男性の育休取得は広まるか

8月12日の日経新聞で、「進まぬ男性の育休取得 促進阻む壁の全容解明急げ」というタイトルの記事が掲載されました。男性の育休取得促進は社会的課題とされてきましたが、そのことについて考察している内容です。

同記事の一部を抜粋してみます。

状況を改善するため、最近は休業中の所得補償の拡充が検討されている。しかし所得補償の拡充が即、男性の育休取得の拡大につながるかは定かでない。すでに経済協力開発機構(OECD)諸国の中で、日本の育休制度は母親の就業や育休取得の有無にかかわらず父親が休業でき、所得補償の水準も手厚いと評価される水準に達している。

メアリー・C・ブリントン著『縛られる日本人』(池村千秋訳、中公新書・22年)によると、米国・スウェーデン・日本を比較して育休制度が充実しているのは日本である。日本の課題は制度ではなく、手厚い制度があっても職場での評価や世間の目を気にして男性が利用できない「規範」にあるとする。

つまり、男性の育休取得の阻害要因は、夫は仕事中心で妻は家事育児を担うという「男性稼ぎ手モデル」を前提とした固定的な働き方や職場風土にある。これでは制度をさらに充実させても取得が本人の選択に委ねられている限り効果は限定的で、男性の「育休取得を義務化」するという強制がない限り、変革は望めないとする。

インタビュー調査に基づく齋藤早苗著『男性育休の困難』(青弓社・20年)の分析によると、日本で男性の育休取得が難しいのは性別役割分業意識の存在のみでなく〈仕事優先〉の時間意識の影響が大きい。仕事を何より重視すべきだという社会的な要請がいっそう、男性には仕事、女性には家事・育児を選択するように作用しているのが現状である。

男性の育休取得はカップルでの子育ての実現、つまり出産前後だけでなく子どもが大きくなるまで男性が持続的に育児参加することを促進するだろうか。中里英樹著『男性育休の社会学』(さいはて社・23年)は、そうした変化を引き起こすには短期の育休取得や妻の産休中の取得などではなく、ある程度長期かつ「父親の単独育休の取得」が不可欠だとする。

単独育休とは「特に妻が職場に復帰し、(夫が)ある程度長期に単独で休業を取得することで子育ての完全な担い手となること」を指す。その経験は「母親でなければできないと考えられてきたことがらを、その思いこみから解き放つこと」につながり、「社会全体での働き方の仕組みの転換への鍵となる可能性」を持つという。

「イクメン」という言葉がもたらした影響についても考えてみたい。この用語を「育児をする男性は格好良い」という意味合いで使って男性の育休取得を促そうとする取り組みについて、関口洋平著『「イクメン」を疑え!』(集英社新書・23年)は、それができない父親の背景事情や格差などを隠蔽することにもなると批判する。

また、男性の育児が根付かない現状を打破するための「育児は仕事の役に立つ」という主張に対して、「育児は『仕事の役に立つから』行うべきものなのではなく、家庭の、母親の、子どもの、そして社会のために行うべき」だと主張する。大事な論点である。

同記事に関連して2点考えました。ひとつは、課題解決のためには、直接の当事者(本テーマであれば子育て中、あるいは子育て予定のある男性)以外の人や周囲も意識と行動の変容が必要ということです。

例えば、男性の育休取得の阻害要因のひとつである「男性稼ぎ手モデル」は、当事者である男性に加えて、女性や妻も同様にそのモデルに囚われていることに起因しています。

「もっと夫にも家事育児に参加してほしい」「家事育児は夫婦等分での分担が望ましい」と考えている妻が、「労働による収入は夫婦等分で十分/等分が望ましい」などと考えているかというと、必ずしもそうではありません。

マイナビウーマンのサイトを参照すると、結婚相手に求める条件として、男性が女性に求めることの中に経済力や年収はあまり挙がってきません。一方で、女性が男性に求めることの中で、「経済力があること」が5位に挙がっていて、52.5%の女性が重要な条件だとしています。「年収〇〇万円以上を稼ぐ男性が良い」などという条件を挙げるのも、女性ならではです。

世の中は「男性稼ぎ手モデル」になっているのだから妻は夫に稼ぎを期待せざるをえないのか、妻が夫に稼ぎを期待するから「男性稼ぎ手モデル」の世の中が変わらないのか。どっちが先かというより、卵と鶏のような関係であって、双方に対して同時に手を打つ必要があるのだと思います。少なくとも、男性側に対してだけ「がんばって制度を利用せよ」と働きかけるだけで解決する課題ではなさそうです。

2つ目は、テーマの打ち出し方によって、意図しない印象操作になったり論点がすり替わったりしてしまう可能性です。

私も「イクメン」という言葉には、以前から個人的になんとなく違和感がありました。ですが、その違和感の正体が何なのか、よくわかりませんでした。しかし、同記事によってその正体が垣間見えた次第です。

それは、「イクメン」論が「育児の経験が、今後の仕事や人生に活きる」といった、別の目的で語られることがあるということです。

育児は本来、自立していない子どもに必要な機能を提供するという営みのはずです。親としてその営みを実行するわけです。「別のことで役に立つからやる」ものではありません。あくまでも子育てはそれ自体が社会のためであり、その社会のための行動を本人や本人の周囲の人、本人の属する組織がどう捉えるべきかの観点で考えない限り、課題解決には向かわないと捉えるべきなのだと思います。

なお、自立していない子どもに必要な機能を提供するのは、必ずしも親だけで行う必要はなく、別の方法でもよいと言えます。今でも、保育所などが子育ての機能で親の代行をしています。世帯構造も変わり少子化が進む環境下のこれからは、この代行の範囲を広げ、社会全体で子育てするという構造をさらに進めるべきなのかもしれません。

<まとめ>
ある課題に対する直接の当事者の責任は大きいが、間接的な当事者の責任も大きい。

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