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行動を伴わない知識は未完成である

遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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私が住む高島市の出身で、近江聖人と称えられた「中江藤樹」という江戸初期の陽明学者がいます。

陽明学では「知行合一」と呼ばれる命題があり、「行動を伴わない知識は未完成である」として実践が尊ばれています。

これにまつわる本人の逸話も色々とあるのですが、弟子の馬方又左衛門という人の逸話があります。

河原市に又左衛門という人がいました。

ある日、又左衛門が河原市から30㎞ほど離れた榎の宿まで、加賀の飛脚を馬に乗せていきました。
仕事をすませて家に帰り、馬を洗おうと思って、鞍をおろすと、財布が1つ出てきました。
見ると、中に二百両の大金が入っています。

又左衛門は驚いて
「さっきの飛脚が忘れたのに違いない」
と思ったので、直に疲れた足で榎の宿へと、引き返しました。
ハアハアと荒い息をしながら、早速飛脚に会って詳しく尋ねると、やはりその大金は飛脚のものだと分かり、財布をそのまま返しました。

先ほどから、お金がなくなったことに気づいて、死ぬほど心配していた飛脚は、涙を流して喜び、
「もし、この二百両を亡くしたら、私の命がなくなるばかりか、親、兄弟まで重い罪になるところでした。このご恩は決して忘れることができません。本当にありがとうございました。」
と言って、別のお金を15両出して、お礼を渡そうとしました。

ところが又左衛門は、びっくりした顔をして
「あなたの大切なお金をあなたが受け取るのに、何で礼がいりましょう。」
と言って、手を触れようともしません。

いろいろ話しても、一向に受け取ろうとしないので、やむを得ず、10両、5両、3両と減らし、しまいには1両の半分の二分にして、
「せめて、これだけは受け取ってください。そうでないと、私の気がすまないので、今夜は眠れません。」
と言いました。

「それほどおっしゃるのなら、今ごろはゆっくりと休むところをここまで引き返してきた駄賃として、銭200文だけいただきます。」
と言って、たった200文を受け取り、そのお金で酒と肴を買って、宿の人達と酒を酌み交わして、良い気持ちになって帰ろうとしました。

そんな馬方の様子に心を打たれた飛脚は、
「あなたは私の命の恩人、どこのどなたでございますか。せめて名前なりともお聞かせください。」
と、たずねました。

すると馬方は、
「別に名乗るほどの者ではございません。ただ、私の近くの小川村と言う所に、藤樹先生というお方が居られて、毎晩、村の者達に、ためになるお話を聞かせてくださいます。私も時々行って、お話を聞くのを楽しみにしております。親には孝行をし、自分の仕事を大事にし、うそをついたり、人の物を取ってはならぬとお話になります。それで、今日も自分のお金ではないので、届けに来たのです。」
と言って、ニッコリと笑顔を残して帰っていきました。

私の家から車で5分ほどの所に河原市の集落があり、馬方又左衛門の石碑があるので、藤樹先生のことを学んだばかりの長男に見せて又左衛門の話をしていました。

長男は「馬方又左衛門はスゴいなぁ」と言うので、少し注意をしました。
この話で肝心なのは、藤樹先生が伝えた教えに又左衛門が忠実に従った結果、賞賛される行いになったということです。
したがって、もしスゴいというならば、又左衛門でなく、藤樹先生でもなく、藤樹先生の教えだということです。

現代のビジネスシーンでもそうですが、何か業績を残す人がいるとその人だから出来た、と人にフォーカスしがちです。
しかしインタビューしてみると、その人も誰かからの教えや読んだ本などから得たセオリーに忠実に従った結果だと答えていることが多いものです。
多くは、ピーター・ドラッカーフィリップ・コトラーの理論ですし、星野リゾートの星野佳路会長が話されると大体このあたりの名前が出てきます。

人にフォーカスしてしまうと、「あの人だから出来た。自分は出来ない」となりがちで、いつしかその人が神格化され、カルト化していきます。
そうではなくて、教えや理論に従えば同様の結果を出す確率が高い、という再現性があることを前提にする必要があります。

私たちは本を読んだり、セミナーで学んだりして、「知る」ところで終えてしまっていることがしばしばあります。
「実践」して上手くいけば「知る」ことで得たものが血肉となりますし、上手くいかなければ「知る」ことが不十分か、「実践」への落とし込みが不十分だと分かり、改善に繋がります。

「知行合一」はまさに現代でいうところのPDCAサイクルではないでしょうか。

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