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ブルーベリー

「シフォンにブルーベリーがたくさんついてる」
 下の娘がいうのを、野崎は気にも留めずにいた。シフォンに極力近づきたくなかった。それは忌避の感情にほかならなかった。なぜなら、犬の死が近いと野崎は予感するから。

 腹を撫ぜていて、しこりに気がついた。気がついて、野崎は暗澹となった。犬にとっては監禁生活と変わらぬ十年が、いまさら思われたのである。長男がダダをこねるのへ、きちんと世話をするならと飼うのを許したのだった。近所からもらわれてきた雑種犬だった。しかし息子が犬に情熱を示したのもほんの数ヶ月で、あとは母親に任せきりになった。そんなことは織り込み済みだったくせに、ことあるごとに犬のことで野崎は息子を難詰した。それとていまは昔、庭に鎖で繋がれ、椀の残飯を啄みにくる鳥どもにされるがまま日がな一日露土に寝そべる姿は、数年来の風景と化していった。妻が体調を崩しがちになってからは誰も犬を散歩にやらず、かまうのはもっぱら恥じかきっ子の幼い娘ばかりで、野崎は休みの日に時折庭を覗いては、あれでは脳も腐ろうと独りごちて目を背けた。俺はいっさい世話はしないと啖呵を切ったのは、息子の教育の一環のはずだった。しかしいまとなっては居直り以外のなにものでもなかったと野崎の心は疼く。自分もかつて犬を激しく所望しながら、ほどなくして世話を放擲した過去があった。犬や猫に耽溺する嗜好を生来持ち得ないのを、野崎はよくよく自覚している。

 真夏の日盛りだった。
 そこに死のあるときの静かさとは格別である。広くもない庭の木々の葉が旺盛に繁り、緑に光りながら涼しげな影を落とす。影の真中に犬小屋はあり、椀の残飯を漁りにくるヒヨドリらも、それを意に介さず傍に寝そべる犬の後ろ姿もいつもと変わらぬながら、時間の澱みのあり方に、野崎はなんともいわれぬ違和を感じた。限りなく本物に近い贋作の細部を調べる目で眺めていると、やがて犬が呼吸をやめているのを見て取った。

 長男は部活、妻と娘は妻の実家で、家には野崎しかいなかった。子どもらの戻るまで放置しようかと思ったが、さすがにこの真夏に何日と骸をそのままにしておくのは得策でないと思い直す。庭に出てみると、たしかに犬は死んでいた。かすかに開いた瞼から覗く眼球は濡れて光を留め、そこへ入れ替わり立ち替わり出入りするのは翡翠蝿ぎんばえの二、三匹。犬に触れたくなかった。そうはいっても始末をつけなければならぬ。役所に電話すると、方々回されてから、清掃センターが請け合うという。いまから引き取りにいくから、ビニールか段ボールに遺骸を入れておくよう指示される。処分料三千円。野崎に迷いはなかった。後日、一連の振る舞いについて妻や子らからは非難轟々だったわけだが、それはまた別の話。

 物置小屋から畳んだ段ボールを引っ張り出して箱を作り、なかへ投ずる。触れたくないので、鎖の根本を外し、鎖ごと処分するつもりで両手に掲げ宙吊りにした。その刹那、ぱらぱらっと露土に落ちるなにかがあった。ひとつやふたつでない、けっこうな数の礫が散らばって、野崎の老眼のはじまった目に、それはブルーベリーの実と映った。この期に及んで、先日の娘の報告が思い出された。試みに手にした鎖を揺さぶると、さらに礫は落ちた。ひとしきりそれをしてから遺骸を箱に収めると、野崎はしゃがみ込んで足元を間近に観察した。それはいかにもブルーベリーの実に違いなかった。が、やがてそのうちのいくつかに何本と肢のようなものが生えていて、これが虚しく宙を掻くのを認めて野崎は怖気を震った。庭履きの踵で踏みつけると意外な硬さを示し、体重を徐々に載せると臨界点にきて、プッと音を立てて炸裂して、汁を飛散させた。そのときは気がつかなかったが、風呂に入るさい、白のスエットの裾が臙脂色に汚れているのを、野崎は認めることになる。

 後日調べて、それがマダニだったと知る。なにがおぞましいといって、おのれの軀が何十倍に膨れるほど血を吸って、はち切れんばかりになってからころりと宿主から剥がれ、剥がれて逆さに着地しようものなら身動き取れないまま死に至るという、彼ら本能の業の深さである。致死性の感染症をもたらすとかで、昨今話題になっているらしい。

 その年の夏は長く、十月になっても暑さは小康しなかった。寝苦しい夜が続いた。妻はいよいよ臥せがちで、年内に大きな手術を受けることになっていた。その妻の加減のいいときで、休日に居間のソファに二人してくつろいでいて、硝子戸のむこうの庭を眺めながら、しばし言葉はなかった。犬はもういない。思うことは同じだったろう。
明音あかねが妙なこと訊くのよね。ブルーベリーにはあしがあるのかって」
 ふいに妻は、絶えて久しい笑みを浮かべていった。
「二階の踊り場にブルーベリーが落ちてたっていうのよね。そのブルーベリーにはあしがついていて、明け方にママの部屋のドアの隙間から、たくさんたくさんよちよち歩いて出てくるんですって。おトイレに起きたときに見たんだと。こうも暑さが続くと、妙なものを見たり聞いたりするのかも知れませんね」





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