闇に揺れる火 【前編】

月が呼ぶ
森へおいで、と

夜風に揺れる梢も
森の奥へとぼくを手招く

月明かりが道を照らし
ゆっくり歩くぼくの影を
木々の影絵と一緒に揺らす

――では、語ろうか
遥か昔に月に重ねた
遠い故郷のことを
里を失くした童の話を

 強い磯の香りのする丘から海を臨む。
 遥か彼方で一直線に伸びる水平線は、灰色の雲が垂れ込める空を映して白く濁っている。海面に幾重も連なる波頭。甲高いカモメの鳴き声。海岸から駆け上がる風は、体に巻いた外套を強く押し付け、彼の体を回り込んで彼方の山へと飛び去って行く。奪われた熱を惜しむように僅かに震える体。強い風に惑うように眼前を飛ぶ雪虫。……そろそろ、雪の季節がやって来る。
 まだ彼の吐く息が白く濁ることはないが、どこか遠くの山は、既にその頂を白く染めているのかもしれない。
 彼は丘の上から海を見下ろしていた。足下に置いた木箱を背負い直し、海に背を向ける。西方へと傾き始めた太陽が、遠くの山端を照らしているのが見える。彼は、空をぐるりと見回して呟いた。
「……持ち堪えるか?」
 重く伸し掛かるような暗雲が東の空に広がっているが、雨の香りはしない。……磯の香りに惑わされているだけかも知れないが。
 切り替えるように一度強く息を吐く。乱雑に括った髪を乱す風。視界の左から右へ横切った雪虫を掴み損ねた右手で、襟を寄せる。彼は首を竦めて足早に丘を下った。
 東西に長く伸びる海岸線。その海岸線にしがみつくように、点々と村がある。その村の中でも比較的大きな漁村を目指し、彼は歩を早めた。
 北方に聳え立つ山を右手に見ながら、彼は道を真っ直ぐ歩いてゆく。背負った木箱の中から、微かに物がぶつかり合う音が聞こえる。その音に拍子を合わせ、腰に下げた鈴が硬質な音を加える。そして草履が土と擦れ合う音が混ざり、一つの音の流れを作る。……彼はその音が好きだった。単純なその音。しかし二つとして同じ音はない。偶然に鳴り合った音が、その場限りの音を奏で合って消える。
 人恋しい夜は、その音を数えながら幾つも山や野を越えて来た。

 ……かつて、鈴の音は魔を払うのだとして旅人に重宝された。彼のように各地を旅する者たちが、疫を拾い、また行く先々で広めぬよう、いつしか腰に下げるようになったのだと言う。そして現在、その鈴は旅人の身分を証明するものとしても扱われる。彼の鈴に付けられた紐は緑。薬草を扱う者、薬師の色だ。
 彼が薬師の見習いとして旅に身を置いたのは、まだ年端も行かぬ童の頃。彼は大柄でやたらと口数の多い男に連れられ、山々を巡り、野に生える草々を摘み、旅の夜空にまだ見ぬ土地を思った。
 数えで17を迎えた頃、男は彼にその腰の鈴を渡してこう言った。
「もうお前は一人前の薬師だ」
 病で床に臥せった師が息を引き取ったと知らせを聞いたのは、それから半年後のこと。海辺の街を歩いていたとき、たまたますれ違った同業者から聞いた。一人で漂白の旅を続けながら、彼は時折暮れゆく空に、師の最期を思い浮かべる。

 一度休憩を挟み、数刻は歩いただろうか。太陽が足早に水平線を目指して沈んでゆく。雲間に尾を引く黄昏色を眺めながら、田畑の間を伸びる畦道を急ぐ。茜が紫へと変化し、深い藍へと姿を変える。あれから幾分か近づいた山は黒く聳え、その麓に立つ家々に大きな影を落としている。
 道の先に灯る家の明り。戸の隙間からこぼれ落ちるその温かな色に、彼は吸い寄せられるように近づいた。
「すみません、旅の者ですが。今晩、納屋の隅でも貸していただけないでしょうか」
 細く戸を開けて顔を覗かせた家の主人に、彼は小さく頭を下げ、腰に下げた鈴を示す。骨張った顔が頷いて、低く応える。
「薬師か。……入りな」
「どうも」

