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応答セヨ #6/6


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 鍵を開けたのはスミスだった。
 部屋のなかは真っ暗だった。真夏のことで、室内はサウナのような蒸し暑さで、饐えた匂いが部屋じゅうに充満していた。床には弁当の空き箱や菓子の包装紙などが散乱して足の踏み場もなく、彼らは土足のまま上がりこんだ。
 暗がりに慣れた目に、奥の部屋の中央に置かれたケージが見え始めた。糞尿の匂いが鼻面をなぶって、思わず鼻と口を片手で押さえる。匂いが目に沁みて、涙が溢れ出す。大型犬のねぐらにするようなケージで、身を屈めれば大人でもすっかり収まる容積がある。そこになにかのうずくまる影が見える。かすかな呼吸音が聞かれ、その音に合わせて影の輪郭も上下した。
 スミスはケージの正面を揺らして南京錠のかかるのを確認し、今度は屈みこんでそれに取りついた。ポケットのなかから取り出した二本の針金を鍵穴に挿し入れて、ガチャガチャと一所懸命にやり始める。額に大粒の汗の玉が浮き出し、鼻の先からポタリポタリと落ちた。スミスの背中を凝視していたつもりが、いつしかスミスの夢中でする錠前破りの作業を、その生ぬるい息の吐きかかる近さで真正面から田安はとらえている。これは真実の記憶なのか、あるいは偽記憶なのか、ここへ来ると決まって彼は悄然となった。

 子どもの頃にはなかった例の南北縦貫道沿いの歩道を田安は大股で歩いていた。いくつものLEDライトに煌々と照らされた屋上看板が行手に見え出して、営業時間の終了を知らせる案内と物悲しいメロディとが夜風の間々に聞かれたが、田安は躊躇なく店内に入り、園芸用のスコップと、その一個では不相応に大きいレジ袋を手に出てきた。通りを挟んだ向こうの家並みの上に、マーズ・タワーが見えていた。
 正月四日ではまだ年始のうちだから、この時間に外を出歩く人影はほとんどなかった。それでも用心のため、往来側からではなく、敢えて団地側から田安はアタックすることに決めた。脱ぎ終えたダウンジャケットとセーターと、それからレジ袋に入れたスコップを柵の隙間から向こうへ押しこみ、あるいは投げ入れ、田安は柵の縦格子をつかんだ。日中の無様の轍だけは彼は踏むまいとした。地を蹴って格子の面を両足にとらえると、例の猿の姿勢を取りながら、シャクトリムシの要領で上へ上へと全身を引き上げていく。柵の最頂部に並んだ忍び返しはほとんどが錆び付いて先端が鈍磨しコケ脅しも同然で、時間をかけさえすれば田安にはいずれも難所たり得なかった。
 彼は四十年近い時を隔てて、ついに秘密基地の土を踏んだ。レジ袋を拾い上げると、日中に当たりをつけておいた場所へ移動し、そこにしゃがみこんで力いっぱいスコップを突き立てた。

