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気になる男

1.

 私は45歳の映像クリエイター。

クリエイターの仕事は、クライアントの要望をくみ取り、要求に応じて映像を作り上げる高いスキルが要求される。そのためには広い知識や、様々な芸術的センスを磨く日頃の心がけを意識しなければならない。

わが社の映像部門は、営業、企画から撮影、編集までのワンストップの利便性を持つ。そのために、各担当スタッフには高い専門技術が要求される。

担当スタッフが、仕事に行き詰って相談して来ることが多々あり、そのとき私は「あなた自身はどんな映像を作りたいのか?」と尋ねる。彼らは返答に窮した後、ビジネス本のキャッチコピーのような言葉を、私は聞くことになる。このようにプロ意識が薄い映像部門の内情は混沌としていた。

顧客が求める以上のものを作るために、あらゆる技術を駆使して、クオリティの高い映像を心掛けて来た。

映像への信念とこだわりが強い私は、ポリシーやスキルに欠ける上司が、指導の位置に立っている社風自体に疑問を呈していた。

映像部門の存在価値を上部に提言し、賛同を得たとしても、長年の社風を一夜にして変えることは至難の技である。その時期を待つ余裕は私にはない。提言した私は諦観し、自分の信念を貫くゆえに辞職を決意する。

創造力と細心の気配りが要求されるこの仕事は、自発的雰囲気の中でこそ本領が発揮される。仕上がりを反芻する余裕が評価に繋がる。

ゼロから、もの作りが始まり創造を重ね続けるため、際限のない苦しみもあるがクリアした時の達成感は大きい。

 仕事に専念出来る環境を望むがゆえに自ら退社して来たが、社会帰属意識が私を責める年齢となり、葛藤の振幅は大きくなっていた。

他社を歩いたことは徒労ばかりではなく、顧客要望や案件に質の高い映像制作スキルや、クリティカル・シンキングは、誰よりも養われたと自負している。

納期やトラブル処理対応の連日で、ストレスがマックスになった心身を解すには、トレーニングジムが、ベターな気分転換であった。    

2.

フリーランスの今でも、日曜の休日意識から解放されず、この曜日にジム、本屋巡りなど私事行動を嵌め込んでいた。

最近、年齢相応に訪れる身体的変化が表われて来た。いままで、アルコールを受け付けない体質が幸いして、「憂さ晴らし」と称する飲み付き合いをパスし、健康で品行正しき帰宅をしていた私に、「腹膨る体形」の兆しが見え始めた。下戸な私に、ビール腹になる「つけ」は回るはずがないと、高を括っていた。不覚にも私の持論は持論でしかなかった。

トレーニング中は俗念を持たないため、精神的解放感と体力の限界に挑む、相克する自分を客観出来て爽快であった。

トレーニングジムが、自宅マンションから100m以内に所在していることは、長く続ける最高の条件でもある。

また使用マシンが、アスリートが鍛えるようなデータ管理のハイテクでなく、一般者向けのシンプルなトレーニングマシンであることも気に入っていた。

私はハイテクの先端を行く業種に関わりながら、アナログ的機能に郷愁を感じ、その感情を抱え込む傾向がある。

パフォーマンスアップというトレーニング法ではなく、手動操作が主体的にトライしているようで気楽な気分になる。

トレーニングが終わると、コーヒー専門店の「杏屋」で、いつもバックに潜ませている文庫本を読みながらコーヒーを飲む。休日のこのルーティンが私の至福の時間と言えた。観たい映画が上映されていれば、飲み終えてからそそくさと映画館に足を運ぶ。

この筋書きが叶ったその日は、まさしく私の「Perfect Day」であった。

3.

ときどき日常生活を見る眼がカメラ目に変わる瞬間がある。

あの日私は、ジム窓から見えた男が、「気になるアングル」として捉えるようになった。その男が、あの日を境に姿を消してしまったことが、私をミステリーの世界に誘い、想像の中で彼を捜し始めた。

その日はまだ2月中旬だというのに、異常に気温が上がり初夏の陽気であった。

いつものようにランニングマシンに乗り、窓からの景色を無心に眺めていた。

すると、いつも締められていた正面に見えるベランダが開けられ人がいた。平行目線の男は、三階建物の二階に住んでいるということになる。ジム窓の向かいは、10m幅程の路地を挟んでの隣の建物になる。この建物は、一階が「やきとり屋」であり、二階・三階は集合住宅になっていた。早春の寒気が停滞していたこともあり、ベランダに出る住人の姿は見たことがなかった。

