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普通、自由、自分らしさ、生きるって何?

どうしてみんなは”普通”に生きていけているの?
どうしてやるべきことと遊びをうまく両立できるの?
どうしてみんなには長く続けてきた趣味や好きがあるの?
どうしてそんなに人と毎日一緒に過ごしていてもストレスを感じないの?
どうして毎日誰かと一緒に料理をしよう、勉強しよう、遊ぼうって思うの?
どうしてすぐに質問とか冗談を返して楽しく会話を続けていけるの?
どうして他人と’友達’っていう関係になれるの?
どうしてそんなにやりたいことと未来への期待に溢れているの?
どうしてそんなに何かに熱中できるの?
どうして過去と今と未来の自分を信じられるの?
どうしてそんなにすぐに物事を決められるの?
どうして自分の思いや考えを言葉にして躊躇せずに発することができるの?
どうして毎日工夫して料理をしたいと思えるの?
どうして旅行に行きたいとかそこに行きたいと思うの?
どうして明日も来月も楽しい日々が待っていると思えるの?

どうして、生きたいという思いが持続するの?

上手に社会に適合するためにやるべきこと

分かっている。

完璧主義は適度にして効率よく物事を進めた方がいいことも、1人でタスクに追われるのではなくて誰かと日々会話をして刺激を受けた方がいいことも、家族以外の他者との関係に居場所を見つけていかないといけないことも、過剰な心配に飲み込まれずになんとかなるさ精神を持っていたほうがいいことも、できないことはできるように勉強と練習を積み重ねるしかないことも、今日を振り返る時にできなかったことではなくてできたことにフォーカスした方がいいことも、他人と比べるんじゃなくて焦らずありのままの自分を受け入れてあげればいいことも、できないという捉え方は私の認知によるバイアスであることも、適度な運動と睡眠が大事なことも、人生楽しいことばかりではないことも、ネガティブ思考は捨てて自分に自信を持って努力を積みかねて前に進みつづけなければいけないことも。

全部、全部全部全部、分かっている。
これまでたくさん調べて考えて、上手に社会化しようとしてきたから。
でもどうしても、こうして心がマイナスの感情でいっぱいになってしまう。
存在し続けられる自信がなくなって、生きる術を求めて心が迷子になる。

今の私の状況

私は8月から、留学生活をスタートさせた。
新しい出会いと価値観と学びの中で自分を変えたいと思って、
院生として研究を極めていくための知識とスキルを磨きたいと思って、
私なりに全力で走って、24歳にしてようやく実現した留学生活という挑戦。
HSS型HSP的でINFJ型的な”私らしさ”も受け入れていけると思った。
そんな私の”良さ”を再発見して、個性として胸を張っていけると思った。
実際、こっちに来て10日間ほどはうまくいっている気がした。
日々ちゃんと楽しくて、精神も落ち着いていて、安心した。

でも、まだ3週間しか経っていないのに、結局ここに戻ってきてしまった。
社会と関わる様々な局面で、楽しさより惨めさが勝ることが増えた。
そして日本での生活と同様に、近づいてくる”湖の底”に怯える日々の再開。

今の憂鬱の原因

文化的背景の違う人との関わりを継続していくには、日本以上の社交性とか自分の言語化とか質問力とか気軽に話せる話題とかフッ軽さが必要なのだと気づいた。
個人と社会の関係は、グローバル社会とか国家といった単位以前に、身近なコミュニティへの所属と相互承認が基盤となるものなのだ。
みんなにある個性、主張できるような人間的魅力が、私には見当たらない。
複数人で話している時、私はいなくていいなぁって口を閉じてほほ笑む癖。
始めは封印して、自分を変えるぞと頑張っていたけど、今は会話に参加するエネルギーと勇気が出てこなくなってきた。
英語力の問題以前に、英語に変換する言葉がそもそも出てこない。
みんなの発言から会話の仕方を学ぼうと頭をフル回転させるけれど、
言葉が浮かんできた時には話題は全く変わっていて。
仲良くしてくれる人はいるけれど、タスクに忙殺されて遊びを削っていくうちに、日本の生活と同じく疎遠になっていくのだろう。

私の思考力、処理能力、アカデミックスキルにも疑問を感じざるを得ない。
授業の内容は本当に楽しいのに、タスクが効率的に処理できない。
授業外のグループワークのミーティングでは発言ができない。
恐る恐る発言したことも、なぜか私だけ議論の文脈からずれてしまう。
そこそこの理解度でうまい具合に表面的な発言ができるわけでもなければ、
深い理解と思考に基づいた示唆的な発言ができるわけでもない。
私はこれまでの教育で一体何を身に付けてきたのだろうか。

