苔むした理想郷

 ちゃぽん。
 苔色に濁った水面が波紋を描く。

 池端に据えられた、本来持っていたはずの温もりの色を雨に流された、灰色のベンチ。そこに一人の老婆が腰かけていた。

 ちゃぽん。
 藻で粘着性を得たかのように見える水面が揺れる。

 のったりとした波紋を目で追っていた老婆は、ふと視線を上げた。薄く緩やかに流れる霧の向こうを見据えて呟く。
「どなたかな」
 霧に映る影が動きを止めた。老婆の掠れた声が霧に失せてしばらくの後、影は応える。
「……あの」
 その言葉の続きを探しているのを見て取った老婆は、ふっと息を吐き出して、腰を上げる。ベンチの端に座りなおした。
「とりあえず、こちらへおいで」
 影――男がためらいつつも老婆の隣へやってきた。痩せぎすの男を見上げる老婆。皺ばかりの老婆を見下ろす男。身動きひとつしないまま。
 視線を外して老婆はため息をつく。
「――お座り」
 ベンチが小さく悲鳴を上げた。男はベンチの端に半分だけ腰かける。視線のやり場に困り、小さく波紋を浮かべ続ける池を見つめ。
 ――沈黙の音。耳を支配してゆく。
 霧。濃くなり薄くなり。風もないのに揺れ動き続ける。

     ――目を瞑る

     まず光が消え、
     次に音が消え、
     そして地面が消えた

 ちゃぱん。
 大きな波紋を作って、何も見えない苔色の池から何かが顔を出した。
 暗く濁った苔色のそれ。一瞬姿を見せて再び池に沈んだ。ただそこには波紋だけが残る。

     ワタシは、
     足元の大穴の真上に
     よって立つ地面もなしに
     ただひとり立っていた


「…どなたかな」
 老婆の乾燥しきった声に肩を震わせ、再び押し寄せようとした沈黙の音に抗い、男はためらいがちに自らの名前を呼気に乗せた。
 波紋を見つめたままの老婆に男は言葉を重ねる。
「今は会社員で……経理の仕事を」
 老婆の相槌はない。
「生まれは長野だが今は東京にいて……」
 再び沈黙が鼓膜を圧迫し始める。

     世界は、
     本当はパックリと口を開けて、
     何かが落ちて来るのを、

 ちゃぽん。
 波紋がまたいくつも描きだされる。

     そうしてじっと、
     待っているのだろうか

「どなたか聞いておるのだが」
「え、あの……」
 男の戸惑う声に、老婆はため息で返す。
「お前さんの所属や所有物に興味はないんだよ。――お前さんはいったい誰なんだと聞いておるのだ」
 だからあの、ともう一度名を告げようとする男を遮って、
「名前もお前さんを記号化した、お前さんの所有物に過ぎんよ」
 ようやっと視線を男に向けた。正確には男が両腕で抱えた鞄に。なんの個性もない会社鞄。
「その中身を見てもよろしいか」
 言いながら老婆は鞄を取り上げ、その場で逆さにした。慌てて腰を挙げた男がその場で固まる。

 ちゃぽん。

 老婆の足元に広がったのは、入っているはずの書類の束ではなく、茶色の木片の山だった。
 会社員。羨望。妻帯者。日本。焦燥。三十二歳。東京。部下。歓喜。アパート。夢。倦怠。後悔。計画。父母。教養。過去。資格。子供――
 老婆は無言で足元の、多種多様な単語が書かれた木片の小山を足で切り崩す。ひっ、と小さく悲鳴を上げた男を横目で見て、
「こんなものが大切かね。――喰っておしまい」
 後半は小さく波紋を繰り返す池に向けて、老婆が静かに言った。

     底は、見えない

 ちゃばん。

 先ほど一瞬だけ姿を見せた、暗い苔色のそれが、池端から大きく身を乗り出してきた。目も何もない。のっぺりとした寸胴のそれ。先端は池に隠したまま、体を幾度か蠢かせて老婆の足元まで近寄ってきた。
 池が大きな波紋を繰り返し、苔色のそれが地面を濡らしていく。辺りにむせかえるような苔の匂いが満ちた。
「さあ」
 苔色が、一瞬男を見上げるような仕草をし、体に大きな穴を開けた。端に空いた口のようなそれが、次々と木片を飲み込んでいく。
「あ、……」
 喘ぐ男を尻目に、全てを呑みつくした苔色は、また蠕動運動を繰り返して池に帰っていった。

 ちゃぽん。――ちゃぱん。

 放心したように佇む男に老婆は鞄を押しつけた。
「それでお前さんはどなたかな」
 木片があったはずの場所に視線を這わせたまま、男は応えない。
 また沈黙が訪れる。池も沈黙したまま、波紋一つない。

 ぎし。

 ベンチの小さな悲鳴。老婆の掠れた溜息。
「――沈黙。それが今のお前さんかえ」
 その時、霧を揺らして一筋の風が吹いた。足元でなにかが小さく音を立てる。
 それを見て取った男は、鞄から投げ出されたよりも随分少ない数の木片を拾い上げ、鞄にしまった。
「……行きます」
「そうかい」

     ――目を開ける

     世界は、
     本当はパックリと口を開けて、
     何かが落ちてくるのを、
     そうしてじっと、
     待っているのだとしても、

     ワタシは、
     それでもこうしながら、
     生きてゆけるのかもしれない

 霧の向こうに消えた人影から視線を戻して、老婆は呟いた。
「随分と、迷いが多い人だったねえ」

 ちゃぽん。

 老婆は目を閉じて繰り返す波紋の音を、再び数え始めた。
 風のない大気の中、霧が流れてゆく。

     ――目を瞑る

どこか遠くかもしれない。会うこともないかもしれない。 でもこの空の下のどこかに、私の作品を好きでいてくれる人がいることが、私の生きていく糧になります。