見出し画像

オクトバー先輩と「結婚」についての考察

 気付けばもう10月だ。恐ろしいことこの上ない。

 8月の終わり頃にラジオからRADWIMPSの『セプテンバーさん』が流れてきて「まだ8月は終わっちゃいねーんだよウォォォォォォイ!!」と内心で猛り狂いながらツッコんだのも記憶に新しいが、セプテンバーさんもいつの間にか過ぎ去ってもうオクトバー先輩の季節になってしまった。
 オクトバー先輩の気に食わない点はだんだんと陽が短くなり、寒々しい冬の到来を予感させるところだが、暑すぎる夏から解放してくれるという良い面もある。
 まあ何はともあれ、もう2023年の10月に突入したんだという厳然たる現実が自分の胸に重くのしかかってくる。


 例によって人生におけるイベント、ライフイベント的には何の進捗もない。これが実家暮らしにかまけて怠慢に生きてきた結果だ。

 この間また学生時代の同期からの結婚報告がLINEで回ってきたけど、祝福の感より先に己の矮小さというか、周囲が順当に人生の航路を進んでいるのに自分はただ道草食って半永久的にぼーっと生きているだけなことを痛感させられる。

 しかし冷静に考えるとそれは結婚を人生において必要不可欠なタスクだと捉えている深層心理に由来しているもので、仮に結婚をするということが人生において不要のイベントであるならばそういう焦燥感に駆られずに済むのである。
 これは誰しも結婚というものをすると必ず「おめでとう」という祝福の言葉を贈られるがために、結婚という概念そのものが過大評価されてしまった先の哀しい帰結点に他ならない。
 周囲の人間が続々と結婚をしていき、自分だけが取り残されていっているのではないかという錯覚を感じてしまうのは「結婚」という2文字に翻弄されている証左である。

 最近は時代が変わってきて結婚をしないという選択肢も世間的に受容されつつあるだろうが、あくまで個人的な肌感として、結婚したならば必ず幸福であり、人生においてのひとつのクライマックスを迎えたことと同義だというような風潮は世間のイメージの奥底に浸透して未だに離れられずにいるように思える。
 無論結婚をした人間が周囲にいて「おめでとう」と言わないのは不自然だろうけど、一部の人間はその「おめでとう」の裏側に「社会の規範から外れず真っ当な人生を歩めて良かったね」というニュアンスを含めているような気がしないでもない。

 古い時代の親が三十路近くの娘に「アンタもそろそろいい歳なんだから早く良い人見つけて……」と説教を垂れるみたいなシーンも、源流にそういう思考が存在することによって成り立っているはずだ。時代の趨勢に伴ってこういうシーンや言動も減ってきたような気はするけど、やはり世間の結婚に対する過剰な礼賛は留まるところを知らない。

 と、ここまでうだうだ書いてきたが何も結婚を全否定したい訳ではない。思うに、結婚とは宝くじみたいなものだ。
 宝くじに当たったらラッキーだけど、当たらなかったからといって別に何らかの罰が下される訳でもない。
 宝くじが当たった人は当たったことで周囲から「おめでとう」と言われたり、羨ましがられたりするだろうが、当たらなかった人が当たらなかったことを理由に責められたり糾弾されたり、また極度に残念がられたりもしないことと同じだ。

 つまり結婚も、したらしたでラッキーだけど別にしなかったからといって奇異の目で見られる必要性はないということだ。宝くじにはずれた人を奇異の目で見たり、侮蔑の視線で見たりすることはないろう。
 宝くじに当選した人はたまたま運が良かっただけ、運命の人と思わしき相手を見つけられたことはたまたま運が良かっただけなのだ。そして宝くじは当たったらお金がもらえるだけだから簡潔だけれども、結婚は一度してしまったらその後の未来で苦難の連続が襲いかかり、破滅への道を歩むか忍耐への道を歩むかの選択を強いられることになる……とか言うとまた話が逸れるので割愛するが、要は人生は運であるから、別に結婚してる人も結婚してない人も宝くじに当たった人と当たらない人を俯瞰的に見るような目線で見るようにすれば世間の結婚過剰礼賛思考も次第に抑制されていくのではないかということである。


 明るい未来?暗い未来?俺が森山なら後者♪という唐突な『助演男優賞』の歌詞挿入をして申し訳ないが、こんな暗い未来しかない27歳独身男性の性格はこんなにも歪曲してしまうんだということをここまで読んで頂いた読者諸賢にはおわかりいただけたのではないだろうか。
 ♪モテ期なんざ来る訳ねぇじゃん、各駅停車、苦役停車、レッツゴー!って一体俺はこの先、どこにレッツゴーすればいいんだ~~~~~!?(トムブラウン布川 feat. Creepy Nuts)


おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?