 翌朝、彼は村の中央と思しき場所に筵を広げ、腰を下ろした。
 昨日よりは、僅かに寒さは和らいでいるように感じる。幾つもの雲の切れ間から、地上に投げかけられる光。澄んだ初冬の空気に響いて消えてゆく、上空を飛ぶカモメの声。ただ、時折吹く風は変わらず鋭いままだ。……かじかんだ手を揉んでほぐしつつ、彼は乾燥させた薬草をすり潰し、手際良く小分けして薬包で包んでゆく。その手際の良さを眺めにぽつぽつと足を止める村人達の相手をしつつ、薬を売り捌いてゆく。
 ――薬師は口八丁手八丁でなくては、な。
 彼の師の口癖だ。いっそ薬師なんかより旅芸人の方が向いているのでは、と思わせる程に師は口が達者だったし、手先も器用だった。そして彼もその技をしかと継いでいた。必要な分をはききったのは、日が中天に達する頃。筵を畳んで身支度を整える。
「薬師、もう行くのかえ?」
 彼から受け取ったばかりの薬包を懐に入れながら、老婆が尋ねた。
「ええ、雪が降る前に幾つか山向こうの郷へ行きたいのです」
「お前さん一人でか?」
「……え、ええ」
 老婆のただならぬ様子に、彼は少々たじろいだ。薬師が一人で旅をすることなど、特段珍しいことではない。しかし、老婆は眉根を寄せて言い寄る。
「一人はいかん。そんでも一人で山を越えたいんなら、お供えもんを持っていきぃ」
 ほれ、と袖から乾いた餅を取り出し、老婆は彼に半ば強引に押し付ける。
「きちんとお供えせんと、一人では山を越えられんけぇね」
 拳大の白い餅が二つ。丸餅の表面に、何か文字が彫り込んである。釘のような何か尖った物で刻んだのだろう。不揃いに並ぶ文字は、人の名前のように見えた。
 この土地独自の習わしか。
 彼は忖度なく受け取り、習わしに従うことにする。……こう言った事には、素直に従った方が後々の面倒がない。
「どうも。でも一体何処に供えるんです?」
「25番目じゃよ。まあ、見れば分かるだろうて」
 そうですか、と頷きながら餅を懐に仕舞う。老婆は木箱を背負おうと腰を屈めた彼に、右手を突き出して笑った。
「なに、ただでやると思うてか。さっきの薬代、返しぃ」
(老婆にしてやられたな)
 なだらかな傾斜を登りながら、彼は息をついた。順調に頂上へと向かっているようだ。
 歩くうちに身体の芯が少しずつ温まり、あまり寒さを感じなくなってくる。疎らに天を覆う梢。紅葉した葉を揺らす寒風が頬に心地よい。頭上の紅葉が僅かに黄昏色へと色を変えた陽を透かし、鮮やかに彼の頭上を彩る。彼の腰に下げた鈴の音が木の幹に反射する。其処此処で鳥たちが慌てて場所を移す。
 適度に間を置いて生える樹々。その隙間からごつごつとした黒岩が顔を覗かせている。……昔、この山は火を噴いたのだと聞いたことがある。その名残で山肌に黒岩が転がるのだとか。点在する岩に足を取られないよう、彼は気を配りながら斜面を行く。
 所々、その岩々に寄り添うように小さな地蔵が据えてある。かなり昔に置かれたものなのか、風雨で削られ顔が判然としない。しかし、ひとつだけ岩に寄り添う木のお陰で雨の影響を免れたのか、朧げに顔の形を残したものがあった。数珠を握り手を合わせたのは童のよう。あどけないその顔に彼はすこし頬をゆるめ、手を合わせた。
 彼が辿ってきた道は、途中で二又に別れた。その間に居座る、一際大きな岩。高さは彼の背丈の2倍程。大の大人6人程が手を繋いでも、一巡りできるかどうか。鮮やかな紅葉の色を寄せ付けないその黒岩は、天辺から真っ二つに割れていた。その割れ目から、幾つかの幹が絡まり合いながら天へと伸び、頭上に葉を広げている。
 彼は、舞い落ちてきた朱の一葉を手に取った。
「桜か」
 春は見事な花を散らせるのだろうか。その時吹いた風に、手に取った葉を遊ばせる。葉は大岩の陰に転がる黒岩の前で地に落ちた。

