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インフルエンサーっていう言葉が、嫌い。

先日、とある場でこんな質問をもらった。

「いろんな方と関わって仕事をされていると思うが、どうしても合わない人との関わり方、向き合い方はどうしているのか?」

ありがたいことに、仕事柄、様々な分野・世代の方々と関わらせていただいている。しかし、その質問はぼくにとって、難しいものだと思った。そのときぼくは、①徹底的に聞くこと(これはとっても難しい)、②否定をせず、しかし、適当な距離をとること(これもとっても難しい)、と答えた。

ひとつめは、失敗のような、成功のような話がある。ファシリテーターとして、とあるワークショップの場に呼ばれたときのことだ。

それは、行政が進めている計画(洋上風力発電の計画:海洋上等に巨大な風車を設置し発電をする)に対して、地域住民が大きく反発している現場でのこと。

そのとき、ぼくに課せられたのは、「行政」と「地域住民」が対立的な構造になっているので、そこをうまく橋渡しする、そういうミッションだった。ぼくは、その命を受けて、ワークショップの段取りを組んでその会に臨んだ。だけれど、まったくもって場が荒れてしまった。

参加していた(高齢の)方が、ぼくが話しているマイクを奪って「こんな会議なんの意味があるんだ!」と怒鳴ったり、進めている中でも「お前はそもそも誰なんだ!」「こんな会の進め方は許せない!」というような怒りの声が飛び交ったりしていた。

当初は3時間の会を想定していた。けれども、これはもう予定を完全に変更するしかないと思って、参加されていたみなさん(50名近くの方が参加していた)に、ぼくはこう言った。

「きっと、この(洋上風力発電)計画を進めていくという話を聞いて、いろいろな不安や恐怖、怒りがみなさんの中にうまれたのだと思います。少なくとも、ぼくはこの時間でそう感じました。だから、今日のあとの残りの時間(2.5時間)は、みなさんの話を聞くことに徹したいと思っています」と。ファシリテーターではなく、ひとりの人間としてその場に存在したい、とぼくは願っていた。

みなさん、いろいろな話をしてくださった。そうして、終わりの時間になったときには、怒っていた方も、一緒に片付けを手伝ってくださったり、「お互いに大変ですよね」というような声をかけてくださったりした。

聞く、ということには、ケアし合う可能性があるということを、この場で学んだように思う。そのできごとを通して、合わない(対立的になっている、考え方に共感できない、怒りが全面に現れている)と感じても、聞くというスタンスを取りたいと思うようになった(しかし大変難しいので、うまくできることばかりではない)。

もうひとつ、適当な距離をとるという話。これはどうしても、いろいろな活動をしていると、ご指摘のお言葉をいただく機会も増える。もちろん、学びとして、自分の血肉にするものもある。だけれど、そういうものばかりでもない。

多様な関わりの中で、お互いの価値観がぶつかるときもある。特に、「厳格な」世界にいらっしゃる方や、長年「地域」というテーマで活動されてきている人と、価値観を異にすることがある。対立してしまうことがある。そうした中で、本来であれば、対話を重ねて、どちらも想定していなかった新しい理解に至ることができれば素晴らしいのだと思う。でも、それは、そんなに簡単なことではない。

一方的に、自分の「正しさ」を突きつけられたとき、その「正しさ」に従うように要求されたとき、どうあれるか。受け止めつつ、対話を続けていけるのが、本当は良い。だけれど、自分はまだそれほどに成熟していない。だから、自分を守れるよう、相手を否定することなく距離をとるんだという話をした。それは翻って、自分も自分の「正しさ」を無意識のうちに、他者に要求しているんだという自覚でもある。

多様性を担保するということは、全員が手をつないで仲良しこよしをすることではないと思っている。耐えきれないほどの「異質性」に対して、どれだけ寛容であれるかということ、理解できない・共感できないという相手に対して、それでもその存在自体を肯定していく、ということが多様性を担保することであるように思う(いや、これは本当に難しいと思う)。知りながらも、合わないと思いながらも、でも相手を変えようとしない、そういうスタンスであるように思う。

それは、きっと、両者がともに「ゆらいでいく」という状況でもあるように思う。一方の力に引っ張られるわけではなく、ともにゆらいでいく。作用していく。混ざり合っていく。そして、変化していく。そうしたコミュニケーションであるように思う。


まだ、タイトルの伏線を、回収できていない。

インフルエンサー(世間に与える影響が大きい人)という言葉が嫌い、と言った。

ぼくは、影響を与えるということは、能動的なことばかりではないと思っている。上に書いたように、徹底的に「聞く」ということ、つまり、「発信する」のではなく、「受信する」ということも、実は、他者に大きな影響を与えうるんだ、と思っている。そして、その上で、ともに「ゆらぐ」経験が、人を人として大きくしてくれるとも思っている。

過去に関わっていた方から、こんなことを言われた経験がある。

「話してもらったことではなくて、あのとき聞いてもらった、あの瞬間が、今も一番印象に残っています」。

人はなにを得たか(だけ)ではなく、なにを出したか(与えたか)を、記憶しているのかもしれない。

インフルエンス(インフルエンサー)という言葉は、どんな意味なんだろうか。そう思って、語源を調べると、「中に・流れ込んでいく・もの(元々はラテン語)」とあるので、双方向的な何かではないようだ。

結局、ぼくがやりたいことは、影響を与えることではない。人の中に眠っている、活かされていない可能性や実現できていない価値、それらをエンパワメントしていくことのようだ。インフルエンスすることとは、むしろ対極にあることなのかもしれない。


「インフルエンサーという言葉が、嫌い」と書いた。自分らしくない、強い言葉を使ってしまった。嫌い、という言葉以外で、その感情をうまく表現できたらよかったのだけど。

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