闇に揺れる火【後編】

 鳥の翼が梢を叩いて飛び立っていく音で、彼は夢ともつかぬまどろみから現実へと引き戻された。咄嗟に姿勢を起こそうとして、岩の窪みにひどく頭をぶつける。鈍い痛みが頭の奥に居座っていたまどろみの名残を追いやっていく。
 彼は右腕を胸に押し当てた上から両足を抱え込み、僅かな岩の窪みに頭を預けた不自然な姿勢のまま、いつの間にか寝こけてしまっていたようだ。木箱の向こうから陽が差し込み、最奥に座り込んだ彼の手元をぼんやりと照らしている。左手の先に鈴紐が絡み付いていることを確認して、一先ず息をついた。
 狭い窪みの中で姿勢を起こし、何度か瞬いて朝陽に目を慣らしながら、彼は木箱越しに身を乗り出して外の様子を伺う。
 ……どこか初冬の清々しさを漂わせる森の朝だった。立ち枯れた草木が緩やかな風に揺れて乾いた音を立てる。鳥の鳴き声が澄んだ空気を伝って、遠くから響いてくる。まばらな梢が葉を散らしながら揺れる。その先に広がるのは、この時期には珍しい透明な青空。
 窪みに身を隠しているのが馬鹿らしく思え、彼は木箱をどけて外へ出た。縮めたままだった体を伸ばして、朝の澄んだ冷気を吸い込む。喉と胸の奥が朝の寒風にちりりと痛んだが、その冷気が体に淀んだ何かを清めてくれるような気がして、敢えて深呼吸を繰り返す。
 ……半ば見えないままに包帯を乱暴に巻きつけた右手首。今は昨夜の痛みが嘘のように消え、仰々しい包帯の白がひどく滑稽だ。差し込む朝陽に揺れる木々が、昨晩の彼の恐れを嘲笑しているようにさえ感じてくる。
 彼が身動きする度に、左手に下げたままの鈴の澄んだ音が軽やかに樹木の間を駆けてゆく。彼は冷えて強張る上、利き手ではない左手のみで苦労しながら鈴の紐を腰に縛りなおし、木箱の脇に腰を下ろした。
 左手と口を使いながら、右手の包帯を解いてゆく。一巻き、二巻きと外すと現れた、血と薬で赤黒く変色した包帯の色にぎくりとするも、無視して解く。……果たして手首には、くっきりと焼け爛れたような痕が残っていた。それは恰も下方から手首を掴まれた痕のよう。――まるで、童に掴まれた痕のよう。
 彼は下腹で何か冷たい塊が蠢くのを感じた。それが背筋を這い上がる前に手早く新しい薬を塗りこみ包帯を巻きなおす。昨夜と違って全く痛みはない。ただ、手先が強張って感覚がない。……それはきっと、寒さのせいだ。
 乾物の朝餉もそこそこに、彼は荷を背負い立ち上がった。
(――何処に行けばいいのだろう)
 ふと頭に浮かんだ自らの声が、どうも頼りなげに聞こえる気がして、知らず彼は苛立たしげに足を踏みなおした。背負った木箱の中から、微かに物がぶつかり合う音が聞こえる。その音に、腰に下げた鈴が硬質な音を加える。そして草履が土と擦れ合う音が混ざり、一つの音となる。……一瞬響いて木立に消えていったその音に導かれるように、彼は桜を抱いた大岩のある方向にきっぱりと背を向け、歩き出した。
 昨日よりも幾分か暖かい日だった。真っ直ぐ地上へと降り注ぐ透明な白い陽が、木立を行く彼の背を仄かに暖める。背と脇がじんわりと熱を帯びる。
 土の上に残る獣の足跡を跨ぎ、ずり落ちそうになった木箱を背負い上げる。足跡を見るに、子を連れた母狐だろうか。遠くで揺れる下生えに紛れ行く狐の尾を見たような気がして、彼は知らず微笑んだ。