 ――ふふっ。

 天へと鋭い切っ先を向けたその岩の陰から、声がした。

 ――旅の人。旅の人。ふふふっ。

 上ずった童の声。男児か女児か、判別しづらい高く細い声。それは彼に話しかけるのではなく、堪えきれず漏れてしまった笑い声のようだった。
 知らず背を汗が伝った。その変に間延びした声が彼の神経を逆撫でする。姿は見えずとも山の中に満ちていた鳥や獣の息づかいもすっかりなりを潜め、山中では有り得ぬ全くの沈黙が彼を取り巻く。人の気配は感じないのに、粘つく視線だけが彼の足に、背に、腕に、後頭部に、べったりと纏わり付く。
 乾いた口腔内。周囲の見えぬ圧力に屈しないよう、彼はいつもより大きな声で――実際大きな声が出たかどうかはさておき、とりあえずそのつもりで声を上げ――誰何する。すると童の声は、また不自然な笑い声をいくつか残しながら、徐々に遠ざかっていった。姿は見えないが、草を踏む微かな音も笑い声を追いかけて遠ざかっていく。
(モノノケの類い、か……?)
 その音が聞こえなくなっても、彼は何かの気配を探るように神経を研ぎすましたまま、暫し立ちつくす。深い呼吸を20回。……葉擦れの音。遠くで鳴く鳥の声。聴覚が、徐々に普段の山の声を拾う。まだ視線が足に纏わり付いているような感じがして、彼はその場で足を何度も踏み替えた。
 うなじを伝う汗が、急速に体温を奪って冷えてゆく。体の芯が温かみを求めて小刻みに震え出す。
 それがどことなく恐怖ゆえの震えでしかない気がして、彼は足早に右方の緩やかな斜面を登り始めた。
 腰に下げた鈴が、躊躇いがちに鳴り始める。
 ……実際、鈴の音は魔を払うのだろうか。彼は殊更大きく足を踏み出して、むやみに鈴の音を鳴らしながら先を急いだ。

 空の黄昏が彼の影も黄昏に染め始めた頃。
 木々の向こうに転がる黒岩の並びに既視感を覚え、彼は足を止めた。二又に別れる道の間。居座る大岩。割れ目から伸びる幹。黄昏で一層鮮やかに染まった葉が、まばらに彼の頭上で揺れる。
「まさか」
 足早になだらかな斜面を昇り続けて来たせいか、いつもより弾んだ息で彼は呟いた。
 彼の上空の大気を掻き混ぜながら吹きゆく風に舞う一葉。赤い桜の葉。
 ぞくりと背筋を濡れた手で撫でられたような気がして、彼はぎこちなく振り返った。しかし彼の背に続く斜面に誰の影もない。ただ黄昏に染められた木々が影を落とすのみ。確かにそこに人の気配はないのに、しかし粘つく視線だけが彼の足に、背に、腕に、後頭部に、べったりと纏わり付く。

