山羊の夢

    川を越えた風が、森を揺らしてゆく。
    その風につと誘われた山羊が、空を見上げた。
    そこには星が煌き、静かに道ゆく山羊の夢を見る。


 ようやく彼は地に腰を下ろし、星空を見上げて息をついた。数えきれないほどの星々が、彼の頭上めがけて降ってくるようだった。
「ああ、」
 そう呟いた彼の息は白かった。おそらく、自分の吐く息もかなり白いのだろう。
 ――夜。静かな暗闇は、どこまでも続く広がりを持ってそこにあった。獣の匂いが彼と私に纏わりついて広がってゆく。私は膝を折って枯草の上に腹ばいになった。仲間たちも各々適度な窪みを見つけ、身を寄せ合って腹ばいになっている。……もうすぐ、この草原は雪に覆われるのだろうか。
「……寒いね」
 彼は私に背中を押し付け、外套を頭から被って身を縮めた。私は彼の体に頭を預けるようにして、目を閉じる。僅かな星々の光も遮られ、私の中にも暗闇が広がってゆく。……蹄の端まで暗闇が広がりきったころ。彼の体は糸が切れたように力を失って、掠れた寝息を立て始めた。それを数えながら私も眠りに落ちてゆく。
 浅い、眠りの淵へ。

    夕陽が沈む
    果てしない地平の先に

 朝の風がそよ、と鼻頭を撫でていった。私は薄く目を開けて体を起こす。鈍色の雲が、遠くの山の向こうまで広がっていた。薄暗い朝日。色褪せた朝。斑に白くなった、枯れ果てた草原。――雪が降ったのだ。
 白く鋭い寒さに身を震わせた私は、視線を降ろした。彼はまだ寝ている。……寒さでつきつき痛む鼻先でつついても、彼は動かない。いつまで待っても白い息を吐きはしなかった。
 ……昨夜、彼は雪に誘われて深い深い眠りの淵に落ちてしまったのかもしれない。最後の最期に落ちてゆく、眠りの淵に。
 雪ほどに白い寝顔が、鈍い朝日を反射していて。


    彼は訪れる夕闇をじっと待っていた
    小舟のオールに添えた両手を、そっと薄闇に浸す
    音のない夜が、体に残った喧騒を塗りつぶしてゆく
    呼吸の度に物静かな大気が体を満たしてゆく


 ――ああ、彼はもう。
 彼とは違って、私は白い息を何度も吐く。

 黄昏の光の中で錯綜する、彼と似通った姿の人たち。昂った馬の嘶き。空をより一層紅く染め上げるような炎。訳の分からない怒号。鼻腔にこびりつく血の匂い。彼は幾人かと寝起きしていた場所から、独り飛び出してきた。平穏を踏みにじられ惑う私たちと共に、彼も惑い走った。そして辿り着いた見知らぬ草原で、呆然と夕暮れを眺め続け。
 夜が訪れたとき、ああ、寒いね、と白い息を吐いて、彼は眠ったのだった。深い深い、その淵へと降りていったのだった。

    そうやって身体を薄闇で満たして
    彼は何処へ向かうのだろう


 そういえば、彼はいつも何と言ったのだったか。
 太陽が山の向こうに消える頃。私たちを柵の中に集めた後。眠りに就こうとする私と仲間に、彼はいつも何かを語りかけていた。それは彼らの言葉で、私たちの言葉ではない。だから、私が彼にその言葉を返してあげることは出来ないのだけれど。
 ……彼の異変に気づき、仲間が私を遠巻きに眺めていた。しかし、私は何も言わず足元の雪を蹄で掻き除け始める。乾ききった草を食む。仲間たちも、各々雪を掻き除け始める。ただ、そこには仲間たちが草を食む音と、諦めたような白い吐息だけが聞こえていた。頼りない朝日は、白く鋭い寒さをより鋭くさせるばかりだった。


      *


 太陽が中天に達する頃、雪が空を舞い始めた。乾いた大気に、小さな白い雪が揺れる。草原がより白く沈んでゆく。大気が雪の匂いを濃くしてゆく。……眠ったままの彼を見下ろして、私と仲間たちは彼に別れを告げた。
 後方に独り残された彼の外套が、雪原の中、白く消えてゆく。
 一つ丘を越えて私が振り返ると、そこにはもう雪原しかなかった。ただ、私たちの蹄の後が点々と残されているのみ。でもそれも、いつか無慈悲な雪に埋もれてしまうのだろう。