 そして視線を正面に戻し――彼はまるで矢に射竦められたように足を止めた。木々の隙間に見えるのは、あの桜を抱いた大岩ではないだろうか。色づく葉で赤に黄に染まる山の中、黒々と聳える岩。
 咄嗟に見回した周囲に、不自然なものは見えない。……童の姿は、見えない。
 彼は意図的に一つ大きく息を吐いて、暴れかけた思考をなだめる。
(……やはり、山に囚われている、のか)
 師と旅をしていたとき、道を見失って暫し山中を彷徨ったことは幾度もあった。その度に師は太陽を見て方角を測りながら道を探した。野草や茸を求めて山に入る近隣の村人が残した形跡を探しながら山を歩いた。
 しかしこれは勝手が違う。
(山を越えることは、できないのか)
 ふと彼は自分の思考に引っかかりを覚え、足を止めた。
 ――山を越えられんけぇね。
 老婆。昨日、薬を求めて訪れた老婆だ。
 ――きちんとお供えせんと、一人では山を越えられんけぇね。
 ――どうも。
 そういって彼が受け取ったのは二つ拳大の白い餅。この土地独自の習わしだと忖度なく受け取ったものの、それきりにしていた。つまるところ彼は流れ者であって、特定の土地に根付く習慣に縛り付けられることなはい。そもそも、そういう土地に拘る慣習から弾き出されたからこそ、彼は土地から土地へ移ろう旅に身を置いたのだ。
 端に転がる小岩に腰を下ろし、村を出てから無造作に木箱の隅に放り込んでいた餅を取り出す。小瓶や木箱で擦れて、表面に細かい傷がついている。
 彼は知らず助けを求めるように左手で握り締めた。
 ――でも一体何処に供えるんです?
 ――25番目じゃよ。まあ、見れば分かるだろうて。
 そう言って老婆はどこか人を食ったように笑った。薬代をまけろ、と言いたいが為の戯言にしては思い切りが良く、また師匠ほどではないにしろ口八丁手八丁を自負する己を翻弄した老婆に、偶には付き合わされるのも悪くはない……そう思って聞き流していた。
 彼は旅に身を置くようになった経緯が故に、土地に縛られた者の言葉を無意識に軽んじるところがある。
 そのことに対して彼は悔恨の念を抱いたが、あえて一瞬でそれを思考から追いやる。冷静に思考を巡らす。
(25番目……何の25番目だ?)
 山を行く道すがら何か目印になるようなものがあっただろうか。それも少なくとも25個以上。
(黒岩か?)
 この山特有のもの、ということで脳裏に浮かんだが、即座に棄却する。大小取り混ぜて無秩序に点在する黒岩に、順序を示すようなものは見当たらない。老婆が言うところのものは、少なくとも道に沿って25個以上、人為的に用意されているのだろう。
 ぐるりと周囲を見渡して、草葉の陰に覗く灰色に視線を止めた。
 ……地蔵。
 幼子を模した形のものが、この山には多く立ち並ぶ。道祖神として道沿いに据えたとしても、密集しすぎやしないか。
 彼は最寄りの地蔵まで駆け寄り、周囲の草をかき分けてしゃがみ込んだ。童の顔に、数珠を握った両手に、座った台座にかかる土を手で払う。裏にも回り込んで雑草や土塊を払う。
 背面に頑なにこびりつく土塊を払うと、地面近くに『九』という文字が見えた。
(これだ。9番目)