生活の質を高めるためのアクションも少ない。
みんなには”普通”の食事の質へのこだわりというか、質を高めていきたいという意欲というか、アイデアというか、エネルギーというか、それがない。
美を極めたいという意欲もなぜか湧いてこない。
他の子の話を聞くと、自分がただ恥ずかしいというか無能だなと思う。

私のエネルギーはみんなとは違う別の部分で、別の方法で消化されている。

変わりたいけど変われない?変わろうとしていない?

分かっている、こんな風にくよくよしていては何も変わらないことは。
マイナス思考なんて封印して、切り替えてひと一倍努力した方がいい。
私はもう24歳で、同世代は社会人として立派に働いている。
私は私のキャリアのために、ここまで来たのだ。
逆境に身を置いて、息抜きをしながら生きていく、そんな"普通でその人らしい生き方"をする自分に変わるためにここまで来たのだ。

でも私が"私らしさ"として認めてあげたい要素は現代社会と相性が悪くて。
’弱い’、’暗い’、’非効率’、’まじめすぎ’、’細かすぎ’、’繊細すぎ’、’味気無い’、’遊ぶのが下手’、’話題が重い’といった負のイメージと容易に結びつく。
いや、そんなレッテルを貼っているのは自分自身なのかもしれない。
人というものは、私にとっての”当たり前”ほど他人に関心なんてないから。

でも、どうやって毎日をやり繰りすればいいのか本当に分からないのだ。
得意なスポーツがあるわけでも、きれいな言葉を綴れるわけでも、絵が描けて音楽が奏でられるわけでも、美容に詳しいわけでも、特定の推しがいるわけでも、極めた何かや成し遂げた何かがあるわけでもない。
ただただ、小中高大と日々必死に考えて、社会に適応して、それなりに楽しむときは楽しんで、死にたい時に死なないように生きてきただけなのだ。

自己と社会の間にある距離

自分を自分で認めてあげることは、ある程度できるようになったと思う。
でもふと社会を俯瞰した時に、私の客観的価値の低さに身震いする。
自己承認と社会的承認のギャップをどのように解釈すればいいのか。

早くどうにかして、人や社会にとって価値のある何かにならなければ。
焦るべきではないことは分かっているのに、焦りと不安は増大する。
外向きにも内向きにも何も価値創造ができていない。
他の年下の留学生たちは、なんてしっかりしているんだろう。
彼ら彼女らより多く生きた3、4年の間、私は一体何をしていたんだろう。
人付き合いのスキルも終わっている。
誰かとの繋がり方、縁の継続させ方、話したい意欲の持ち方、適度に信頼する方法、すべてが私にとって疑問であり、どこかに方法論を求めてしまう。
既存の友達をちゃんと信頼して、何気ない連絡ができるようにならないと。
新しい縁をちゃんと継続させて、コミュニティへの所属感覚を持たないと。
自分の内面に思考を巡らすより、外の世界に興味を広げていかないと。

分かっている。
変わりたいといいつつ、変わるための努力が足りていないからダメなんだ。
小さな目標さえも達成できていない私は怠惰なだけ。
私が受け入れた性格診断の結果に満足して、それを言い訳にしているだけ。
自信のなさと臆病さの裏に、私は特別とかいう自信が潜んでいるのだろう。
面倒くさい、扱いづらい、面白くもない、被害妄想しがちな24歳。
そうやっていつまでも言い訳をして、怠惰な生活を送っていればいい。
何も成し遂げることなく、他人の幸せに貢献する側に回ることもなく、
自分に満足することもなく、一生そうやって病んだ心を抱えて、社会の端っこで、自分に対して愚痴を言いながら、効率悪くてつまんない人生を送るのだろう。

分かっているけど、その先どうしていいのか分からない!
”普通”の方向への意欲とエネルギーもすぐに途切れてしまう。
だから焦って焦って、自分で自分の首を絞めるように責め立てる日々。

今日も人知れず、「心の叫び」を綴る

私の価値はどこにある?
私の未来への期待と希望はどこにある?
私が信頼している”友達”って誰?
誰にも助けを求められない、求め方を知らない私の、必死の心の叫び。
1か月後には、このnoteを笑顔で読み返せますように。

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