 ――ふふっ。旅の人。旅の人。一人で山は越えられぬ。

 彼は浅い呼吸を繰り返す。童の声は奇妙な笑いを漏らしながら、少しずつ近づいてくるようだった。微かに枯れ葉を踏む音がする。

 かさり。
 ――ふふふ。

 黄昏の光が翳る。もう太陽が山端に沈み始めたのだ。
 彼がひとつ浅い呼吸を繰り返す度に、そこここに落ちる影が濃度を増してゆく。彼のすぐ近くで茂る下映えの影が、大岩の伸ばす影が、鮮やかな黄金色を削り落として闇に沈んでゆく。膨れ上がる影に溶けて、童の声が大きくなる。

 ――山越えられぬ旅の人、ひとり寂しく道を行く。
   月影揺れるこの夜に、炎の影絵で遊びましょう。

 彼に纏わり付く粘つく視線が、彼の背筋を何度も不快に撫で上げる。
 もう童の声は彼のすぐ近くまで来ていた。……桜を抱く大岩の陰。一足早く夜の闇が落ちるその陰に、いる。抑えきれずもれる童の笑い声がそこにある。
 ――炎途絶えぬこの夜に、手と手をつなぎ遊びましょう。
 突然、彼は右手首に焼け付くような痛みを感じた。皮膚が引き攣り、腫れ上がり、弾ける。波状に痛みが右手首を襲い、彼の体中を駆け巡る。溢れた血が手の甲を伝い、中指をなぞって地に紅い染みを作る。地に落ちた最初の一滴を追って、何度も血が滴り落ちる。
 ――熱い熱いと駄々こねる、童の両手に揺れる火は、
 打ち寄せる右手の痛みが、徐々に強さを増していく。
(飲まれる)
 額に浮いた脂汗がこめかみを伝う。
(……このままでは、飲まれてしまう)
 かさり。
 童が枯葉を踏みなおす。一歩。
 黒々と聳える大岩の影から、白い足が覗く。今にも折れそうな細長い素足。薄闇の中で仄かに光って見えるのは彼の錯覚か。
(このままでは、飲まれてしまう)
 それは強い直感。右手の痛みに熱さを増す皮膚とは異なり、直感が冷たい塊となって臓腑を上へ下へと撫で回す。熱と冷気が彼の体内で鬩ぎ合う。

