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指導で威圧的な言動は効果があるか

6月5日の日経新聞で「元球児の学者、体罰連鎖絶つ 選手尊重の指導法追求」というタイトルの記事が掲載されました。部活での指導方法が変わっていることを取り上げた内容ですが、これは部活に限らず企業内の指導などでも言えることだと思います。

同記事の一部を抜粋してみます。

エースで4番。1989年夏の甲子園のマウンドに立った高校時代は、指導者の威圧的な言動に選手が耐えるのが当たり前だった。それが今では、選手を尊重した指導方法をスポーツ指導の現場に伝える橋渡し役を担う。

教壇に立つ桐蔭横浜大学の教授、渋倉崇行さん(51)の専門はスポーツ心理学。大学の活動の傍ら、学校の部活動や地域のスポーツ少年団などのコーチを対象にしたセミナーを開く。

年間数十件の依頼をもとに全国に出向く。感情的に怒らない指導法も伝え続けていると、5年ほど前からは大手を含む一般企業からもセミナー依頼が舞い込むようになった。

パワーハラスメントを許せば、組織は萎縮してパフォーマンスは低下する。古い指導から抜け出し、選手の自主性を引き出して成長を導く指導方法はスポーツ分野に限らず、企業など多くの組織が模索するテーマだ。

理不尽さを乗り越えなければ強くなれない――。憧れだった甲子園にたどり着いた経験から自身もそう思い込んでいた。

体育の指導教員を目指して進学した大学の講義で、スポーツの語源や意義について「喜びであり、楽しいもの」と説明されると、価値観を揺さぶられた。「そんなワケがない」。高校時代に野球を楽しんだことは一度もなかった。

海外の指導方法を紹介した書籍や論文を読みあさると正反対だった。

恐怖で支配する指導は、選手が監督の顔色をうかがって失敗ばかり恐れる。自分で課題を分析しながら挑戦を繰り返す成長サイクルは描けない。

高校時代にどこか気づいていたことだった。こっそりと練習計画をつくり、自主練習の研さんを記録したノートが甲子園に向かう力となったと思う。「おびえなければ、もっとうまくなれたのでは」とも感じる。

「一方的に指示するのではなく、まずは選手の考えに耳を傾けることから始めることが大事」。プログラムでは参加する指導者にセミナーでの学びをもとに指導計画をたててもらう。

実際の体罰の事例では適切な教え方が分からず、思わず手をあげてしまうこともある。これまでの指導者に欠けがちだったコミュニケーションスキルの学びこそが、スポーツの未来を開くと信じる。

「時代によって適切な指導方法はどんどんアップデートされていく」。スポーツは誰のために、何のためにあるのか。自らも学び、指導者とともに問い続けていく。

同記事に関連し、3つのことを考えました。ひとつは、適切な指導内容を追求し続けるということです。

私も学生時代に、「動けなくなるまでうさぎ跳び」「練習終了までは水を飲んではいけない」など、今となっては間違いだらけの指導を普通のことだと思って取り組んでいた時期があります。指導を受ける側には是非を判断できないことも多いものです。指導者側が適切な指導に対して負っている役割の大きさを改めて感じます。

そのうえで、自分がそういう指導を受けてきて、周りも同様にしているのを見ると、「このテーマについての指導内容・指導方法はこういうものだ」と思い込んでしまいがちです。

同記事のようなイメージで、どこか感じている小さな疑問に焦点を当てて、発展的に考えることが大切なのだと思います。また、日常から離れたところで情報収集を行い、視点を変える考え方や新たな提案を見聞きすることで、今やっていることが適切なのか振り返る機会になります。それらによって、古くから当たり前だとされてきた方法論をアップデートし続けることです。

2つめは、相手の状況に合わせて指導内容を調整する視点です。

以前、当該テーマに関する相手の成熟レベルに合わせて、指示内容の具体度を調整するという視点を取り上げました。何の知識も経験も持たない新人に「この件は、自由な発想で企画してみて」と言っても、何も思考できず、進めようがないかもしれません。

上記の「まずは選手の考えに耳を傾ける」も、そのスポーツをそれなりにやってきたうえで選手に一定の判断力があることが前提だろうと思います。その仕事に対して何のスキルも持たない新人に、いきなり「どうしたいの」「どうしたらいいと思うの」と聞いても、答える材料が何もないかもしれません。

「状況対応型リーダーシップ」という考え方があります。その領域においての相手の知識・経験・熟練度、意欲・自信などの度合いに応じて、指示中心にするか、見守り中心になるかなど、適切なかかわり方を考え続けることが大切だと思います。

3つめは、そもそも威圧的な指導が効果を生むわけではないということです。

第861号では、歴事情の人物で、指導者中の指導者である吉田松陰氏は、弟子や子どもに対して穏やかに接し、決して声を荒げることはなかったという話を取り上げました。

体罰は論外として、手をあげるまではいかない指導については、「あえて威圧的な声などで相手に迫って発奮させることで、成長を促せる」と考えている指導者もいるようですが、本質は別のところにあるのではないでしょうか。

もちろん、指導者やコーチの熱意や本気度は指導を受ける側にも伝播するものだとは思いますが、その熱意や本気度は被指導者に対して激しい言動で直接発揮されるべきものではなくて、別の形をとるべきものなのだと思います。

吉田松陰氏のエピソードからは、指導者がメンバーから一目置かれる面を持っていれば、わざわざ声など荒げなくてもメンバーは指導者の言うことを積極的に受け止めようとする、ということも言えます。

「昔からこういうやり方でやっている」が、伝統を守るうえで適切な場合もあれば、そうでない場合もある。同記事をヒントにしたい視点だと思います。

<まとめ>
自分で自然だと思い込んでいることを、別の角度から再評価してみる。

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