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やる気の出し方がついにわかったかもしれない

やる気とかモチベーションなんていうのは、だそうとして出るもんじゃないと思っていたのだけれど、そういうエネルギーを生み出す方法を、もしかしたら発見してしまったかもしれない。

今日はそんな話をしてみたい。


結論からいうと、やる気の栄養は妄想だ。妄想を育てること。それを中断しないこと。恐れないこと。

妄想をふくらませることによって、欲望が生まれ、その欲望が僕らを行動に駆り立てる。

難しい話ではないし、ありきたりな話だし、知ってたし、実践もしていたつもりだ。しかし、なぜそれが自分に「効かなかったのか」が、ようやくわかったのだ。



「理想の未来をできるだけクリアに想像せよ。それは現実になる」

自己啓発界隈ではあまりにも有名なコンセプトだ。僕も試した。理想の部屋の写真をディスプレイ横に貼って、毎日眺めた。

でも今はもうやっていない。効果を感じなかったからだ。むしろ未来を想像しすぎることにはデメリットの方が大きい、とすら感じていた。

たとえば想像を膨らませすぎて、おおむね理想が叶ったときに「うん、まあ、こんなもんか」と、それほど感動していない自分にがっかりした。

あるいは、いつか叶うのを夢見て続けている努力が、いつまでたっても実らない。そんな日々に自信をなくし、不安に駆られた。

そうやってしばしば現実をつきつけられるうちに、「理想を膨らませすぎると苦しい」と学び、「妄想はほどほどにしておこう」と思うようになった。

未来はもはや原動力にならないと悟った僕は、「未来のためにかけがえのない「今」を犠牲にしてはいけない。いまここ、いまこの瞬間だけが全てだ。いまを楽しく生きよう」と考えるようになった。

日常のちょっとした感動に意識を向けるようにした。通勤中にみかける名前も知らない雑草が、蕾をつくり、着実に芽吹いていくのを観察するのは楽しかった。ある日、前日とはうってかわって一気に、爛漫と、真っ青な花を咲かせたのをみたときには、たしかに心が動いた。

でも残念ながら、僕の実存的な悩みは消えなかった。僕は花を眺めるために生まれてきたわけではなさそうだった。寒くなり草花から色が消えると共に、僕の興味も薄れていった。

料理にもこだわってみた。旬の野菜を素焼きにして、シンプルな味付けで食べると旨い。ファストフードのような濃い味付け、油と砂糖で脳汁があふれる美味しさとはまた異質のエンターテインメントだった。

この旨さは刺激としてはとても弱い。じっくりと味覚や嗅覚に全集中しなければ、感じ取るのが難しい。まさに「いまここ」を愉しむ食事だ。

でも料理の新鮮さも次第に薄れた。忙しい日々のなかでは、舌先にばかり意識を集めてはいられない。まもなく、動画を見ながらでも感じられる濃い味付けに戻ったし、「いかに美味しく料理するか」よりも「いかに効率的に料理するか」を考える時間のほうが多くなっていった。

未来志向もだめ、現在志向もだめ。生き方の正解が40間近になってもわからない。

ついに僕は、理屈で答えを出すことをあきらめた。もっと身体感覚に近いところから探っていくべきだと反省した。

「この人の生き方はいいな」と感じられる生身の人間を観察することにした。ありがたいことに、ごく身近に恰好の対象がいた。妻だ。

彼女は昔から、アメーバピグでかわいい家をつくったり、あつ森でかわいい島をつくったりして遊んでいた。頭のなかにある「私の考えるかわいい空間」を形にしていくのが好きらしい。

その趣味が高じて、ついには自分のお店を構えてしまった。彼女はいま東武東上線の上板橋駅で、「私の考えるかわいいお店」づくりをリアルでプレイ中だ。

あるときから妻は「アフタヌーン・ティーをやってみたいな」と口にするようになった。それから半年くらい経って、ねこをモチーフにした季節のアフタヌーンティーを提供しはじめた。

最近は「ジェラートをやりたい」とよく口にしている。先日、ジェラートマシンが店に届いた。最近のメーカーは、販促の一環で設備を無償で貸してくれるらしい。忙しい合間を縫って、バニラジェラートをつくってはしゃいでいた。おそらく近い将来、店頭で売ることになるのだろう。

彼女を突き動かしているのは計画ではない。かといって衝動だけで動いているわけでもない。彼女をいちばん強く引っ張っているのは、たくましく膨らんだ妄想とアイデアだ。

去年のハロウィンでは「かぼちゃ餡に、細く切った求肥を包帯みたいに巻いて『ミイラにゃん大福』にしたらかわいいのでは……!?」とひらめいたらしい。実際にそれはとても好評で、たくさんの人が予約してくれた。

しかし何体ものにゃんこに求肥を巻くのはおもいのほか大変な作業だったらしく、カフェの前日はいつも0時を回るまで作業が続いた。

クリエイターがどうして締切ギリギリになってしまうのか、徹夜を免れないのか、彼女をみていてよく分かった。想像を形にするのにかかる時間なんて、正確に見積もれるわけがないのだ。

思い描いてしまったイメージに引っ張られ、肉体を酷使しがちなのはクリエイターの宿命なのかもしれない。

僕はそんな彼女の生き方を「大変そうだ」と思いつつも、やはり強く憧れもする。どうすれば彼女のように、現実の自分を突き動かすほどの想像を育てることができるのだろうか?