 カーテンが引かれ、室内を瞬時に光が領した。大丈夫、大丈夫と囁くのはスミスの声らしく、相変わらず田安は南京錠破りの作業を見守っているのだが、逆光で顔が見えないと思うのは、ほかならぬ作業する人間の顔のことだったから妙だった。ケージのなかにうずくまる影の正体を突き止めようとしてスミスの側へ回ろうとするのだが、次第にそれを自分が拒絶するようなのを田安は思い知る。
 ウサギが誰かは、「宝物」を掘り出すことで明らかになる。これが田安の第一の推理だった。はたしてそれらは、予想外に深いところに隠されてあった。穴の縁に身を乗り出して作業するのはもう限界というところまできて、スコップの先が石の感触とは違う、空ろを覆う硬い殻に行き当たって、そういえば自分たちはブリキの茶筒に宝物を入れて隠したことを田安は今になって思い出した。茶筒の胴に油性ペンで持ち主の名が大書きされていて、街灯の明かりの下、かろうじて判別された。「吾桑」「梶野」「森」と三人はあだ名ではなく苗字を漢字で書いていて、少し離れたところに埋まっていた二つの茶筒には、「スミス」「ヤス」とあった。自分がなにを宝物として託したか田安は思い出せない。いずれにせよこれで五つ。しかし彼の推理が正しければ、茶筒は全部で六つ出てこなければならなかった。最後の茶筒には「ウサギ」と記されているはずだった。穴の大きさをひとまわり広げ、さらに腹這いになって手の届く限り掘り進めていくが、やがて砂利ばかり出てくる層に突き当たって田安は諦めざるを得なかった。
 しかし田安はふと思いついて「ヤス」と書かれた茶筒を取り上げた。そのことをすぐに思いつかなかった自身の迂闊さを笑った。ブリキはすっかり錆びついて、手袋をした手で捻ってもびくともしないので、蓋の境目のところにスコップの先を突き立ててこじ開けにかかる。なかば破壊するようにして開いた筒から、ばらばらと中身が広げたレジ袋の上に滑り落ちた。ひとつはキャップの外れた黒のエボナイトの万年筆で、金ペンがひしゃげている。用をなさなくなった祖父の万年筆で、告別式の後の遺品整理のさいに廃棄するものとして分けられた山のなかから田安がくすねてきた代物だった。それから、ヘアゴムで蓋を固定された、鼈甲模様のセルロイドの小箱。これまた祖父の遺品のはずだった。振ると硬いなにかがなかでカタカタ音を立てる。街灯の灯りに透かして見ると、「ウサギ」の三文字がかろうじて読み取れた。手袋を外した指先はひどく震えていて、重労働のせいか、寒さのせいか、あるいは興奮によるものか、定かでない。まるで昨日今日掛けられたような真新しいヘアゴムを外すと、手のひらに小箱を載せ、田安はそっと蓋を開いた。
「これは、お守りだから」
 そういったのは誰だったか。逆光の顔が近づいて、耳元で囁いた。
「ここは僕らの最後の砦だから。なにかあったら、ここにこれを埋めたのを思い出して」
 セルロイドの箱のなかに、銀色に光るものが見えた。鍵だった。そして、先を鉤状に曲げた針金が二本。おそらくはゼムクリップを広げて加工したもの。これで田安は、自分がした推理の一つ目と二つ目の証明を同時に得るに至った。ウサギは実在し、ウサギが貯水槽だか受水槽だかに落としたと思しき鍵までが実在して今や彼の手中にある。
 小箱の中身を摘み上げると、ズボンの尻ポケットにしまい、それ以外の掘り出したものすべてを穴のなかに投げ入れた。穴を塞ぎ終わると、スコップを植えこみの根方に放って、その場にしゃがみこんだ。
 嘘だ。田安は心に叫んでいた。いや、もはや声に出して叫んでいたかもしれない。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ。
「嘘じゃない。助けに来たんだよ。ヤス」
 逆光で黒く塗り潰された顔が歯列の白さを浮かび上がらせて、それで笑ったと見えた。指先で摘んだなにかを差し出されて、よく見るとそれは鍵、これを拾った、だから届けにきた、と影の顔はいった。
 するとケージのなかにうずくまる小山が呻くようにして応える、「ちがう、ぼくはヤスじゃない、ウサギだよ」
「わかった、わかった。お前は、ウサギ、な。この鍵はオレが預かる。何度だって助けにくるから」

 一つの階にベランダが六個で六部屋と考えれば、三階建ての団地一棟につき十八戸、六棟全部で百八戸あり、すべての室の鍵穴に鍵を挿し入れていくのは、子どもの悪戯ならまだしも、大の大人がそれをするのは現実的ではない。まして、鍵を交換されていればそれまでである。田安は力なく立ち上がった。ふらふらと歩き出すと、給水塔の壁に両手をついた。それは氷のような冷たさだった。にわかに熱を帯びたカラダにはそれは恩寵のような冷たさで、田安はそっと寄りかかるようにして右の耳を壁に押し当てた。

ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……

ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……《コチラ地球》……ゴウンゴウン……《応答セヨ》……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……《応答セヨ》……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……

