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「共感」と「同感」

先日、コーチング仲間で勉強会をした際に、「共感」と「同感」の違いについて話題になりました。コーチングやカウンセリングで、その価値や意義が強調される「傾聴」は、「同感」ではなく「共感」の姿勢で相手の話を聴くことが基本とされています。勉強会は、そのことについて理解を深める機会になりました。

「共感」と「同感」の違いについて生成AIに聞いてみると、以下の回答でした。完全な回答ではないものの、だいたいの説明要素はおさえている感じでしょうか。ここでも、傾聴が共感を土台にしていることが出てきました。

同感と共感は、微妙に異なる意味を持つが、どちらも相手とのコミュニケーションにおいて重要な役割を果たす。同感は、ある出来事などに対して同じ価値観を持っている相手に対して同意をすることを指す。一方、共感は、ある出来事に対して相手と一緒の気持ちになって感じることを指す。共感は感情を共有するニュアンスが強く、同じ感情を持って相手の気持ちが理解出来ることが「共感」である。同感は主に一般会話で使われ、共感は主に傾聴で使われる。

「同感」は、「私はあなたの主張に同感です」のイメージです。相手の主張や意見に自らも賛成である場合に使います。そこには自分の価値観や意見が反映されます。つまりは、聞き手の価値判断が含まれます。

これに対して「共感」は、「あなたの怒りに共感します」のイメージです。相手の感情を推測し理解しながら、その人の気持ちに寄り添うことです。聞き手の価値判断は含まれません。相手の中で、自分がどうしてそのような気持ちになったのか、自分はどうしたいのかの内省を促すには、「共感」のほうが有効とされています。「同感」は聞き手の価値判断を聞くだけにとどまり、それ以上話し手の思考プロセスが進まないからでしょう。

「共感」に関連し、勉強会で話題になって意見交換したことから、印象に残ったことを3つ挙げてみます。ひとつは、「共感とは、相手の気持ちを別の人が言葉として表現してあげるというのに尽きるのではないか」ということです。

つまりは、話し手にとって、自分以外の誰かが自分の気持ちを言葉に出して自分に向けて届けてくれる、ということです。

私たちは、自分以外の誰かに受けとめられたと実感できることで、安心して思考したり行動したりできるものです。ありのままの自分を肯定的、好意的に受け止めることができる自己肯定感も高まります。具体的な言葉となって届くことがポイントです。

話し手が「腹立たしい」と言ったら「腹立たしいのですね」とオウム返しにするのもよいですし、直接言葉に出さない相手の気持ちを察して「腹立たしいと感じているのでしょうか」と問いかけてもよいでしょう。相手の話から聞き手の自分がどう考えたかではなく、相手が何を感じていそうかを自分なりに言葉に表すということです。案外、普段できていないことだと感じました。

2つ目は、「ニュートラルでない自分に気づく」という視点です。

相手の感情を自分も共有するには、自分がニュートラルな状態である必要があります。自分の価値判断を挟んだ聞き方では「同感」or「非同感」になってしまいますし、自分が怒りや悲しみなどでぶれが大きい状態では、相手の話を共感的には聞けません。

では、どうすればニュートラルな状態になれるのか。それは、ニュートラルでない自分に気づけばよいというわけです。瞑想やマインドフルネスを日常的に取り入れるとよいと言われますが、これらはまさにニュートラルな状態を意識的に取り戻すための訓練と言えるかもしれません。

瞑想やマインドフルネスの練習をしたことがある人であれば、「自分の呼吸に全集中するなどの練習が目指そうとしている、雑念のないような状態に、今自分はあるだろうか?」と問いかけてみるだけでも、ニュートラルでない自分に気が付きやすくなるのではないかと思います。

3つ目は、「相手と共に進みたい」というキーワードです。

「共に進みたい」が共感的な姿勢で、対照的なのが「相手を助けたい」ではないかという話になりました。「相手を助ける」も悪いことではなく良いことです。そのうえで、ややもすると「上から下を見ている」「自分が一方的にそう思っている」となるかもしれません。

これに対して「共に進む」は、相手と自分が一体であり、対等な関係だということが際立ってくる印象です。上司・部下の関係などでは、「助ける」を前面に出すことが適している場面もある一方で、テーマや置かれた状況によっては「共に進む」を前面に出した共感的な姿勢・かかわり方のほうが適している場面もあると思います。

「共に進む」と捉えることで、共感的なかかわり方がイメージしやすくなるのではないかと思います。

<まとめ>
相手と共に進み、気持ちを感じる。

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