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集中力より大切なのは、贈り物を選ぶように仕事をすること

「大切な相手に贈り物を選ぶように、仕事をするといいよ」

そう言われて、私はようやく

「自分のやりたいことを仕事にしなければならない」

という呪縛から開放された感じがしたのだった。



最近こんな記事を目にした。



引用の引用で申し訳ないが、この一文に記事全体が要約されているので紹介したい。

「人からは理解されないんですが、私は勝とうとしてスロットマシンをプレイしてるんじゃないんですよ。プレイしつづけるため…ほかの一切がどうでもよくなるハマった状態、”ゾーン”に居続けるためにスロットマシーンをプレイするのです」

『デザインされたギャンブル依存症』ナターシャ・ダウ・シュール,日暮 雅通


昔から「ゾーン」「フロー」「没頭」「集中力」という言葉に興味があった。大学受験の頃に勉強法の本を読み漁ったせいだろう。

「高い集中力で勉強しなけりゃいくら机に向かったってダメ」

表現は違えど、読んだすべての本にそう書いてあった。

だから集中力の最高峰である「ゾーン」に強く憧れるようになったし、社会にでてからも「ゾーン」は高いパフォーマンスを発揮するために必須だから、いつも「ゾーン」で仕事ができるようになりたい、と考えるようになっていた。

そして「ゾーン」に入るためにいちばん重要なのは、仕事に興味があること、得意であること、そして大好きであること。

つまるところ「ゲームに没頭するみたいに仕事に没頭できたら最高だよなー」ということだ。「好きなことを仕事にする」って、つまりそういうことでしょ、と思っていた。


しかし現実は厳しかった。

ゲームならすぐ何時間でもゾーンでいられるのに、仕事となるとすぐに飽きてしまう。そしてなかなか取り掛かりたく、ならない。

好きだったことを仕事にしたらぜんぜんゾーンに入れなくなって絶望したりもした。


仕事にゾーンの気持ちよさを求めるのは、間違っていたのだろうか?



ゾーンは、基本的にはひとりで楽しむ身体的快楽だと思う。

パチンコやゲーム(特にRPGやリズムゲーなど)はその典型だし、勉強なんかもひとりでやることだ。


だけど仕事には必ず他者が関わってくる。仕事を受け取る相手がいる。仕事はひとりではできない。

そして協調すべき相手がいると、ゾーンに入るのは圧倒的に難しくなる。

相手に気を遣い、自分とは違う意見、やり方と折り合いをつけながら、必ずしも自分のやりたいようには進められない。

そういった「つまづき」「摩擦」「立ち止まり」が、ゾーンに入ることを阻む。そしてこれは、仕事がいくら好きでも起こることだ。

ゾーンに入るためには他者の存在が邪魔になる。

ということはやっぱり、仕事でゾーンに入るのは無理なのだろうか?



でも、ちょっと待てよ。

自分は文章を書きながら、ゾーンに入っているときがある。だから全く不可能というわけでもなさそうだ。

たとえば時間を忘れて考え事を書き殴ることはよくある。読み手を気にせずに書けるからゾーンに入りやすいのだろう。

一方で、人に読まれる文章を書くときは、やはり読み手のことをつねに意識する。日記のようないいかげんな言い回しは使わない。できるだけわかりやすい表現を心がける。

このときに、「この文章、他人が読んでおもしろいのか?」と不安になることがある。こうなるとゾーンには到底入れない。文章を書く手が止まる。書き直すのも億劫になる。

しかし、人に読まれることを意識しているにも関わらず、ゾーンとはまた異なった没入感の中で、ひたすら書き進められるときがある。こういうときは、自分で書いているというよりも、勝手に手が書いているという感覚になる。

ゾーンとは違う、この「心地よさ」は一体なんなのか。



そんなことを考えていたときだった。

自分より20年も長くこの世界を生きている先輩が、私のこの問題意識に深く共感してくれて、そして少し懐かしそうに

「大切な相手に贈り物を選ぶように、仕事をするといいよ」

と、教えてくれたのだ。


うわあ、それだ。と思った。



「贈り物が苦手」とかそういう話は一旦おいておこう。実は私も贈り物を選ぶのは苦手だ。そこには「がっかりされないだろうか」という恐れがある。この恐れは自分を守るためのものでしかない。そういった動機でなされる作業はひたすらに疲れる。

ではなくもっと純粋に、ただ相手を喜ばせたくて、何を贈ろうかとあれこれ考えたり、調べたり、そして贈るものが決まったあとは、今度はラッピングにこだわりたくなってあれこれ選んだりしているときの、あの感じ。

伝えたい「何か」があって、それを夢中で白い画面に詰め込んで、あとは何度も何度も読み返しながら、少しずつ細かい表現をなおしながら仕上げていくときの感じと、そっくりなのだ。


贈り物を用意しているときの心地よさと、誰かに読んでほしい一心で手が動いているときの心地よさは、私にとってはまったく同じものだった。


そしてこれは、仕事にひとり静かに没頭する気持ちよさとは、また違った心地よさだ。この境地は、雑音を遮断し、集中できる環境を完璧に整えて、自分ひとりの世界に入ろうとする努力で辿り着ける場所ではない。

この境地に至るには、他者の存在が必要不可欠なのだ。



ゾーンが、他者を徹底的に排することで辿り着ける境地なのだとしたら、この「心地よさ」は、他者と徹底的に意識を共有することによって辿り着ける境地、と言えそうだ。

とはいえ、実際に文章を書いているときの自分はひとりである。

ひとりではあるが、自分の中にはいつも「怖がっている自分」と「本当はどうすればいいか分かっている自分」がいる。

「本当はどうすればいいか分かっている自分」は、自分の表現したいこと、それを届けたい相手、その相手にどう書けばちゃんと届くか、ぜんぶ分かっている。

だから彼の書きたいように書けたとき、いちばん愛おしい文章が出来上がる。自分で何度も読み返したくなる文章が出来上がる。

「怖がっている自分」は、分かっている方の自分が書こうとする前にすぐ

もっと流行ってる話題にしない?
あ、その表現はやりすぎ、怒られそう……
もっと自分のすごさがアピールできるエピソードがあったほうがよくない?

などとあれこれ指示をだしてくる。

怖がりながら書いた文章は、書いたあとも不安が残るからか、なんとなく読み返せない(バズったときは安心して読み返せる)。

他者を喜ばせたいという純粋な想いを貫けるのは、分かっているほうの自分だ。怖がりな自分の声をおさめ、分かっている方の自分に仕事の主導権を明け渡せたとき、ひとりでは生み出せない何かを、その仕事を届ける相手と共に創り出すことができるのではないか。

「本当はどうすればいいか分かっている自分」が、表現を受け取ってくれる相手と一体になって価値を創り出す。そういう仕事のやり方があるし、できると気づいてから、私は「ゾーン」にあまりこだわらなくなった。

ゾーンにこだわらなくなったので、仕事が好きかどうか、楽しいかどうかということも、あまり考えなくなった。

それよりもいまの自分は、この「心地よさ」の中で仕事がしたいという思いが強い。


そしてこの仕事術には、相手が必要だ。


向き合うべきは仕事ではなかった。

向き合うべきは、仕事を通して、自分の価値を受け取ってくれる誰かだったのだ。

その誰かを思って仕事ができているとき、恐れや焦りがきれいさっぱりなくなる。やるべきことをやっている、という充実感がある。どこにこだわり、何を取り除くべきかがわかる。


今の自分は、いつでもそうやって仕事がしたくて、日々試行錯誤しているところです。


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