初めて見た住人の様相は、ゴマ塩の短髪頭にもみあげを剃り上げた男で、年齢は60代と推定した。男は黒の半袖Tシャツに、ダフッとした黒のジャージパンツ姿で、ベランダの敷居に座り込んでいた。何やら、足指に金属らしきものを当てている様子から、爪を切っていることは確かであった。

わたしはトレーニング中の退屈しのぎもあって、男の爪切り姿をこのまま眺めることにした。人相は分からないが、中肉中背の身体は動きが良い。

足元に広く敷かれた新聞紙や、念入りに時間をかけて爪を切っている丁寧さ、ハンガーに干された雑巾の正長方形のかたち、ベランダには雑に置かれた何物もない。

この観察から「男は几帳面な性格であり、情景から独り暮らしの孤独感があるなぁ」と、視覚データが収集され、男の人間像が形成された。

4.

男は日差しの暑さに我慢出来なくなったのか、Tシャツの半袖口を肩まで捲り上げた。するとその肩から現れたのは、紛れもない入れ墨であった。彩色の下着と見紛うことなく、あれはまさしく黒、グレー、赤色が施された入れ墨と断言出来た。図柄までは判断できなかった。

中年おっさんの、日向ぼっこをしながらの爪切り姿を、ぼんやり見ていた私の意識は好奇心に変わっていた。両肩に入れ墨があるということは、肩に続く絵が背中全体を埋め尽くしていると想像が走る。私が推定した年齢であれば、現代のファッション感覚で入れ墨をしたとは考えにくい。グローバルで国際感覚が溢れている昨今、タトゥした人たちは日常にも目にするが、男は異質な雰囲気を遠目からも感じさせていた。

「○○組の構成員なのか、それとも元組員だったのか。この世界と政治家には定年退職はないはずだ。だが近年は組を抜けるにも、指詰めや上納金などは、緩和されているようだ。爪切りしている男の手指に、小指が欠落しているかは見ようがなかった。

こうして賃貸アパートで暮らすには、ある程度の現収がなければならない。いまでも組織の幹部であれば、住宅レベルも高級志向が高いはずだが、実際男はあの大衆アパートで生活している。もし堅気の仕事に就いたとしても、肉体労働で苦労しているだろうな」等々、勝手な憶測が頭を飛び交っていた。

 あれこれ想像しているうちにトレーニング時間は終了してしまった。だが男はまだあの姿勢でベランダにいた。

5.

この日はコーヒーを飲んでいても、あの男の残像がこびり付いていた。これが日差しの下で、爪を切る若い女性の眩しい姿であれば、思い出しながらニヤニヤしているのだが、入れ墨の腕をチラ見させた、中年のおっさんの姿では、何とも肌寒さしか感じなかった。

この好奇心は、あの男に映像の被写体としてストーリー性の面白さがあると、無意識に捉えたのかもしれなかった。

帰宅して、妻にこの話をしたところ、「そんな人、普通の生活でも見るでしょう!」と、軽く流されてしまった。女は現実に強いものである。男は、偶然性に驚き深読みする用心と軟弱さがあると考えるのは、私だけかもしれないが。

この体験は私の第六感を刺激させ、興味を引きずった一日であった。

 翌週、窓から見えるマシンの位置を早くも占領し、気になる男のベランダを見た。

だがベージュのカーテンは閉じられたままで、人の気配は感じられなかった。

6.

それから毎週トレーニングの1時間、窓を見続けて1ヶ月が過ぎたが、二度と男の姿を見ることが出来ず、在宅した痕跡も感じられなかった。

私が「不在だった」と、こうも言い切るのは、カーテンの開け閉めした隙間の状態や干された雑巾の形、ベランダ周辺と焼き付けていた記憶と、何の変わりもなかったからである。

 ここまで長期に不在になる理由は何か?想像を膨らませてみた。

その一、遠方の親戚に不幸があって帰省したか。親不孝息子であっても、親の存在は換え難いものである。親戚は関係を断っていると、考えるのが現実的だろう。たとえ連絡があって、行ったとしても留守が長すぎる。

その二、病気か事故に遭って救急搬送され入院しているか。身体に障害が表れる年齢でもあることから、これは十分に考えられる。

その三、「フーテンの寅」のように、孤独な男の辛さを背負って旅に出たかも?いや、放浪し尽くしたと考えれば、雨風凌げる今の落ち着いた暮らしは、いいものである。危ない橋も冒険ももう沢山と考える、心身の弱さが初老になれば表れる。

その四、念願叶って長期旅行に出かけた?いやいや、そんな俗的な夢は、男の世界には遠いもの。これまで人生を、意地を張りながら、ドライさを鎧にして生きて来たに違いない。もしくは、組から招集がかかり反社会的仕事に手を出したか。1ヶ月以上も家を空けるような大仕事だったか、となれば国外逃亡しているか。

その五、最期に考えられる最悪の結末は、前科がある身が再犯して実刑をくらってしまったか。今頃、高い塀の向こうで兄貴分と話に花を咲かせているかもしれない。

7.