 田安はダウンジャケットを柵の向こうへ放ると、日中の鈍重ぶりなど嘘のような身軽さで柵を飛び越え、ジャケットを拾って羽織り、脇目も振らずに歩き出した。団地六棟を背にして。
「鍵をなくしたから。だからぼくはこんな目にあってる」
「わかってる。だからオレが探しにいったんだ。あんとき貯水槽に落としたんだ。お前、ムチャするから。でもそのおかげで、ここに入れた」
 スミスが笑った。ウサギも笑った。
「開いた」
 同時にスミスの手元でかすかにカチャリと鳴って、南京錠が外れた。出入口の蓋が上げられて、ウサギは恐るおそるケージから這い出した。膨らんだオムツがわずかに引っかかる。
「恥ずかしいよぉ」
 ウサギはまたも呻いた。
 脇道に抜ける前に、田安は立ち止まって背後を降り仰いだ。給水塔が聳え立つ。蒼白の。ライトアップされない高層建造物は、かえって街の明かりを溜めて、全体燐光を発するように見えた。
 スミスはウサギに南京錠の外し方を教えた。まずはこの一本(そういって先を曲げたクリップを光のなかで示した)の先だけ鍵穴に入れて常に開ける方向に力を加えておく。そうしながらもう一本のほうを鍵穴に差し入れて、なかのシリンダーを一つひとつ手前から奥へ押しこんでいく。指先のわずかな感触が頼り。さあ、やってみて。うながされ、見よう見まねでやるものの、てんで勘の悪い生徒のウサギ。スミスは鉛筆と紙をウサギに用意させると、今度はそこに南京錠を大きく描いて、内部構造の絵を書き加えていった。この無骨な金属の塊のなかに、そんな繊細な構造が仕組まれているとはにわかに信じられないウサギ。スミスの描いた絵をイメージしながら、再度、再々度と、ウサギは錠前破りに挑む。
 田安はジグザグに路地を抜け、大通りに出た。駅のほうへしばらく辿り、途中古い街道を左折して数百メートルもすれば、今は叔母夫婦の住む彼の生家である。
 命を守るためにそれは必要なことだった。いや、そんな大袈裟なことではなかったかもしれない。ウサギにはウサギ小屋こそふさわしかった。お前は鍵をなくした。それは人としてふさわしい振る舞いではない。人間未満の者に人間としての扱いは不要である。それは抗いようのなさにおいて、神の声と等価だった。人間なら嘘はつかない、人間なら忘れ物はしない、人間なら親のいうことに背かない。だからお前は人間ではない。そして、ウサギがウサギとして振る舞う限り、それ以上の心身の危険に晒されることはないはずだった。しかしそう考えるウサギはあまりに楽天家に過ぎた。人は相手を畜生と見るや、いとも容易くその命を奪い得るものであることを、幼いウサギの脳はよく理解しなかった。むしろスミスのようないわば部外者に、それは自明と見えただろう。
 案の定、生家は施錠されている。田安は叔母から鍵を受け取るのを忘れていた。インターフォンを鳴らせば、寝入りばなだろうとなんだろうと叔母は喜んで駆けつけただろう。しかし彼はそうはしなかった。尻ポケットを探ると、例の鍵を取り出して、鍵穴に挿入した。はたしてそれは難なく回った。

 それは彼の深層の記憶という記憶のすべてにかけられた鍵の開いた瞬間でもあっただろう。ウサギの手にした南京錠が開いて、「開いた!」と破顔して向けたその顔は、幼い田安にほかならなかった。そして彼の監禁劇は、団地のどこかの一室ではなく、まさにこの家で演じられたものだった。マーズ・タワーをメルクマールとするあの秘密基地の由来にしても、事実は彼の偽記憶より古いものだった。あそこは小学校低学年の頃から鍬原と田安の二人だけの秘密の遊び場だったのであり、田安がウサギであった時分の闘いは、五人の「仲間」と秘密を分かち合うよりずっと以前の歴史なのである。むしろ、闘いに勝利した記念として、あの「宝物」は埋められた。仲間の誓いとしてなどではなく。鼈甲模様のセルロイドの小箱に収められてあるものの意味を、鍬原と田安のほかは知る由もなかった。なんとなれば、吾桑も梶野も森も、いつも三人でつるんで弱い者いじめをする土地の嫌われ者だったのであり、鍬原と田安の秘密の遊び場をどういう経緯か嗅ぎつけたもので、以来無理矢理五人の秘密基地とされたに過ぎなかった。そうしたいっさいが、かつての生家の玄関の扉に取りついて嗚咽する田安の脳裏に次々と明るみになっていった。父親が憤然として息子を見た。その視線の意味を息子はとらえかねた。暴力は振るわれなかった。なぜなら父親はそれは人未満のすることだといって侮蔑したのだったから。躾の名において、彼のなかではすべて整合性の取れたことだったのだろう。あとは別室で、おそらくは妻に対して、長時間に渡って気の狂ったような咆哮を浴びせ続けたのであったが、記憶を辿るもなにも、もとより息子の耳には意味を成さない雄叫びだった。ほどなくして、一家は逃げるようにしてこの土地を離れた。おそらくは鍬原の失踪はこれに絡んでいる。原因なのかもしれないし、結果かもしれない。田安は決然として立ち上がった。