 かさり。
 ――ふふ。

 彼は咄嗟に腰に下がる鈴を左手で払った。飾り紐の長さの限界まで大きく揺れる鈴が、固い音をいくつか重ねて響く。

 ――ふ、

 童の声が刹那、途切れた。皮膚に張り付く恐怖ゆえか、なかなか思うように動かない左手で、必死に鈴を重ねて払う。2度、3度。
 視線は大岩の根元から伸びた素足に据え付けられたまま動かせない。不規則に響いてゆく鈴の音と、荒く重ねる自らの呼気。聴覚だけが大岩の陰へと研ぎ澄まされてゆく。
 4度、5度。無闇矢鱈に振り払ったせいか、腰紐に結わえた鈴が緑の紐ごと外れ、足元へと転げ落ちる。緑の尾を引きずりながら枯葉の上で2度跳ねて止まる。
 反射的に鈴の行く先を視線で追ったまま、微動だにせず小刻みに重ねる呼吸音。どこまでも速度を増してゆこうとするその音に、ふと葉擦れの音が重なった。ざり、と枯葉の上で足を擦ったような少し重い音。その短い音が大気に消えると共に、背筋を舐め上げる視線の圧力が霧散して消えた。彼の体全体にかかっていた圧力が消え失せる。
 直後、彼はその場にへたり込んだ。上目気味に恐る恐る覗いた大岩の陰に白い足は見えない。
(行った、か)
 まだ恐怖の余韻で微かに震える両手。ゆっくりと膝下に転がる鈴を左手で掴み上げる。手の内で転がし、くぐもった鈴の音に耳を傾ける。
 そして俯いたまま深呼吸。
「助かった……」
 長く息を吐き出しながら、鈴を強く握りしめる。徐に天を見上げ、再度大きく息を吐いた。……夕日が空に引いた茜雲の名残が、天辺に薄く棚引いている。東の空は宵の紫に沈みつつある。
 彼が呆けたように眺めているうちに、急速に茜が藍の色に、そして深い紺に取って代わられてゆく。――藍の色。師が好んだ色だ。道すがら染料となる草を集めては、手慰みのように布を染めていた。決して売るつもりはなかったようで、気まぐれに衣服の隅に染め模様をつけては、出来栄えを眺め満足げに頷いていた。そういえば、彼が初めて己で稼いだ金で買った上着の袖にも、小さく睡蓮のような模様を入れてくれたのだったか。
 彼が過ぎし日を思い出しているうちに時は容赦なく過ぎ、陽は西へ消えてゆく。もう陽が落ちきるまであと僅か。
「陽が…」
 そう、陽が落ちる。夜になる。視界を閉ざす闇が来る。
 山を。山を、降りなくては。
 こんな山ならば一刻も早く。
 一度鈍くなっていた右手の痛みが鋭さを増し、波打つ。彼の思考を時の彼方から引き戻す。
 左手で握り締めたままだった鈴の紐を口に咥えさせ、おそるおそる右手首に触れる。ぬるり、とした感触に顔を顰めた。手早く袖を捲り上げて覗く。焼け爛れたかのように皮膚が崩れ、血が滲んでいる。薄明かりの中では判然としないが、何かに手首を掴まれた痕のように見える。――何かに。童に。
 どくん、と波打つように痛む。腰に下げた水筒の水で傷口を軽く洗う。彼は背負った木箱に規則的に並んだ小さな引き出しをひとつ開け、中から小壺を取り出す。
(火傷、でいいのだろうか)
 塗るべき薬が、ふとこれでいいのか疑問が頭を掠めたが、無視して擦り込む。脳天まで貫く痛みで、目尻に涙が滲む。痛みに呻きながら口を使って包帯をきつめに巻く。膝元に据えた鈴を左手で再度掬い上げ、その力なく垂れ下がる飾り紐を右手の指に絡ませる。素早く木箱を背負い立ち上がる。
 山を。山を、降りなければ。
 こんな山ならば一刻も早く。
 振り返った彼の視界は、しかし既に闇に没していた。彼は比較的夜目の利く方であったが、木々が黒く影を落とし、その形が判別としない。ふと見上げると一番星が頭上に煌々と輝いている。
「もう、こんな早く」
 山は闇の帳が落ちるのが一段と早い。帳が落ちきってしまえば、身動きできなくなる。

 ――山を侮るなよ、わっぱ。

 ふと幼い頃に繰り返し聴いた師の声が脳裏をよぎる。彼は深呼吸して焦りに狭まり続けていた思考をなだめる。
(この闇の中、山を下りることはできない)
 闇の中手探りで歩くには山の夜は深すぎるし、再び知らないうちにこの場所に戻されてしまったら。
(ここで夜を、……越す)
 全て投げ出し背を向けたい衝動を理性で抑えつけ、彼は木箱から火打ち石を取り出した。蝋燭に火をつけ立ち上がる。
 頼りなげに揺れ動く明かりが照らすのは、極わずか。手元と足先を頼りなげに照らす一方で、その先をより深い闇に追い立てる。明かりに慣れた目に、立ち並ぶ樹々は一塊の影となって彼を取り巻く。
 背後から吹き過ぎる一陣の風。葉擦れが尾を引いて突風を追いかけてゆく。風に煽られて消えかかる火を、彼は体を丸めて守った。体の隅々までが緊張で張り詰めていく。一歩ずつ確かめるように歩く。
 桜を抱く大岩から少し離れた辺りに、いくつか小さな岩に囲まれた、人が腰を下ろせるくらいの窪みがあったはず。彼が記憶を頼りに歩くと、果たしてその窪みはすぐに見つかった。蝋燭で中を照らす。朝晩下りる露のせいか、窪みに吹き込んだ枯れ葉が微かに湿っている。窪みを覆う岩の表面に多少の凹凸は見えるが、腰を下ろしても気になるほどではない。
 彼は一息ついて、背を岩に押し付けるようにして座り、木箱を正面に据えて戸に見立てる。小さく囲われた空間。体の中を右往左往する緊張を宥める。ゆっくりと時をかけて沈める。蝋燭を吹き消して、じっと目が闇になれるのを待つ。遠くから聞こえる梟の鳴き声を数えながら、時折、手にした鈴を小さく鳴らす。その音は窪みを囲んだ岩肌に響き、夜の闇に溶けてゆく。