それからも私の観察は続いたが、男は姿を見せることはなく、ハンガーの雑巾だけが寂しそうに風に揺れていた。

もっとも四六時中観察しているわけではなく、私が確認出来るのは、日曜日のたった1時間である。だが「戻って来ていない」と断言する、私の「感」に揺るぎがなかった。

男の不在理由を調べる方法はいくらでもあるが、あえてそれはすべき行動ではない。

ただ私の意識が彼を捜索しているだけのことである。「興味を覚えたものには徹底した観察で、ストーリーを構築し結末を見届ける」という、私のポリシーがそうさせていた。

8.

こうして前窓を観察し続けたが、二ヶ月経っても男が戻った痕跡は掴めなかった。    

男の老後を考えれば、健康と衣食住の確保された監視付きの、高い塀の向こうにいた方が幸せと言える。また、病気であるならば、病院から療養施設と移り、「終の棲家」で介護を受ける、安住を得たかもしれない。

善良な市民とは言い難い男に、不条理を感じながらも老境を迎える、普通の人間として行く末をあれこれと考える私の因縁は何なのか。

それよりも、わが身の方がよほど不安な老後が待ち受けていると、微かな不安が頭を横切る。

この頃は窓を見る習性も薄れ、一心にトレーニングするようになっていた。

9.

いつものようにランニングマシンに乗り、顔を上げると、あの男がベランダの窓を開けて外を見ていた。「あれ!帰っていた」と思わず声を出してしまった。私は大きい声を出したバツの悪さに周囲を窺ったが、皆は平然な顔でトレーニング姿勢を崩さなかった。

窓の向こうの男は、こちらの気配を感じたのか、「にいさん!何かようか」と、問いかけるかのように目先を向けた。

男と何の面識もない私が、[
2ヶ月間姿が見えませんでしたが、どうしました?」と、気掛かりであった私の心情を伝えたら、彼は何と答えるであろうか?

無関心が常識とされる社会の中で、「そうかい、兄さん心配してくれたんだ、嬉しいね!」と相好を崩すか、それとも、「兄さんも暇だね、余計な心配をするんじゃないよ!」と、胡散臭いとも言いたげに、私を睨みつけるか。

 とにかく、私の平凡な日曜日を、「気になる男の行方を追う」という使命感のような、刺激をもたらしてくれた。二ヶ月経過するうちに、生死の危惧すら懸念した男が、ひょっこりと姿を見せたことで、安堵した本心があった。

孤独な集合体の都会は、見知らぬ人間への感情の綾織りが、知らずに紡がれているという、計り知れなさを潜ませている。

あの時袖を捲し上げた姿に男の異質な世界を垣間見、「気になる男」となって私の思考に入り込んで来た。最もこれは私の一方的な思考でしかないが。

入れ墨をした男がある日姿を消し、私をミステリーの世界を往来させてくれたことは事実であった。この2ヶ月の間に男に何があったのか知る由もない。私は変わりのない姿で帰って来た結末で十分であり、後追いする気持ちはない。そりゃ、私だってドラマチックなシナリオで書き終えることが出来ない、一抹の寂しさはあるが。

おわりに

バイロンの「事実は小説よりも奇なり」のことわざは、現実のあり方を的確に表現し、現代は溢れるほどである。

そのことわざに、マーク・トウェンが「小説は実現可能性に、こだわざるをえないが、事実はそうでないからだ」と、皮肉の言葉を残したことも「さもありなん」と私の頭を掠めた。

奇を衒わぬ事実のままで話を進めると、面白みは薄れるが、読み手はその事実の裏に潜む面白さを嗅ぎ取ろうと、想像の世界に入り込む。書き手も想像を、ミステリアスな思考に変換する余白を創り上げ、自由に闊歩し後、事実に戻らせる。

それもまた楽しいものである。

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