彼女は頭のなかにあることを楽しそうに話す。Yahoo!ショッピングでカフェ用のかわいいお皿をいくつも眺め、その上に自分の料理が並んでいるのを想像する。お店に置く冷凍庫やオーブンといった設備をメルカリで探すのにも余念がない。

僕だったら「情報収集 30分」というタスクに落とし込んでしまうところだ。しかし彼女にとって、これは仕事でもToDoでもない。単に妄想の素材を集めているにすぎない。

妄想に現実の肉体を引っ張られ、しんどい思いを何度繰り返しても、彼女は妄想をやめる気配がない。それはきっと、妄想が楽しいからだ。

そうか。

楽しく妄想すること。

妄想そのものを楽しむ、という発想が自分には足りていなかったのかもしれない。妄想はあくまで現実を動かす手段だと思っていた。現実と関係ないことを想像するのは時間の無駄だとすら思っていた。

実現するかどうかに関わらず、できるか、できないかに関わらず、楽しく妄想するだけの時間を、もっとたくさんもつべきなのではないだろうか?


その仮説を検証するために、僕はしばらくの間、妄想する時間を増やすように努めた。めんどうな作業をするときも、工程に思いを馳せる前に、その作業が終わってすっきりしているところを想像した。欲しいゲームのトレーラー動画を見た。会いたい人と会って談笑しているところ、欲しいものを買って使っているところを思い浮かべた。

何日か試してみて気づいたことがある。僕は妄想をしないわけではない。ふと気づいたら、楽しげなイメージを思い浮かべていることがよくあった。

たとえば妻のカフェで作業をするために、新しいノートパソコンが欲しいな、と思う。そのとき僕の頭のなかには、ピカピカで薄くて、軽快に動くパソコンと、窓際の席で作業する自分が勝手に思い浮かんでいる。楽しい妄想だ。

しかし次の瞬間には、もう値段のことを考えている。そんな余裕があっただろうか。先に、食洗機の工事をしなきゃいけないのではないだろうか。などと、お金の使い方を考えはじめる。そして次第に不安になってくる。

現実的な僕は考える。まずはいま自由に使える予算をはっきりさせよう。そしていま必要なものをリストアップして優先順位をつけよう。

だからまずやるべきことは……たまった領収書を整理するところからだ。お前ときたら、そもそも普段からお金の使い道をきっちり把握していないではないか。

楽しかった妄想が、いつのまにか領収書の整理という退屈なタスクになった。そして僕はそれをやらないだろう。つまらないし、めんどうだし、他にやるべきことがあるからだ。

僕には、ノートパソコンを買ってやりたいことがあったはずだ。それを思い描こうとしていたはずなのに、いつのまにか予算のことを考え、いまやらなきゃいけない領収書の整理のことを思い出し、さらにそこから連想される確定申告のことを考えていたのだ。

やりたいことが、やるべきことに。この間、わずか30秒。

僕は妄想しないわけではなかった。しかし、妄想を切り上げるのがあまりに早すぎた。

もちろん、お金は大切に使うべきだ。でもいまの自分にとっては、現実的な段取りよりも、欲しいものを手に入れたあとにやりたいことを想像し、愉しむ時間がもっと必要だったのではないだろうか。

僕には「妄想を生み出す」努力よりも先ず、「生まれた妄想を中断しない」努力が必要だったのだ。

そしてその努力の成果は、まず想像とは少し違う形であらわれはじめた。


僕は新しいノートパソコンを買ったらやりたいことを、中断せずに妄想するよう努めた。

朝は早く起きて、ノートパソコンをもってカフェに行く。これは朝の散歩も兼ねている。カフェでやりたい仕事は、そうだな、やっぱり文章を書きたいな……

という想像に差し掛かったとき、ふと「文章を書くだけなら、手持ちのiPadでもできるのでは?」と気づいた。そういえば、PUBG用に買ったけど今は全然使っていないiPadがあった。

新しいパソコンでやりたいことを好き勝手に妄想していたら、そのいくつかは今すぐにでも叶えられると気づいた。楽しく妄想していると、新しい投資や努力なしで叶えられるアイデアをよく思いつく。


もうひとつの成果として、執筆が捗るようになった。妄想にブレーキをかけず、アクセルを踏み込むことで、色々な欲望が刺激されるようになったことが大きいと感じる。

僕らは「昇華」という能力を持っている。満たされない欲望が、別の行動を喚起することがあるのだ。

色々な欲望を抱えていると、それらがことあるごとに自分を刺激してくる。とくに文章を書いているときに、それを感じる。何らかの欲望が内側から言葉を運んでくるのだ。


「夢ばかり語ってないで行動しろ」と僕らは言われて育ってきた。

いや、直接いわれてきたなら反発もできよう。実際には「行動している人間が成功する漫画、映画、ドラマ、アニメ」をたくさん見て育ってきたのが我々なのだ。義務ではなく憧れとして、この行動規範を内面化してきた。

「お金がないとか、時間がないとか、勇気がないとか、やらない言い訳なんて無限にでてくる」
「だからうだうだ考えてばかりいるな」
「Just Do It!」
「いつやるの?今でしょ!」

という掛け声は、もはや僕らを行動に駆り立ててはくれない。むしろ叶いそうにない妄想を中断する呪いとなってはいないか。

十分に現実的で十分に実行可能なことですら「めんどくさい」と感じてしまうのは、もしかしたら僕らが妄想するのをやめてしまったからかもしれない。

別にいま買わなくていい。いまやらなくていい。僕らはもっと、楽しく、自由に、叶え方のわからない妄想を膨らませていい。

妄想が欲望を生み、欲望がアイデアを生み、そしてアイデアが行動を生む。


「どうやるの?」「いつやるの?」という内なる声が聞こえてきたら

「そんなことはいまどうでもいい」
「いま自分は妄想しているのだ」

と答えてみてほしい。そしてもう少しの間、その妄想に浸り、遊ぶことを自分に許可してあげてみてほしい。



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