 ……彼はいつの頃か、山の闇なんか怖くない、と虚勢を張ってみたこともあった。まだ彼が旅に出て間もない頃だったか。虫の鳴き声がかすかに聞こえる、山頂近くの森の中。いつも泰然とした師に張り合うように、喧嘩をふっかけるように、強く、言い放ったのだ。しかし焚き火の向こうに座った師は、それを鼻で笑ってみせた。木片を小刀で削る手を止めることなく彼に一瞥をくれ、小馬鹿にしたように笑ったのだ。
 精一杯の虚勢を馬鹿にされ、己のうちに湧き上がる衝動のまま彼は立ち上がった。焚き火を回り込み、まさに師に掴みかかろうとする。しかしその直前、下方から突き上げて来た銀の鋭い光に射竦められ、咄嗟に身を引いた。彼の眉間より三寸と離れていない場所に、小刀の切っ先がある。その奥からは、小刀に負けず劣らず師の鋭い眼光が彼を睨み上げている。
「お前、なぜ身を引いた」
 師の低い声に、彼はやっとの思いで返答を紡ぐ。
「そ、そんなもの突きつけられたら……」
「――そうだ、お前は恐れたんだ」
 言って師は小刀を引いた。鞘に収め、木片と添えて傍に置く。憮然とした顔でその場に座り込んだ彼に、ゆっくりと向き直る。先の鋭さは何処へやら、その視線はいつものように凪いでいる。
「恐れたからお前は身を引き、結果怪我をせずにすんだ。違うか?」
 手玉に取られて悔しいのを隠しきれず、彼は焚き火へと視線を逸らした。しかし、師の笑い声に視線を戻し、力一杯睨みつける。師は笑いを収め、言った。
「山を侮るなよ、わっぱ。山は人のモンではない。獣が行き交い、神やモノノケが住まう人外の地だ」
 彼はそのまま頷くのが癪に思えて、師を睨んだままきつく問うた。
「……神とモノノケは違うのか?」
「さあな」
 そう言って師は彼からひょいと視線を外し、風に煽られる焚き火の、そして飛び散る火花の行く先を見つめた。焚き火は揺らめく濃い赤で手元を煌々と照らす一方、地に落ちる影を濃く長く伸ばす。
「人に富をもたらせば神と呼び、害をなせばモノノケと呼ぶこともある。善・悪にかかわらず、より高次のものを神、より卑近なものをモノノケとも呼ぶな。まァ、どっちも人には計りかねるモンってこった。……よっ、と」
 最初から除けておいた枝で赤々と燃える薪を崩し、火の勢いを調節した。一度赤い炎の中に黄色の火花が揺れて、忽ち赤に飲まれていく。一呼吸おいて、師は言った。
「恐れるべきモンを恐れん奴は、いつかひどいしっぺ返しを食らうってこったな」
 彼も視線を焚き火に据え、揺れる炎を見つめた。2人ともこれ以上何も言わず、薪の小山が続けて爆ぜる音に耳を傾ける。その背後に伸びる2人の黒々とした影は、周囲を囲う夜闇の方へ何度も不安定に揺らめいていた。

どこか遠くかもしれない。会うこともないかもしれない。 でもこの空の下のどこかに、私の作品を好きでいてくれる人がいることが、私の生きていく糧になります。