 飛び起きて彼は再度周囲を見渡した。
 天辺を丸く削られた黒岩の向こうに、確かもう一つあったはず。
 果たして、彼の記憶通りに、小岩の陰に地蔵が立っていた。先ほどのものよりもやや風化が進んだように見えるその地蔵の背面には、やはり文字が彫り込まれている。『八』。
(反対方向か)
 足早に来た道を引き返す。彼は絶え間なく忍び寄る冬の外気に体の芯が冷えているのを感じてはいても、同時になぜか腹の底がじんわりと温まるのを感じた。山頂付近の尾根を幾度か行きつ戻りつして、地蔵を順番通りに辿っていく。
 『拾三』。
 なだらかな斜面の途中に立っていた。地蔵の顔はひとつひとつ造作が違うように見受けられる。これはその中でもかなり幼く見える。
 『拾六』。
 どこかで15番目を見落としたようだが、方向はこちらで間違いないだろう。
 『ニ拾三』。
 岩に寄り添う木のお陰で雨の影響を免れたのか、朧げに顔の形を残した地蔵だ。昨日、確かここで手を合わせた気がする。
 『ニ拾四』。
 あとひとつ。次はーー
 早鐘を打つ心臓の勢いを空へ逃すように一度天を振り仰ぎ、急な斜面を慎重に下る。斜面を縦横無尽に走る木の根に足を取られないよう、少しずつ下る。右手にはまだ握力が戻らないので、多少難儀しつつゆっくりと下る。24番目の地蔵からまだ幾ばくも離れていないというのに、長時間斜面を下っているような錯覚に陥った。彼は一瞬斜面を振り仰いで自分の位置を再確認し、腹の底に力を入れ直す。
 ……茂みの向こうに、灰色の石が垣間見えた。再度心臓が早鐘を打ち始めるのを自覚しつつ、視線を足元に戻して慎重に太い木の根を跨ぐ。その根をたどった視線の先。大きな虚の中に、25番目の地蔵が据えられていた。
 巨木の中央に鎮座する地蔵の台座は、ちょうど彼の目線の高さにある。彼はその童の顔を仰ぎ見た。その瞬間、
(これは、心の臓だ)
 彼はそう感じた。そして実際に、見上げた童の姿が心の臓のように脈打ち始める。膨張し、収縮する。それは生物が呼吸を繰り返すように、一定のリズムを刻みながら膨れては、萎む。彼がそこから視線を外せずにいると、周囲の木々も同調して脈動を始める。膨れては、萎む。森全体が一つの生き物となって彼を囲い込み、呼吸を繰り返している。彼はその脈動の中に落とされた一個の石。川の流れを妨げる、岩礫。
 脈動の中に立ち竦んだまま、どこか深みへと堕ちていくような錯覚に襲われ、彼はとっさに一歩後ろへ下がった。ざり、という足裏の感覚が、彼を深みから引き上げる。そして腰で一揺れした高い鈴の音が、彼の視線を童の顔から引き剥がす。その瞬間、森はぴたりと脈動を止め、地蔵もただの動かない石に戻る。
 ……少し離れた場所に落ちる枯葉の音。大気の中にたゆたう冬の匂い。包帯から伸びる右の指先の細かな震え。
 彼は知らず詰めていた息を吐き出し、小刻みに足を動かすことで、今自分が依って立っている地面の感触を確かめる。そろそろと左手で懐を弄って、老婆からもらった餅を取り出した。
 ――きちんとお供えせんと、一人では山を越えられんけぇね。
 無意識に文字らしきものの刻まれた餅の表面を一撫でして、そっと音を立てぬように地蔵の足元に据えた。
 そして再度視線を上げた彼の眼前で、

