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「無駄」こそクリエイティブ。やりたいことはなにかとなにかの間に宿る。

問いかけがないと学べない。気づけない。自分の未知に気づくためには、他者からの問いかけ(もちろん自分で自分にも問えるけれど)がとても大切だなあ、と思っている。

先日の講演で、コーディネーターの方から「やっていることが楽しそうなんですが、なぜそうなのですか?」と聞かれた。

自分はなにが楽しいのだろう、と。協働的にものごとを進めていくのは好きだったし、その中で関係性が深まったり、新しい気づきが得られたりするのが好きだった。自分が生きる限られた時間の中で「この人たちとこんなことができた」「こんな価値を生み出せた」ということは、最高のプレゼントだと思っている。だけど、それとは違う、別のところにもなにかあるのかもしれない、と思った。

しばらく考えてふと気づいたのが「自分は無駄なことばかりやっているのかもしれない」ということだった。

無駄というと語弊があるかもしれない。それらは、どこかでいつかやらなくてはいけないことなのかもしれない。だけど、今すぐにやらなくてもいいように見える、ぼくはそんなことをやっているような気がした。そして、そういうことを面白がっている、楽しんでいるような気がした。だから、あくまでも仕事としてだけではなく、活動としてやれているように感じた。

特に、今力を注いでいる「ミーツ・ザ・福祉」という取り組みはそうだ。年に一度の「福祉のフェス」イベントなのだが、年間を通してずっと様々な活動や会議を続けている。「仕事」としてはあくまでも年に一回のイベント。でも、それ以上に関わっている。それは、ちょっぴり変わったらいいなと思う価値観や風景があるからであり、今まで関わることのなかったあの人たちと出会ってしまったからなのかもしれない。

効率的な世の中から排除され続けてきたものの中に面白みはある、とぼくは思っている。

すべてが自動化・効率化されたときに「それでもなぜ自分は生きるのか」という究極の問いに答えていかないといけない。やらないといけないこと、やるべきことは確かに存在する。だけど、変化はそれを超えた部分でこそ起こっていく。つまり、変化はある種の「無駄な(でもいつかやらないといけないかもしれない面白みのある)行為」を元にして生まれていくのだと。そしてそこに、自分たちは生きる意味を見出せるのではないか。自分が関わったことによって、少しでも、取るに足らないことでも、社会が、だれかの気持ちが、あの人の行動が、変わった、揺らいだ、そんな瞬間を感じるために生きているのではないか。

生きる意味を追いかける必要はないと思う。やりたいことを見つける必要もない。それは、だれかとの関わりの中で勝手に感じられるものだとぼくは思っている。だから、できるだけ多くの人たちが直面している現実を知りたい。そして、知ったことで揺らぐ自分の内面を見つめたい。ぼくのやりたいことはそこから生まれていく。

ぼくの仕事は「デザイン」ではない。社会の中に異質をつくり出し、混乱を生み出し、日常に揺さぶりを与えていく。非日常として生まれ出たものをいつのまにか日常の中に位置づける。そんなこととできるだけ多くの多様な人たちに関わってもらってやっている。

「無駄」や「遊び」がなくなると、社会が淀む。ぼくたちは仕事をするためだけに大人になったわけではない。

「あーそーぼ!」「いーいーよ!」と言ってふざけながら、社会と関わっていくのもいいのではないか。それが、ぼくにとってのクリエイティブであるから。

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