのモールがみどりごの上をゆっくり回転して、かすかにオルゴールが鳴っていると言います。みどりごの澄んだ目が、切り紙で作られた赤い消防車を追っている。手足を宙に掻きながら、ときおり喉の奥から笑い袋のような音を出す。ベビーベッドの柵から覗き見る母親の顔に、時間が澱むようなのを心から祝福するような表情が見られると言います。そんな微小な平和を守る番人でありたいとわたしは願った。夜は夜でみどりごは火のついたように泣くと言います。怖い夢を隔てて上げられなかったことを悔やみながら、せめてみどりごの泣き音が、雪深い集落の夜に家々の窓辺に灯るランタンのような柔らかさとなって部屋の外に漏れるよう、神のようにしてそこに立っていたいとわたしは願った。そしてわたしはいつか出荷されました。そして郊外のよくある建売の一軒家の南向きの部屋のドアとして首尾よく取り付けられるに至りました。さあ、いよいよわたしは初めて部屋の主人に開かれる瞬間を待つばかりでした。わたしは目を閉じました。ドキドキします。小さな足音が伝わってくる。あ、みどりごではないな……。しかしわたしの失望など取るに足りません。子どもだ! 一瞬、癇癪を起こした子どもに蹴破られて亡くなった先達の話をちらと思い出しました。あるいは気の狂った男によって斧で縦に裂かれた先達の話を。どうかおとなしい子どもでありますように。わたしを初めて開けたときの男の子の歓声を、今でもありありと思い出せます。この子はいい子だ。わたしは思いました。元気いっぱいのわんぱくさんだ。繊細で、臆病で、優しくて、怒りっぽくて、スポーツも勉強も上手でない、どちらかというと内弁慶の男の子。この子の瞳の奥に、暗いほむらの揺らめくのが見えたような気がして、わたしはほんの少しだけ不安に駆られもしましたが、じきそんなことは忘れてしまいました。ほんとうに幸せを感じているときは、あえて不吉なことを考えるものだと、これは売れ残りの先達が若いのをつかまえては辟易されるのもかまわずに繰り返した教訓のようなものです。あの瞬間の緊張と喜びさえあれば、ドアはドアとして、いかなるときにも毅然として勤めをまっとうできる。……」

 なるほど、ドアを視点人物として書き出しても、それなりに長編になる気配を秘めているものだな、と確認したところでひとまず筆を置く。このドアも、まさか十数年前に不退転の決意で出て行ったはずの同じ男が、失意の果てに部屋の主人として舞い戻って、日夜呪詛を吐きながら、愚にもつかないようなことを書き散らしてはネットに上げて悦に入るような輩のひとりになろうとは、ゆめゆめ思わなかっただろうな、とほくそ笑みながら。

(了)

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