 突然炎が揺れた。

 火元となるはずも無い地蔵から、瞬時に天を突くばかりの炎が立ち上って揺れる。吹き荒れる風に狂い踊る。押し寄せる熱波に気圧されて、彼は何度も目を瞬かせながら後ずさった。しかし、赤い炎は風に煽られて瞬く間に彼の退路を塞ぎ、彼を揺れる赤の中に飲み込もうと四方から振りかかってくる。身を守ろうと振り上げた腕を炎の切っ先が嬲るのを感じて、彼は悲鳴を上げた。

 ……幼い頃、火とは暖かく優しいものだと思っていた。
 冬になれば雪に閉ざされる村。白く重くのし掛かる、世界を閉ざす雪の中に身を隠すようにして立つ家々。その戸を開ければ、囲炉裏に揺れる火が世界に暖かな色を投げかけ、寒さに強張った体をほぐしてくれた。そして竃の火はいつも家の中に暖かな食事をもたらしてくれる。
 冷たい冬を超えるために、火はいつも生活の傍にあった。
 しかし、火が一度牙をむいてしまうと、人は成す術も無く炎の勢いに屈するしかないのだと思い知ったのは、あの夜。温い風が吹き荒れる夜だった。
 その日、暖かだったはずの火が、暗く沈んだ夜空を背景に己の背丈よりも遥か高くまで立ち上り、炎となって家を飲み込んでいった。ぱちぱちという聞きなれた穏やかな音ではなく、轟音を上げながら家を火の中に突き崩してゆく。自分は崩れゆく家を一人眺め、立ち尽くしていた。
 頬が痛む。火に炙られた皮膚が悲鳴をあげる。
 冷えた体を一気に暖めようと火に伸ばしすぎた手がちりりと痛んだ時のように、全身が炎の熱に金切り声をあげる。
「とうちゃ、かあちゃ」
 たぶん、自分は力なくそう繰り返していたのだと思う。ただ体に迫る炎の熱と、煌々と光る炎の力強さに飲まれて立ち尽くしていたのは覚えている。絶え間なく襲い来る煙のせいでとめどなく流れる涙を拭うことなく、ただ立ち尽くしていたのは覚えている。
 山から吹いてきた風に、ごう、と炎が唸りを上げ、辛うじて立っていた大黒柱を突き倒した。半ば原型を失いつつあった屋根が支えを失って落ちる。
 天へ天へと手を伸ばしていた炎が、ぐわりと水平にその手を伸ばした。
 助けて。
 そう母の悲鳴を聞いた気がして咄嗟に炎へとその手を伸ばしたが、火の粉に当たった指先から痛みが瞬時に体を駆け上がる。慌てて払い退ける。――払い退けてしまった。
 炎の中に透けて見えていた、辛うじて残っていた柱や壁が崩れる。もう一度炎が地面と水平に、助けを求めるように手を伸ばす。
「だれか、だれか」
 振り返り、炎の熱に当てられて掠れた声で叫ぶ。炎が投げかける闇の中で視界は涙に滲んでいるのに、遠巻きに並んでいた大人たちが厭うように身を引いたのが見えた。そして口々に何かを吐き捨て、顔を顰めるのが、わかった。
 ――鬼の子が。
 ――厄をもたらす流れ者一家が。
 ――いっそ、まとめて燃えちまえばよかったのに。
 笑って崩れ落ちそうになる膝を支えて叫ぶ。
「だれか」
 そう言って伸ばした手が空を掻く。吸い込んだ息に噎せる。
 尚も遠巻きに立ち並んだまま動かない人の向こうで、野太い怒号があがった。唸る炎にまけず劣らず強いその声が大人たちを押し倒し、黒い大きな人影がこちらへかけてくる。大人たちへと伸ばしていた手が、震える体が、太い腕に掬い上げられる。視界が塞がれる。
「俺でいいか」
 だれだろう、と疑問に思う余裕もなく、胸に抱きかかえられたまま頭上から降ってくる声に頷いた。やっとの思いで、うん、と焼けた喉から一声絞り出した。震える手でその懐にしがみついた。
 ……そして村のはずれで一度地に降ろされたとき、やっとその男が旅の薬師だと気付いた。ふらりと時折村にやってくる陽気な大男。
 その男は、地に座り込んだまま動けず、両手で袖を強く握りしめたまま見上げてくる自分を見下ろし、何を思ったのだろうか。ゆっくりとした動作でしゃがみ直し、こちらと視線を合わせた。
「……俺と行くか」
 煙にやられた痛みのせいか、助かったという安堵のせいなのか、それとも一人だけ助かったという罪悪感のせいなのか、止まらない涙が頬を伝うのにまかせたまま、自分はもう一度深く頷き、目を閉じた。

 ――……。

 その時、ふと彼は自分の名を呼ぶ声が聞いた気がして、目を覚ました。いや、正確には自分が意識を手放していたことに気づき、とっさに目を瞬かせた。薄暗く閉じていた世界にぱっと光が数条差し込み、その眩しさにたじろぎつつも少しずつ意識を慣らしていく。
 ……どうやら、彼は気づかないうちに地蔵の前で身を横たえていたようだった。体を起こす。慌てて周囲を見回すも、先程彼を飲み込もうとした炎の面影は何処にもない。炎は彼を焼き尽くさんとする程に勢いよく立ち上ったのに、周りの木々や落葉は少しの煤も付けることなく、暖かな冬の光の中に佇んでいる。
 体中に付いた土くれや落葉を手で払いつつ、彼は立ちあがった。何らかの異変がどこかに認められないかと再度見回すも、不自然なものは何も見つからない。足元に横倒しにされた木箱が転がり、その引き出しから幾つか小物が飛び出しているのを見止めて、彼は尚も周囲に気を配りながら手早く定位置に納めていく。
「何だったんだ、今のは」
 木箱を背負いなおし、独り言ちる。強張った喉から発せられた掠れ声に、応えるものがあった。
 かさり。
 ――ふふ、旅の人、夢を見た?
 背後で嫌な音がして、彼は動きを止めた。視界は正面に据えられたまま、意識は痛いほど後頭部に集中していく。じわりと痛み始めた右手首を左手で押さえ、彼は勢いをつけて振り向いた。
 しかし、そこに人影は見えない。太い雑木の向こうで下生えがだけが揺れている。
 ――ふふふっ。