 柵を越える際、ダウンジャケットの裾が忍び返しに引っかかって、田安は一瞬敷地の側へ宙吊りになった。縦格子をつかむ直前でジャケットの破れる音がして、田安のカラダは横転して胸と腹から地面へ落下した。にわかに雪の舞うようにして、あたりにダウンジャケットからはみ出した羽毛が散乱した。柵に身を打ちつけたもので、落下の際に凄まじい音が立った。かまわず田安は立ち上がった。背中を強く打ったせいで呼吸困難となり、何度か大きく咳きこんだが、それだってかまいはしなかった。潜水艦のハッチのような、給水塔の小さな出入口の鉄扉に取り付くと、そこに掛けられた南京錠を、尻ポケットの例のクリップ二本でカチャカチャやり始めた。
「なにしんの、そんなところで」
 いつのまにか柵の外からなかを覗きこむ人影があった。人影は一つや二つでなく、見れば団地の出入口からもわらわらと吐き出されて、さらにはベランダというベランダからも、満遍なく誰かがこちらを覗き見ている。街灯の下に見る人影は、日中に目にした着膨れ老人たちで、彼らは次々に柵のぐるりに取りついて、田安をどやし始めた。
「お前は、昼にもいたな」
「そんなところで、なにしてる」
「お前は泥棒か」
「泥棒だろ」
「帰れ、帰れえ」
「帰れ、帰れえ」
「帰れ、帰れえ」
 ……口々に田安を責め立てながら、手にした杖や拾った石やで柵をいっせいに叩き始めた。しかし田安は慌てなかった。焦らなかった。師の教え通りに沈着冷静を保って指先と耳の神経を研ぎ澄まし、錠前破りに集中した。やがてカチリと音を立ててそれは開く。田安はその小さな鉄扉を潜った。

ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……

 内部に入るなり、田安を襲ったのは予想外の熱気と湿気だった。それから甘い匂い。子どもの頃に遊園地で嗅いだ、綿飴製造機の周辺に漂っていたあの匂い。踏み出した足が内部の床に着地するなり、ウォーターベッドを踏むような感触を得てふわふわと安定しないが、両腕の届く範囲に拠り所もない。壁越しに聞いてきた規則正しい音にしても、それはたとえばモーターがポンプを作動させるとか、ポンプが水を上へ送るとかの、そうした機械音の類ではなく、なにか巨大な生き物の内部で聞く拍動めいていた。ヨナもピノキオも、さぞかしこのような体験をしたに違いない。周囲をずるずると、これは巨大な蛇が取り巻くような音がして、上へ上へと上がっていくようである。内壁のどこにも明かり取りは穿たれておらず、闇の重さを感じるくらいのものだった。田安は懐からスマホを取り出すと、内蔵のLEDライトを点灯して翳した。
 足元から内壁から濡れているようだった。びっしりと赤い蔦状のもので覆われているが、拍動めいたくぐもる音に合わせてそれらは全体脈打つように見えた。濡れているのは血管から染み出す組織液のせい、と見るのが妥当だっただろう。田安はすぐにも、自分が得体の知れない生き物の内部にいると感じた自身の直感の正しさを思い知った。周囲に蠕動するようなのは、内壁から生えた襞というか薄い膜のようなもので、これがさながら螺旋階段のように頂上まで続いて、それが下から上へとゆっくりと回転しながら這い上るように見える。
 これにも田安には既視感があった! 螺旋の動きに合わせて、彼は次第に眩暈を得ていった。その感覚は、彼には懐かしいものですらあった! つい最近診断された病気に由来する眩暈などではなく、何十年来と彼の焦がれたそれ。あるいは事あるごとに彼を悩まし続けたそれ。螺旋の中央が輝いて、こちらを覗きこむ人影を田安は認めた。それが何者であるかは、田安にだけは判然としている。彼は躊躇なく壁の動く螺旋に取りついた。
 そんなことはどうでも、その瞬間に、給水塔を中心として半径数キロに渡る圏内の電気系統および通信がすべて遮断され、いっせいに照明が落ち、あらゆる電気機械が停止し、車のバッテリーは上がり、スマホもなんの反応もしなくなったのを、田安は知らない。給水塔のぐるりを取り巻いた着膨れ老人たちが、一人また一人と鉄柵を打ち鳴らすのを止め、見上げて呆然と立ちすくむのを、田安は知らない。今この瞬間、給水塔の真上に降りてきて、その中央を給水塔のてっぺんに触れようとする黒くて丸い円盤状の影が、直視する者らことごとくの網膜を焼く光を放ったのを、田安は知らない。
 田安は回転に身を任せている。世界は回る。私も回る。回転の轟音のなかで、静止する一点を見つめている。回転の中心にあるものが、宇宙の絶対平和であることを、田安は確信する。生もなく、死もなく、一もなく、多もなく、ゼロですらなく。
 このところ、忙しく働きすぎたからな、などと田安はあらぬことをつぶやいて、自嘲した。

 もうすぐ、君に会える。

ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……《コチラ地球》……ゴウンゴウン……《応答セヨ》……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……《応答セヨ》……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……

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