 ……東へ行こう、と仲間のうちの誰かが言った。
 秋営地から冬営地へと移動するときは、彼は冬の鋭い朝日に僅かばかりの温もりを求めて彷徨うかのように、毎年東へと私たちを追い立てた。あの山の向こうにある冷たい窪地へ行こうと、誰かが誘った。――朝日が掃き清める雪原に立ち、彼が歓声をあげる姿はもう見ることができないけれど。あの瑞々しい力の有りように、私と仲間たちが甲高く応えることはないけれど。

 その彼の後姿を足下の雪原に投影しながら、吐く白い息を数えつつ私は歩いた。……なぜ彼は無慈悲な雪原を見て、歓声をあげていたのだろう。
 仲間の背に舞い降りる雪片。鈍い色をした空から舞い降りる白。この雪は、私たちの温もりを少しずつ奪いながら、今年も降り続けるのだろう。
 ……毎年、必ず体力のない仲間たちが雪に誘われて深い深い、眠りの淵に落ちていった。朝、雪原に踞ったまま白い息を吐くことのない仲間の躯を見つけると、彼はその傍らで必ずあの歌を歌った。長く尾を引いて雪原を流れてゆく、あの悲しい歌。ただ雪原に反響して、行き着く先を見つけられないまま流れゆく歌。そして、芯を突く寒さに体が金切り声を上げるまで、彼は仲間に寄り添うのだ。
 いつも、雪原は彼と私たちを生命の温もりから冷たく突き放そうとする。
 そんな無慈悲な雪原に何を見て、彼は歓声を上げていたのだろう。

    地平の先を見据える彼の瞳はもう、
    この岸からは窺い知れない


 それから、雪は毎日降り続いた。蹄で雪をいくら掻き除けても枯草が顔を出さないほど、ひらひらと降り積もる。そして、毎夜少しずつ仲間が、深い深い、眠りの淵に降り立っていった。そして彼と同じに、何も言わずに雪原に飲まれてゆく。行くあてもなく彷徨う私と仲間は、振り返っては消えてゆく自らの蹄の跡を、ただ呆然と眺めるだけだった。
 もう彼はすっかり、深い深い雪の底に埋もれてしまったのだろう。頼りない陽光を反射する雪原の上に、私は何度も思い返す。鈍い朝日に照らされた、彼の最期の顔を。そして何度もあの日から幾夜過ごしたのか数えようとして失敗し、その度に白い息を吐く。


      *


 ――その晩、空には大きな満月がかかった。雲に遮られないその強い光は、雪原に乱反射して広い広い暗闇を照らしていた。月の白々しい光が、暗闇を追いやってゆく。無数の星々はその光に、ただ声も無く夜空に立ち竦んでいるようだった。いつか彼と見た星空は、月が暗闇と一緒にどこかに追い払ってしまったのだろう。
 私は最後に残った仲間と身を寄せ合って座った。お互いの体温に顔を埋め、瞳を閉じる。
 ……瞳を閉じても強い月明りは目蓋で上手く遮れず、簡単に私の中に暗闇は広がってゆかなかった。それでもじっと暗闇が訪れるのを待ち。……そしてようやっと私は、浅い浅い、眠りの淵に立った。
 独り、浅い浅い、眠りの淵で。最後の仲間が、深い深い、眠りの淵に降りてゆくのを、ただ呆然と眺めていた。


    彼の後ろ姿を追って
    夕闇が、際限なく広がってゆく


 独りきりになった朝。ただそこには何もない雪原が広がっていた。白く色の抜け落ちた朝日。雪原も、どこかくすんで見える。もう、これからは体を寄せ合うものも居ない。みな深い深い雪の底に沈んでゆく。ただ風の吹きすぎる音だけが、私を取り巻いては去ってゆく。……静寂の朝に、私は目を閉じる。その場にうずくまり、ただ風の音が過ぎる時を知らせるのを、静かに聞いていた。


    彼方、遠くに夢を見た

    人の絶えた細道を枯葉が覆う
    いつしか土になり草木を内に孕む
    そこに落とされてしまった種は、
    長い長い呼吸を繰り返しながら
    少しずつ伸びて行く
    まだ獣の戻らない、その道
    枝葉が空を割って伸びて行く
    ――膝を抱えて見た
    音の無い、夢


 ……私はまた浅い浅い、眠りの淵に立っていた。一歩足を踏み出せば、自らも深い深い、眠りの底に落ちてゆけるような気がした。ぽっかりと足下で口を開ける、その眠りへ。ただ冬が無情に最期の眠りへと誘うのに任せてしまおうか。
 大きく息を吐き出して――