 次は右方から声が聞こえた。彼が反射的に振り向くも、やはり人影は見えず、風も無いのに低い位置に張り出した梢だけが揺れている。痛みで脈打つ右腕。早鐘を打つ心の臓。体中から血の気が引いて、体が小刻みに震えだす。繰り返す浅い呼吸が、更に心臓の鼓動を早めてゆく。彼の全身に見えない視線の圧力がべったりと張り付き、皮膚の上を這いずりまわる。
 奇妙に甲高い声は、今や彼の四方から木々に岩に木霊して響いてくる。
 ――山越えられぬ旅の人、ひとり寂しく道を行く。
   月影揺れるこの夜に、炎の影絵で遊びましょう。
 頭上を緩やかに覆う梢から差し込んできていた日の光が急速に陰り、そこここに薄闇が落ちる。早回しで昼から黄昏へ、そして夜へと移り変わるように、日光は一度金色を帯び、そして深い藍色に沈んでゆく。
 ――炎途絶えぬこの夜に、手と手をつなぎ遊びましょう。
 彼の耳朶で甲高い童の声が幾重にも響く。彼は何度も唾を飲み込む。
 ――熱い熱いと駄々こねる、童の手を取り遊びましょう。
 突如として彼の背後に大きな気配が降って沸いた。反射的に振り返ろうとしたが、彼の身体は彼の意識を全く無視して、ぴくりとも動かない。腰の鈴を払おうとした左手は、変わらず痛む右手首を握ったまま、離そうとしない。
 ざり、と草履が砂利を踏む音がして、彼のうなじに生暖かい息がかかる。
 ――ふぅっ。
 頭の天辺から足の先へと、血潮が逃げ道を求めて彼の身体を勢いよく駆け下りた。一瞬遅れて彼を襲った眩暈。狭まる視界。重力に引かれるまま後ろに倒れこもうとする身体。反射的に数歩後ずさろうとするものの、崩れた均衡を持ち直すことが出来ず、揺れる視界が大きく傾ぐ。
(倒れる――)
 彼の喉から、声にならない鋭い吐息が漏れる。四方八方へ揺れ動く視界を何とか抑え、目を閉じて衝撃に備え――
 その直後、右手首を強く前方に引かれ、後方に傾いでいた彼の身体は振り子のように反対方向へと降り飛ばされた。その反動で首ががくんと不自然に前に落ちる。口腔内に鉄錆の味が広がった。舌を切ったのか――彼が確かめる間もなく、その身体は前へ振られた勢いのまま頭から地面に落ちようとする。咄嗟に膝と左腕を半ば擦るように地面に押し付け防ぐ。
 再び、右手首が前方へ引かれ、彼は視線を上向けた。彼の右手首をつかんだ小さな左手。その向こうに翻るのは白い衣。背丈からみて、年の頃は数えで7つか8つあたりだろうか。体勢の関係で彼が斜め下から顔を覗き込む形となったが、不思議と童の面立ちは黒髪の陰に隠れて判然としない。
 彼が身動き出来ずにいると、童は彼の右手首を引いた。腕と肩を伝って脳天まで突き抜けた痛みに顔を顰める。構わず童が急かすように再度手を引く。
「逃げなきゃ」
「は、どういう――」
 当惑した彼の言葉は、最後まで発せられることはなかった。無様に四つん這いならぬ(童に右手首を掴まれているせいで)三つん這いのままだった彼の足元で、ぱちっと大きな音がした。そして次の瞬間、両足を貫く痛みに似た衝撃に、体が無理な格好で飛び起きる。背負った木箱からがしゃん、と大きな音がした。薬壷が幾つか割れたのかもしれない。しかし、彼にそれを確認する余裕はなかった。
 炎が迫ってくる。
 彼の足があった辺りから見る間に炎が立ち上り、彼の体を舐めあげようとしている。赤く揺らめく炎に、肌の表面がびんびんと痛む。
「早く」
 童が彼の右手首を強く引いた。再び腕と肩を伝って痛みが脳天へと突き抜ける。痛みに呻く彼。しかし童は構わず炎に背を向けて走り出す。童のどこにそんな力があるのか、彼を半ば引きずるようにして走り出す。慌てて彼も体制を整え、童に引かれるまま走り出す。まるで天敵から逃れようと必死で駆ける鹿のように、童は身軽に木の根や岩を飛び越えながら駆けてゆく。しかし彼の右手首とそれを掴んだ童の小さな手は、元から一つのものだったかのように小揺るぎもしない。
 炎にあぶられた大木が支えを失って倒れたのか、背後でごう、と大きな音がした。

