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「ナチスはいいこともしたのか」書評 やっぱりあいつらはええとこない【基礎教養部】

やっぱり,なんだかんだ演出が上手くてかっこいいのは認めざるを得ない.(ナチ党党大会における写真)

ナチス.親衛隊の黒制服やニュルンベルク党大会に代表される無駄に洗練されたデザインや,そして全世界に向け戦争を吹っかけ,もう一つの悪の巨頭ソヴィエト連邦と絶滅戦争をやらかししめやかに爆発四散した最期,そして「ヘルシング」などのコンテンツの影響もありさまざまな分野のオタクに対してカルト的な人気を誇る(?)みんな大好きNSDAPである.
第二次大戦前後を扱った戦略シミュレーションゲーム「Herts of Iron2」を小中生の頃ゲロ吐くほどプレイした筆者も例を漏れず,なんだかんだと言ってナチス関連のネタが出てきたら少しニヤニヤしてしまう.そんな筆者なので,「ナチスはいいこともしたのだ」という言説に関する背景知識は多少知っていた.例えば,「奇跡の経済回復」はヒャルマル・シャハトライヒスバンク総裁が行った,禁じ手に近い国債発行によるものだとか,「ナチスによる,選挙に則った民主的な権力掌握」というのはなく,国会議事堂放火事件など暴力行為も用いることによってナチスは権力を掌握していったなどである.

しかし,環境保護政策や健康政策についての議論は初めて目にするものが多かった.いくら動物保護をしようが「ユダヤ人などを動物以下と扱い組織的に虐殺を行う」,「戦争のように大量の資源,人命を浪費する」というそれらの政策と真逆のことを同時にナチ・ドイツは行っていたではないかという議論である.確かに,一部の個別具体的な政策だけを評価すれば「いいこと」と捉えられる場合も出てくるかもしれないが,一面だけを切り取るだけでは有効な議論は決して成り立たないということを改めて実感させられた.
そして,「はじめに」の項に記述されている歴史学の基本的な姿勢に関する説明も大きな学びがあった.歴史学は「神」の視点から「真実」を記述するものでは決してなくて,歴史を見る眼差しに自らの偏った視点が介在することを自覚し,他人との相互チェックを通して妥当な説明を求めていく.今までなんとなく感じてきたこの歴史に対する姿勢は,専門家の手にかかればここまで鮮やかに言語化できるのだと感動した.

また,「事実を切り取る自らの視点は偏ったものにならざるを得ないので,それを自覚しつつ説明を構築することが大事」という姿勢は,歴史学以外にも有効なものだと思う.例えば,自然科学系の研究でも先行研究の参照において自らの立場を明らかにするという点で必要なものだし,特に,まさに「事実を切り取り,他人に伝える」という行為である報道や,「事実を切り取り解釈する」という行為である情勢分析においてはより明確に求められる姿勢である.同じ「イスラエルとハマス間における軍事衝突」という事象でも取る立場が異なれば全く視点が違うし,見えている光景も異なる.自己とは異にする他人の言説を批判する前に,まず取っている視点が異なることを認識しなければ有効な議論はできないということである.

また,歴史的な言説は,「事実」・「解釈」・「意見」という三段階にそれぞれ分けることができるという説明も新鮮だった.まず色々な事実を集め,そこからその行為を取った目的や文脈を含めた全体像を把握し,最後にそれらに対しての自分なりの意見を記述する.このそれぞれを認識し,自分がどの行為を行っているかを十分把握せず考えてしまうと,不十分な「事実」を集めたのみで「意見」を考えてしまうと「ナチスはいいこともしたのではないか」という容易に反論可能な説明を構築してしまうのである.
また,この「事実」・「解釈」・「意見」に分けて歴史的な言説を記述するプロセスも,よくよく考えてみればこれらも「実験結果」,「結果の考察」と言った自然科学におけるプロトコルと似ている.社会,人文科学を齧った程度しか治めていない私ではあるが,「科学」と名のつく領域における思考プロトコルはやはり共通するものがあったのだと気がつけて大変学びとなった.

内容の質の高さもさることながら,Twitter(X)上にて本書をあまり読み込んでいない人たちが発するクソリプに対しひたすら「その内容については議論してるからゴタゴタ言ってないでこれを読め」と返す著者の姿勢で有名(?)な本書であるが,ナチスという大抵の人が知っているテーマを用いて,歴史学や,科学全体に共通する姿勢に触れることができるためあらゆる人におすすめできる本だとは思う.

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