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無患子(中編)


 大晦日に子どもたちを連れて帰ろうと思う、と知らせると、二親は喜んだ。弟家族なり妹家族なりが泊まりがけで帰省するようであれば、元日の朝に顔を出して、午後に初詣に行ってその足で帰る、と言うと、彼らはもう数年と年始の挨拶には来ない、と言う。聞けば、甥も姪も上がもう高校生になるという。ならば足が遠のいて不思議はない。改めて月日の流れの速さを思う。それでは二日まで世話になります、と決まって、大晦日の夜は二親には久方ぶりの賑やかな夕餉となった。

 元日の朝、車を出すからと二親を誘うも、元日は人出がすごいから、と遠慮される。車で行くなんかやめておけ、と父親は言ったが、下は三歳の子どもを三人連れてとなると、ほかに選択肢はなかった。年寄の忠告を聞いて、山門からはだいぶ離れた住宅地のただなかにコインパーキングを見つけ、そこから歩くこと三十分、山門の前へ抜ける道は行くも来るも数珠つなぎのバスが渋滞を招いており、歩道は参拝客に埋め尽くされて遅々として進まず、気の滅入る光景が出現した。さっそくもう歩けないと駄々を捏ねる次女。トイレに行きたいともじもじし始める長男。わたしも……と長女。次女を抱き上げ、妻は長男と長女の手を引き、人混みのなかへ突入する。どうにか山門をくぐり、境内のトイレにたどり着くも、女のほうが列を成している。緊急は男の子のほうなので、妻に次女を預けて長男の手を引いて男のほうへ駆け込む。……とまあ、正月早々の大童ではあったが、それもこれも無患子のためだった。

 ところが肝心の無患子の実を得ることはかなわなかった。実の特徴を子どもたちに告げ、相変わらずそこばかりは人の気の絶えた神の社の裏手にある石段をわずかに登って、心当たりの場所を家族総出で探すも、ひとつとて拾うことはかなわなかった。無患子の大樹の根方であることは間違いない。見上げれば、雲ひとつない冬空の青に葉のすっかり落ちた枝が網状に広がって、その梢のかしこに黄色い玉が無数について、烟るようである。たしかに無患子だが、手に届く高さにはなく、地面にまったく落ちていないとは妙だった。思わぬ肩透かしを食らってすっかり気落ちした父親だったが、子どもたちは代わりに椎や櫟のどんぐりを手にいっぱい拾って満足するようだった。帽子を被ったのを探すのだと三人して林の奥へと分け入ったのはさすがというもので、子どもは遊びを見つける天才だとつくづく思って父もこれに加わる。

 今年は牛歩の列に加わって本殿も参拝してその帰り、参道といっても丘陵の麓の土地は奥行きに欠けるので、もっぱら境内のぐるりを取り巻いて蕎麦屋やら土産物屋やらその他諸々の店が軒を連ねてあるのだが、観光客の一とあいなってそぞろ歩きの見物するうちに、さる露店の棚を見て、思わず小さく声を上げた。所狭しと並べられたるはほかならぬ無患子の実で、古刹のあやかりものと銘打って、キーホルダーにしたりストラップにしたりとその加工品を売り物にしているのだった。羽根突きに使われるなかの黒い種子は、一つひとつ艶出しされ繋がれて数珠やブレスレットとなり、身につければ無病息災と謳われるそれらの値段を見て目を剥いた。世の世知辛さは今にはじまったことではないが、聖域のお膝元でのこれは露骨に過ぎるのではないか。この発見を家人らには伏せたまま、その売りだなを通り過ぎた。いい歳をして、おのれのうぶな感性を嘲笑われたかのような、妙な傷つき方をしたものだった。
 山門から外れた比較的空いた蕎麦屋に立ち寄り、二親の土産に高菜のお焼きを買って帰路に着いた。

 元日から二日にかけての深更に、妻に起こされる。お義母さんが動悸がすると言って騒ぐので、先刻お義父さんが救急車を呼んだと言う。お義父さん、寝しなはすっかり出来上がってたし、わたしは子どもたちがいるから、付き添いを、と言われて飛び起きると、程なくして救急車のサイレンが近づいて、我が家の前に止まった。母親は足が悪いので、玄関先で担架に乗せられて、救急車のなかへしまわれた。あとから寝巻きの上からダウンを着込んだ息子が、息子です、と名乗って乗り込む。受け入れ先を確定するためだろう、運転席から無線のやり取りが聞こえて、すぐには発進しない。目を瞑り、眉間に皺を寄せ、内奥を探るような神妙な面持ちをして、大きく息をつく母。誰に向かって言うともなく、譫言のようにさる大病院の名前を口にした。そこがいい、と。四十代で子宮筋腫をやったときに入院した病院だった。患者の意向は一応聞き入れられるものらしく、無線のやり取りから話が通ったとみえ、そこへ向かいます、と言われてようやく車は発進した。
 聞き取れないなにかを断続的に呟いている。丹田のところで両手がハンケチを固く握りしめている。死を恐れている、と見えた。なにを大袈裟な、と見下ろす視線はどうにも冷ややかにならざるを得ず、見るに堪えなくて視線を外すが、その置きどころに困っておのずと俯くことになれば、どうにも消沈する家族の悲壮感が醸されるよう。救急隊員は特に気にするでもなく、淡々と脈を取るなどしていた。
 救急病棟での検査は一時間ほどで済んだ。特段の異常は見られないとのことだった。夜に揚げ物でも食べ過ぎたのだろうと思っていると、案の定、年寄りたちは夜に熱い蕎麦を天ぷらを乗せて食ったのだと言う。今すぐ死ぬ人の気配ではない気配がそもそも充足していた。そんなタカの括り方が許されるとしての話だが。検査の結果を報告する若い医師の口吻にも、深刻さは見えなかった。職業的な冷静さとも思えなかった。よくあることに対処する手慣れた感じが仄見えた。年寄りをなだめすかしながら、こちらに同情するとも取れる微笑を送ることも忘れなかった。
 支払いを済まして病院を出ると、まだ明けやらぬ戸外は一様に紫に染まって、人の気配は絶えていた。病院前の往還も、平日は車の行き来がひっきりなしだが、正月二日の未明に車を走らせる酔狂など望むべくもない。年老いた母と二人きりで、世界の終末に立ち会っていた。こういう結末は、想像の外だった。
 病院の待合で待つよう母をうながし、往還と交差するやや幅広の国道まで走って左右を見渡すが、滅亡前夜に動くものといえば信号の点滅ばかり。時ならぬ終末観に駆り立てられるようにして往来の真中に躍り出て、朝ぼらけの空を仰いだ。
 車はしばらく拾えない。
 来ないなら、呼べばいいことだとダウンのポケットをまさぐるも、肝心のケータイがない。家に忘れたか、あるいは病院に忘れたか。
 大したことではない、と心はすっかりなずんでいた。ふと、母が死んだあとに、しみじみと思い出すことがあれば、今日このときのことだろう、とあらぬことを思っていた。

(中編・了)

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