  ――山から吹いてきた風に、ごう、と炎が唸りを上げ、辛うじて立っていた大黒柱を突き倒した。半ば原型を失いつつあった屋根が支えを失って落ちる。
  天へ天へと手を伸ばしていた炎が、ぐわりと水平にその手を伸ばした。
  助けて。
  そう母の悲鳴を聞いた気がして咄嗟に炎へとその手を伸ばした――

 ――助けて。
 いつかの母の声が、彼の脳裏を掠める。
 しかし、猛然と走りゆく童に必死で追いすがる彼に、振り返る余裕はない。背後に迫る熱波で、炎が自分のすぐ後ろまで迫っていることは感じられた。少しでも遅れれば、あっという間に炎の中へと飲み込まれてしまうだろう。
 童に手を引かれた不自然な姿勢で走り続けているせいか、あっという間に彼の呼吸はもう限界に達していた。足りない酸素を求めて、喉が、体の芯が、悲鳴をあげる。しかし、童は立ち止まらない。次々と木々を飲み込み進む炎に追い立てられて、山の中を走り回る。
 もう彼には、自分がどの方角へ向かっているのかすらわからなかった。右前方を飛ぶように駆ける白衣の童に必死で追いすがる。
 ひゅうひゅうと喉の奥で鳴る音。背中で飛び跳ねる木箱の角が何度もぶつかり痛む両肩。ヒリヒリと痛む両足には、小枝や下生えで無数の引っかき傷ができているに違いない。
 それでも、彼は必死で走り続ける。どんなに走っても、炎の先端が隙あらば彼の背中を舐めあげようとどこまでも追い駆けてくる。
 徐々に勢いを失っていく両足を叱咤しながら、走り続ける。背負っていた木箱は途中でかなぐり捨てて、なおも走り続ける。すると、その先の木立がまばらになっていることに気づいた。そこで木々が途切れ、開けた場所に出るに違いない。木立から出てしまえば、
(ああ、助かるんだ)
 そう思った瞬間、彼は右手首を後ろへ引かれ、たたらを踏んだ。走っていた勢いを殺せず、そのままあらぬ方向へと吹っ飛ぶ。空中で反転し、強かに腰を岩に打ち付けて呻いた。痛みに目を細めながらも顔をあげると、離れたところで童が右足を抱えて蹲っている。
 周囲の木々がぱちぱちと音を立て、その輪郭を少しずつ炎の中に消してゆく。山頂から吹き下ろす風が炎を煽り、ごうごうと猛る。童の白衣に炎の赤い光が揺れる。もうすぐそこまで炎が迫っている。炎の切っ先が、童の方へと手を伸ばしてきている。
「おい!」
 両手をついて立ち上がり、彼は叫ぶ。口を開いた瞬間に、熱波が勢い良く喉の奥へと侵入しひりひりと痛み始める。
 童は伏せていた顔を上げ、彼の方を振り返る。
 ーー動けない。助けて。
 相変わらず炎を背負った童の顔は判然としないが、口先がそう動いたのはわかった。

