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卒論[あそび]に遊ぶ〜#卒論公開チャレンジ

卒論を書いて早20年。遊びのダイナミズムを東洋哲学と無理やり絡めて論じ、指導教官の教授を呆れさせたのが懐かしい。

今読むと易の思想などは意外に新鮮だったので、「#卒論公開チャレンジ」で公開してみます。

発散と収束の法則は、デザイン思考でも使われるので時代が追いついたのかも知れません (笑)

卒論[あそび]に遊ぶ(概要)

【目的】
「[あそび]は自由なものである。 [あそび]は 気軽なものである。 [あそび]は[まじめ]の反対語である。 [あそび]は楽しいものである。」 これらの定義は本当に正確であろうか。 [あそび ]には、不自由な面も、真剣な面も、辛い面も存在するのである。そして、このような様々な側面をもつ[あそび]というものを、我々はどれだけ理解し得ているだろうか。このような疑問について考察することが、この論文の目的である。
【方法】
第1章、第2章はジャック・アンリオの「遊び−遊ぶ主体の現象学ヘ −」と、中田光雄先生の『文化・文明 −意味と構造 − 』の内容を出発点として 第1章は[遊び]の[構造]について、その構造化の過程を中心に論じた。また、第2章は[遊ぶ]という[行為]のメカニズムとダイナミズムについて論を展開している。また第1章と第2章の内容では、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』とロジェ・カイヨワの『遊びと人間』からも、大きな影響を受けた。 第3章では、[あそび]がどのように展開されていくかについて論じた。前半は、コンピュータゲームの展開を概観・考察し、後半は[あそび] と人間の発達との関係について述べた。さらに、[あそび]と性別の関係についても、触れた。
そして、終章ではこれまでの論を踏まえ、 [あそび]の意味と意義について論を展開した。特に後半は、かねてから興味のあった易学の陰陽と干支学の思想との関連で[あそび]の意義を論じた。また補論として、[快感]と[あそび]について考察を深めるための論を展開した。この補論を書くにあたっては、老荘思想と古代インドのヨーガの思想から大きな影響を受けた。なお、終章と補論は安岡正篤氏の著書を多く参考にした。
【結論】
[あそび]とは[一定現実世界]に現成した脱−目的的な[構造]を前提にして、 [一定現実世界] をいくつかに分け、そこに現成したそれぞれの[部分]を、ある意味において構成し、行動することに よって、そこに[発散]的もしくは[収束]的に[構造]を生み出していく動きの連続である。
また、[あそび]の真の意義とは、人の本質的な部分に立ち返って、[発散]と[収束]のバランスを取り、活真を得ることによって、本道を自ら自由 に、かつ無限に進んでいくことにある。さらに、[あそび]に没頭し、環境と心が一つになると、我々は活き活きと自ら[あそび]を行なえるようになる。 そして、このような状態に至れば、我々は生死、変化、浮世から自由になるという、[あそび]の真の [快感]を得ることができるのである。

卒論「【あそび】に遊ぶ」本文PDF

おまけ(当時と今の感想など)

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最近読んだ「新版 合気修得への道」にも易の思想が出てきたので驚きました。20年経って趣味とつながった。。。

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