見出し画像

~ゆきだるまさんが春をまつ春をたのしむ~春待ち腕

栗の木。
誰もが木の色と言えば、こういう色を思い浮かべるのでは無いかなという
親しみのある色をしているように思われます。そして、やはりその名前、栗。
これほど誰も彼もがご存知の木も、あまり無いのではありませんか。

そして、あの可愛らしい木の実。美味しい栗。おいしい木の実が成る栗の木。
もしも触れてしまったら、それはそれは痛い思いをする、あのイガの中から
コロリと、ツヤツヤとした焦茶色の木の実が飛び出して来る、それが、栗。

先日、ネットショップへ[栗のまんまる椀]の新作を載せました。正直に言います。最初は気がついていなかったのです。その景色に。
ある日、ふと・・・それを見ていたら、あれ・・・あれれれれ・・・ゆきだるま?


真ん中に
ゆきだるまさんが こんにちは!

見れば見るほど、そういう風に見えてきたのです。せっかくですから
これを名前の中に組み込みました。そういうわけで、この器の名前は
~ゆきだるまさんが春をまつ・春をたのしむ・春待ち椀~となったのです。

木目を別の何かに見立てること、それを景色を見るとか。
毎日毎日、木々へ向かい木々を扱う日々を続けていても、そういうものを見かける機会は、これまでには、ほぼありませんでした。

ひょっとしたら、これまでに手元から縁あって旅立って行った、栗のまんまる椀や
栗のマグカップにも、何か景色があったのかもしれません。

ダメですね。忙しいと、忙しいが過ぎると。そういういいもの、自然ならではの
唯一無二の良い景色を見逃してしまっている、そういうことがあったのかも
しれません。


でも・・・その一方で、それもよし、とそう思ってみたり。なぜなら写真では
やはりどんなに優れた技術を持ってしても、伝わる、それには限界があり、実物を目の当たりにしなくてはわからないものがあると、そう思われてならないのです。ですから私の作品をお手元へと望み大切な大枚をはたいて下さる方、その方だけがあっ! と気がつかれる、そういうものがあってしかるべき、それがよし!と、そんな風に思えている、今日この頃。

更には自然素材の木から生まれた器には
[育てる楽しみ=経年変化によるうつろいの味わいを慈しむ]というお楽しみも
あります。

毎日手に持ち使うことで、人それぞれの手に元々備わっている油が粛々と移り
その人にしか生むことのできない味わいを持った器へと変化をしてゆく、それは
その器を手元へと望み手にしてくださった方にしか見ることのできない、
それこそが、かけがえのない唯一無二の味わい=景色なのであります、きっと。