 助けて。
 そう母の悲鳴を聞いた気がして咄嗟に炎へとその手を伸ばしたが、火の粉に当たった指先から痛みが瞬時に体を駆け上がる。慌てて払い退ける。

 あの動けない童を抱えて逃げる?
 無理だ。
 自分だけ逃げるべきか?
 童を置き去りにして。

 一瞬の逡巡が彼の動きを止める。
 それを見て取った童が、顔を上げた。まっすぐに彼を見上げる。赤く照らされた幼い顔。黒目がちな両目に、恐怖がよぎる。

 慌てて払い退ける。――払い退けてしまった。

「くそっ!」
 彼は喉が焼けるのも構わず、再度叫ぶ。足先から滑り込むようにして童のすぐ傍まで行き、左手で童の腰をひっ掴む。小さく悲鳴をあげた童に構わず、小脇に抱えて無我夢中で走る。頭の後ろでくくった髪が、炎にあぶられて焦げる匂いを嗅いだ気がする。しかし、構わず走る。
 右方から、ぎぎっと耳障りな音がする。視界の端で、一本の木が燃えながらこちらへと傾ぎ始めるのを見た。この木が倒れてしまえば、逃げ道がなくなる。間に合わないかもしれない。ぐっと下から内臓が締めあげられるのを感じる。しかし脳裏をよぎったその思考を一瞬で振り払い、息を止めて駆け抜けた。黒い小岩を飛び越えて、木立を抜ける。
 そしてその勢いのまま転ぶようにいくらか進んだところで、力尽きて崩れ落ちた。ただしなけなしの力で、童だけは放り出さずそっと地面に下ろす。
 彼は荒い息のまま、傍の童の顔を覗き込んだ。潤んだ大きな両目が、じっと彼の両目を見ている。口は硬く引き結ばれたまま。何かを堪えるようにも、縋りつく場所を探しているようにも、はたまた全てを拒絶しているようにも見える。
 何を言ったらいいのだろうか。
(ああ、……くそっ)
 彼の頭の中では無数の言葉が飛び交い、どれも形になる前にその次の言葉に押し流されていく。結局、意味のある言葉は浮かんでこない。大量の情報が行き交うが故に、個々の情報が判別できないのだ。頭の奥の方がじんわりと痛みだす。それでも飛び交う言葉の中から、必死に一つの言葉を絞り出す。
「俺で、よかったか」
 童が顔を伏せ、ゆっくりと頷いたように見えた。
「そうか」
 荒い息の中で、彼は呟いた。そして徐に天を見上げる。どんよりとたれ込める灰色の雲は見えない。東と北の空に、薄い雲が棚引いているのみ。色の薄い、透明な青空が一面に広がっている。本当に、この土地の冬らしくない清々しい空だ。
 呼吸をなだめようと、一つ強めに息を吐く。身体中をめぐる血液が脈打つのを感じる。そして彼はそのまま血潮に飲まれるようにして、意識を手放した。

 ――山越えてゆく旅の人、鈴揺れ鳴らし道を行く。
   月影揺れるこの夜に、風の音追って遊びましょう。
   炎途絶えたこの夜に、ふたり並んで遊びましょう。
   早く早くと駄々こねる、童の手を取り遊びましょう。

 ……ちりん、と鈴が鳴る。
 彼は薄闇に閉ざされた空間にいた。しかし圧迫感はない。だだっ広い空間の中、緩やかに空気が揺蕩うのを感じる。
 両の掌を眼前にかざす。ぼんやりとその輪郭が見て取れるほどには、どこからか光の粒子が飛んで来て周囲を漂っているようだ。
 ……ちりん。
 再度、どこかで鈴が鳴る。
 顔を上げて、周囲を見渡してみる。薄闇が均等に広がっていた。
 彼がそのまましばらく薄闇に目を凝らしていると、徐々に目が慣れて来たのか、薄闇が淡い藍色を帯びて見えてくる。茜から移り変わる、宵の色。そしてその藍の奥に、暖かな赤が灯った。それは不定形に揺らめきながら、橙色を周囲に広げてゆく。……焚き火だ。濃淡をつけられた薄闇が、逃げ惑いながら炎から離れ、周囲のより濃い闇に溶けてゆく。
 彼は恐る恐る近寄った。
 パキン、と薪が爆ぜる。橙の中に真紅がちらつく。
 彼は、声もなく揺らめく炎を見ている。
 すると炎は徐々に身を縮めながら、少しずつ色の鮮やかさを失いながら、燠に変わっていった。――声もなく、音もなく。何も言わずに。
 無言で立ち尽くす彼の眼前で、炎が最後の断末魔を上げ、そして消えた。闇が彼の視界を閉ざす。