 ――おやすみ。いい夢を。

 ……そう、彼は毎晩そう言って私たちに眠りの時を告げたのだった。太陽が地平線に飲まれていくのを渋る夏は、生まれたばかりの仲間の子をさらりと撫でながら。吹きゆく風雪が鋭く弱った仲間を貫く冬は、いたわるように何度も撫でながら。
 ――おやすみ。いい夢を。そして、夢から醒めたらまた旅に出よう。


 近くで仲間の声を聞いたような気がして、私は目を覚ました。無理に頭をもたげて、眠りを遠ざけようとする。鼻先に残っていた眠りの気配を、勢いよく白い息を吐き出して追い払う。冷えて固まった膝を震えながらも何とか立たせる。背にのしかかる雪の層を払い落として、足を何度も踏み直す。大きく吐いた白い息が流れる先を辿るように、視線を上向けた。
 朝日の切れ端が、待ちきれないように山の端を明るく縁取る。その朝日を背負い、私の足下に薄く細長い影を揺らして、見知らぬ同胞たちがいた。十数頭の群れ。その中で、おそらく一番若いのだろう同胞が、小走りに私の方にやってくる。叱咤したいのか、それともただ興味を示しているだけなのか、その小さな鼻先で私の腰をつつく。私は、ぐっと腹に力を入れて、体制を立て直した。もう一度、背と頭を振るう。……まだ、後ろ足を引くように下半身に残っていた、眠りへの誘いを落としきる。
 ひとりか、と同胞の一人が問うた。
 私は傍らに横たわる、深い深い、眠りの淵へ落ちていった仲間の躯を無言で見やる。
 ただ、朝の無慈悲な風が、仲間の背を滑って流れてゆく。この風は、いつかはどこかに辿り着くのだろうか。


    たった2本の足と腕
    物を掴む指はたったの10本で
    光を捉える目は2つのみ
    なんと人の矮小なことか
    まだ私が知らない広大な大地が
    終わりなく続いているのだ

    なんと人命の儚いことか
    全てを知り尽くす前に
    誰もが土に還ってしまうのだ


 ……あなたたちは、どこへ行くのです、と私は問うた。
 星と空が語るに任せて、と同胞は応えた。
 私は周囲を見渡した。不審げに、興味深げに、同胞たちは私と視線を交わす。少し煌めきを増した朝日の破片が、その間を舞う。白い雪原に、それはとても儚く――

 ――雪は、光の欠片を宙に遊ばせるんだ。

 彼はかつてそう言ったことが、あった。誰に語るでもなく、仲間の躯をそっと撫でながら。
 躯に止めどなく舞い降りる雪を、躍起になって払おうとする私の鼻頭を押さえて。

 そっと躯の背をなぞる緩やかな風が、幾片かの雪を巻き上げた。山を超えて差し込む朝日が、その小さな雪の欠片に数種類の白を交互に光らせながら、西へ流れた。
 ……毎夜のごとく無慈悲に彼を、仲間を、深い深い眠りの淵へと誘った雪。しかし眼前に広がる雪原は素知らぬ顔で、朝日に戯れている。……もしかして、彼はこの煌めきに歓声を上げたのだろうか。
 ただ、あるがままの雪の姿に。


    ――なんと、この世界の輝かしいことか
    未踏の荒野が、神秘の大海が、
    この私に語りかけるのだ


 西方を眺めて長く白い息を吐いた私に、同胞はまた問うた。
 共に来るか、と。

    さあ、耳を澄ませ、目を凝らせ、
    あの大空まで手を伸ばしてみろ

    まだこの世は語られるべき空白に満ちている


 ……この白く広がる雪原の中を、同胞たちは移ろい続けているのだろう。どこに留まるでもなく、星が、空が示すまま、雪の煌めきと共に移ろいゆくのだろう。――この草原を渡り、いつか彼に辿り着く風のように。
 私は、沈黙した仲間の背にひとつ白い息を吐いて、同胞たちに向けてゆっくりと蹄を踏み出した。

    山端を裂いた朝日が、山羊の夢を晒してゆく。
    その光に急き立てられた星々が、空に隠れた。
    そこには雲が流れ、風吹く野に立つ山羊の蹄を導く。

 それは、長い長い、一冬の夢の物語。
 朝露と共に光へと消えゆく。――そんな、静かな静かな、物語。

    さあ、新しい風が川を越えて吹いた。
    ――また、誰かの夢を揺らしにゆくのだろうか。

どこか遠くかもしれない。会うこともないかもしれない。 でもこの空の下のどこかに、私の作品を好きでいてくれる人がいることが、私の生きていく糧になります。