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プチプチ宗教

「宗教ってなんかこわいな。」

多くの日本人はそう感じる。環境や文化ってスゴイ。どこの地域、家庭、教師などの経路をとおっても、こわいな・怪しいな・人に話しにくいなとなる。それで自分は"何も"信仰していないと思い込んでいる。そっちのがこわいわ。

社会学者のマックス・ウェーバーによると宗教とは行動様式で、人を突き動かす"何か"であれば何でもそうと言っている。感染症の流行や自然災害など、自分でコントロールできない(外的)要因によって不安や困難があるときに心の拠り所とする存在だとも考える(祈りという行動を起こさせるという意味では前述と同じだが)。信仰の対象を「信じて行動する」「耐える状況で祈る」を起こさせる存在。どっちも「グッ!」って感じ(伝われ)

先日北海道白老郡にある民族共生象徴空間を訪れたときにアイヌ文化を少しかじって、神(信仰の対象)に対する考え方が変化した。カムイ(必ずしも信仰の対象ではない)という概念を自分なりに解釈してから経験を基に考えたところ、神はあらゆる「きっかけ」「感動(心が動くこと)」をもたらす存在。であれば人それぞれ神と思う対象は違い、それは自然なこと。小さなものを含めて宗教の数をざっと計算するならば、人の数×心の残った出会いの数を方程式にしていい。(ある程度、感動が強くてハマらないと信仰は継続しない。)

日本人と日本人以外の違いは、生活様式が宗教であることを意識するか・しないかだと考える。パンデミック下、東京のひとり住まいでふと思った。「こんなとき、必死に祈るような存在があれば…」と。不安なとき、重力のない世界のようなフワフワとした感覚に陥り、ただ待つ時間に"何を"信じていたらいいのかわからないと気づいた。寄りかかってもいいと思える存在を意識すれば、自然と意識するような環境(健全なやつ)があれば、日本人の自殺は少し減るかもしれない。

信仰の対象が利益を求めてくる健全じゃない宗教もある。怯えたり叩いたりするのは自由だけど、自分を大切にするために向き合う対象は、宗教じゃなくて「自分」なんじゃないかと思う。自分や自分の大切な人たちを不幸にせず「信じて行動する」「耐える状況で祈る」には、宗教(広義)の教えの正しさや包容力と同じくらい、自分自身を信じる強さが必要だ。

<イメージ>
宗教(広義)を信じる9割:自分を信じる1割→依存、メンヘラ、自己肯定感の低下で自分も他人も苦しむ
宗教(広義)を信じる3割:自分を信じる7割→教えの正しさや実行するかどうかは自分で判断する、心の拠り所を利用して不安や困難を乗り越える
※自分信じられる度は、宗教(広義)から受けた影響の強さに左右される
※信じてなさすぎる、理解していない宗教を上手く使うことは難しい

雑にまとめると、自己肯定感の高い信者って、自分も周りの人も信仰の対象も守れてなんならハッピーを与えられる、強くて優しい人になれるんじゃね?てかもはや信仰される側にもいるんじゃね?みたいなw

実はこんな話がしたかったわけじゃなく、最初にタイトルをつけたときには、私にもいくつかの信仰があって、そんなプチプチ宗教たちに入信したり、実は合わないって気づいたりするのは、自分の経験値アップや自己肯定感の上昇・低下(≒思考しながら年を重ねること)が要因なのかなみたいな話のつもりでした。おわります。



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