 ――ふふふっ。

 ふと、彼の身体が寒さに震えた。土の上に横たわる肉体の感触が、彼の意識を目覚めさせる。
 彼はどうやら、地面の上に両手を投げ出して寝転がっていたようだ。
 本日何度目だろうか。まだかすかに霞みがかった頭で考えながら、ゆっくりと寝返りを打って、天を仰いだ。
 頭上に白い月がある。かかる薄雲で光を攪拌させ、紅や紺を同心円状に周囲へと広げながら、真っ暗な空に一人きりで浮かんでいる。

無数に分かれた世界線は
それぞれが飛沫となって飛び散りながら
海へ海へと流れる水のように
大きなうねりとなって岩々を削りながら
この世界に痕跡を残してゆくのだろうか
この先に広がる灰色の空白が
何も言わずに私を見ている

 ふと、彼は左手で自らの傍を弄った。しかし左手は土塊を搔き上げるばかりで、その手にしっかと握っていたはずの小さな手の感触はない。わずかにじくじくと痛む右手を庇いつつ、身を起こした。
 一陣の風が、彼の前髪を吹き上げて駆け抜ける。
 彼の傍に童の姿はない。目線を周囲に彷徨わせても、童の姿は見えない。童の衣は月光の下で、ぼう、と白く浮かび上がるだろうに、どこにも見当たらなかった。
 再度強く風が吹き、彼のむき出しの皮膚を撫で上げて去ってゆく。
 それに追随するように、森の木々が葉擦れの音を鳴らす。……葉擦れの、音。はっと彼が振り返ったそこには、果たして月光の下で黒々と佇む森があった。一塊の生き物であるかのように、木々が身を寄せ合いながら、吹き抜ける風に揺れている。
(炎が、消えている)
 いや、違う、と彼はすぐに頭を振った。
 それは、鎮火された跡のようには見えなかった。その森は、繰り返し訪れる変わらない夜に静かに身を休めている様子で。彼と少女を追い立て、轟音とともに炎に崩れ落ちていった森は、そこにはなかった。
 全てを晒す白い月光に追い立てられ、地上に落ちた影の中でよりいっとう黒々とした闇の集合体としての森。
 ざざ、ざざ、と断続的に葉擦れの音がする。
 その音に合わせ、彼の呼吸音が夜の闇に響く。彼の口から放たれた白い呼吸が、森の方へとたなびくのがぼんやりと見える。
(山は一人で越えられぬ、か……)
 闇の奥に沈んだ森の影にじっと目を凝らす彼の頭上で、きらりと小さな白い光が踊った。風に惑いながら、どこか遠くの天から落ちて来たその白い一粒は、むき出しの彼の左手に落ちて水になる。するとその最初の一粒を追うように、幾片かの白い結晶が地上に吹き落ちてくる。

 冬だ。
 何もかもを白く染める、冬がきた。
 何もかもを裡に沈める、静かな冬がきたのだ。


月が呼ぶ
森へおいで、と

夜風に揺れる梢も
森の奥へとぼくを手招く

月明かりが道を照らし
ゆっくり歩くぼくの影を
木々の影絵と一緒に揺らす

――では、語ろうか
遥か昔に月に重ねた
遠い故郷のことを
里を失くした童の話を

ぼくは初冬の空気を何度も吸い込む
少しずつ、肺を冷気で満たしてゆく
炎の夜が白い月の光に晒され
胸に燻る熾は白い灰に変わり
月明かりに溶けてゆく

ある白い光の満ちる夜に

どこか遠くかもしれない。会うこともないかもしれない。 でもこの空の下のどこかに、私の作品を好きでいてくれる人がいることが、私の生きていく糧になります。