自己表現としての言語化とは?
さて、前号までに自分自身と自分の分離について書いてきました。
なぜ分離してしまうのか?
の問いの答えは、ズバリ!!
自分ことをあなたにとってふさわしい言葉認知し、
それを外に向かって自己表現する言葉を持っているかどうか
つまり、あなたが、
何について自己表現したら良いかが分かれば良い
ということを書きました。
私のところでは「リスト化の極意」というやり方で
色々なリストを書いてもらいます。
その人自身(魂)とその人(肉体)のことを繋げていく課題に取り組んでいただくのですが、
その過程でやっぱりみんな苦しんじゃう😢
厳密にいうとその書き出しで、
苦しんでしまうことさえも、その人の成長に必要なことのひとつ
なのでその苦しみは決して誤りではないのです。
でもそうは言ってもやっぱり苦しいから、きついなって思っちゃう。やらなくなっちゃうんです。
書き出しが苦しくなる本当の理由
そうやって書き出しや自分と向き合うための所作が苦しくなる人には共通点があります。
多くの人がこの時点で感じてしまう書き出せない理由は、
自分がダメだから
私にはできない、無理なことだから
語彙がないから
文章を書くことが苦手だから
自分の字が汚いと思っていて、見るのが嫌だ
書いたり消したりの繰り返し作業が嫌だ
などでしょうか。
でも実際のところはだいぶ違うんですね。
上の箇条書きを見ていて感じることはありませんか?
それは、どの項目についても、
基準がよくわからないという点です。
この書き出した、
もしくはずっとそう感じている言葉の
選定基準、評価基準がわからないまま、
ただそう思うことによって、
やらないでもいい理由をなんとか探そうとしている
ように見えてしまいます。
実際のところ、本人にはこんなことを考える由もないと思います。
そもそもこういう書き出しをした時に、
このような考えに至ることが起こらないんですね。
だから、
客観視できない、
自分がよくわからないまま、
何を表現したら良いかも見えてこずに、
自分自身がわからなくてぐるぐる🌀してしまうことが多いのです。
では実際のところ、書き出しや課題が辛い本当の理由はなんでしょうか?
それは、
自己肯定感という言葉に振り回されている
そのことによって自分自身の中身を常用的に自ら否定している
自分を否定しているので周りにも自分の行為にもジャッジが厳しくなっている
場合によってはそれらが静かに恨み嫉みの意識に変わっていて、それに気づいていない
ので書き出すことがだんだんと苦しくなってしまうんですね。
もし、なんとか書き出すことができたとしても、基準や根拠、核心のない曖昧で抽象的な、
誰でもいいそうな言葉になってしまう。
そこからまたさらに
今やってることには価値がないのではないか
自分のできること位、誰でもできるものだ
そんな自分にはそもそも価値なんて無いのでは
と、どんどん「自己肯定感」の奴隷になって低い低い見積りを自分に負荷してしまうのです。
自己肯定感の奴隷から抜け出す
それにしても流行ってますよね。
自己肯定感だけじゃないありとあらゆる
自己〜(感)と言う言葉のシリーズ。
例えばどんなものがあるでしょうか、
自己肯定感
自己重要感
自己否定
自己卑下
実は、
これらにまつわることばかりを言語化しているから、人生が好転する支度がいつまでも整わないのです。
では、
どうしたらこの自己肯定感の奴隷状態からぬけられるのか?
それは、
自分の言葉
つまり
自分の定義を持つこと
意外にありえないんです😭
次号では、
自分の定義をもつことについて、
かいてみますね^_^
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