「note書かなきゃ症候群」を卒業しよう
ある意味、病気かもしれない
何かしたらーーイベントに行ったり、本を読んだりしたら、note書かなきゃと思ってしまっていた。
けれど、実際、読んだ本のまとめをしようと思いながらできていないのが4冊、4月に行ったイベントでまとめようかなと思いながらできていないのが、2つある。
書かなきゃと思いつつも、5月はずっと体調的にもメンタル的にも不調で、書くに至らず、しかし書けないとなると、またそれはそれでストレスの原因になる、という悪循環。
誰に求められているわけでもないのに、なぜ「書かなきゃ」と思ってしまうのか。「書きたい」ではなく「書かなきゃ」と。何に追い詰められているのか、考えてみた。
「書かなきゃ」の正体
聞いたこと、見たこと、考えたことは、言語化して記録しないと、簡単に忘却してしまう。せっかくお金と時間をかけて、本を買って読んだのだから、イベントに参加したのだから、「何か形にしないともったいない」そんな思いがあった。
それはつまり費用対効果として「自分のため」に書かなきゃと思い、しかし結局、自分のためだけには、わざわざ時間を割いて書けない、ということだ。
これまでいくつか、イベントレポートを書いてきた。
https://note.mu/fuka8yoi/m/m7107bc6cf62f
そこには「誰かに学びを伝えたい」という思いがあった。だから「書きたい」と思ったし、実際なんとか時間を作って書いた。
一方、今書けていないものは、伝えたいと思うような学びがなかったということなんだろうか。そう思って、一つの思い当たる。
今回書けていないイベント2つは、イベント直後に職場や友達にダイレクトに学びをフィードバックしていた。恐らく、それで自分的に満足してしまったのだろう。そして、そうであれば、もう「誰かのために」学びを伝えており、学びがなかったということではない。
以前に比べて、職場や友達に、学んだことを話して伝えることができるようになった、ということなのかもしれない。つまり「言いたいことを言える場が増えたということなんだな」と思い至った。
書くことで、バランスをとってきた
私は昔からずっと「書いて」生きてきた。考えていることを目の前にいる生身の人間に話して伝えるのが、ものすごく苦手だったからだ。だから書いた。日記、ブログ、小説、詩…書くことで、伝えられない気持ちを整理していたのだ。
それが、多分、この数年で、職場で信頼できる仲間ができ、自分の気持ちを話すことができるようになり、書かなくても発散できるようになったことで、書く必要性が薄れてきたのかもしれない。
さらにいえば、2013年に再婚したのだが、今のだんなには、だいたいなんでも話せる。だから、発散が「書くこと」である必要が、圧倒的になくなってきているのだろう。
書かないと、バランスがとれなかった過去の自分。でも、恐らく、今はもう書かなくてもバランスがとれている。だから「書きたい」という衝動は以前に比べて少なくなってきているのかもしれない。
「レンタルなんもしない人」というサービスの価値
ところで、レンタルなんもしない人、という「なんもしない」ことをサービスとしている人がいる。彼の存在は、人から聞いて知り、ツイッターをフォロー、見ているうちに本が出たのを知って購入し、1か月くらいかけてゆっくり読んだ。
依頼者に共通していたのは、「誰かに聞いてほしい」「誰かにいてほしい」でも「自分を知っている人だと余計な気を使い、話したいことが話せない」「家族や友人を自分の欲求だけで連れ回せない」という想い。だから自分のことを知らない人を相手に選びたい、ということではないかと感じた。
一昔前なら、ブログやツイッターで人に言えないことを吐き出していたのだと思う。匿名で、自分のことを知らない誰かに、自分のことを語れたのかもしれない。
しかし、今や発信の場はどこも「人とつながるツール」になっていて、リアルで繋がっている人も多く、本音は言いづらい、変なことを書いて拡散されたらどうしようと、ネットでの居場所を守るため、匿名でありながら、自由に発信できないジレンマがあるような気がする。
だから、書けない。でも誰かに聞いてほしい。そんな現代の不寛容さが生んだ閉塞感が、レンタルさんのサービスとマッチしたのかなと思った。
「呼吸するように」できることを
「レンタルなんもしない人の、なんもしなかった話」のあとがきにこんなコトバがある。
呼吸するのと同じようなテンションでできることなら、たぶん一生できる。ストレスも感じない。
ああ、そうか。
私は呼吸するように「書く」ことができなくなったんだ。
書かないと生きられなかった自分はもういない。だから、呼吸するように書けないなら、無理して書かなくていんじゃないかと思った。
書きたい、つまりたくさんの人に伝えたい、と思った学びや感動があったら、呼吸するように書けるなら、書けばいい。それに、そうでなければ、書いても、誰かの役には立たないだろう。
現に、この文章は、モヤっとしていた気持ちが、レンタルさんのあとがきを読んで晴れたので、朝出勤するまでの道のりで、呼吸するようにサクっと書けてしまった。
「note書かなきゃ症候群」を卒業しよう。
そして、本当に書きたいと思えることに出会うためには、やっぱり自分で色々動いてみるしかないよな、と改めて思った。
五月病だか、スランプだかの原因はこんなところにもあったのかもしれない。
苦手なことはやらない。呼吸するようにできることを、選んでやっていこう。
仕事も、noteも、人間関係も。
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