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大学で学ぶ歴史とは~歴史学という学問~

こんにちは、ひよこです。

さて今回は、大学で学ぶ歴史とは何ぞや?というお話をしてみたいと思います。正確には「歴史学」という学問について考えてみたいと思います。

大学時代に歴史を勉強した人も、これから歴史を学ぶ人も、ぜひ目を通していただけたらと思います。

文学部と史学科

日本の大学には、「法学」「政治学」「経済学」「経営学」「社会学」「言語学」「物理学」「生物学」「医学」「薬学」…というように、それぞれの学問分野に従って様々な学部学科が設置されていますね。

その中の「文学部」という学部の中に、多くの大学は「史学科」ないし「歴史学科」という学科を設けているのをご存知でしょうか。すなわち、「歴史」を学び研究する学科ということです。

この「史学科」「歴史学科」で学ぶのが、「歴史学」という学問分野の基礎知識・研究手法になるわけです。

世の中には、いわゆる「歴史オタ」「歴史ファン」の方がたくさん存在するかと思いますが、「歴史学」は定められた手法に則り、「歴史」を科学的に研究するという極めて真面目な学問ジャンルとして確立されています。

では、歴史好きな人が書く一般的な歴史小説や時代小説は「歴史学」に基づいていないのか?歴史学に基づいているとはどういうことなのか?そもそも「歴史」と「歴史学」の違いって何!?等々、様々な疑問が湧いてくると思います。

以下、「歴史学」という学問分野について整理しながら、上記の疑問を考えていきましょう。

学問としての歴史

「歴史学」という学問は、歴史上の様々な歴史資料(史資料、略して史料と言います)をもとに歴史像を組み立てる学問です。石、紙、木簡、フィルム(映像、声)等々、様々な媒体に残された情報をもとに、どのような人がその時代をどのように生き、何を考え生活を送っていたのか、当時の時代はどのような時代だったのか、社会のあらゆる側面を考察していくわけです。

つまり、その論の根拠となるデータである史資料がなければ始まらない、何も言えない学問ということになります。逆に、存在しない人物や事件をでっち上げたりすることは、歴史学ではご法度なのです。あくまで、史料から解釈される範囲において歴史像は構築され、常に更新されていくわけです。

Aさんという農民が鎌倉時代に生きていたとします。Aさんは日々の生活を日記に書いて残していました。何時に起き、畑仕事をして、何時に食事をとり、何時に就寝したか。何時にどうしたか、といった情報はそれ自体は意味を持ちませんが、例えばお役人さんが税を徴収しに来たりしたことが書かれていれば、当時の税を取り巻く社会システムを解明するヒントになります。また日々の食事の献立が書かれていれば、当時の農民達の食生活の実態も分かるわけです。

また、近代に視点を移し、明治時代のとある政治家の研究をしていたとします。政治家Bさんの思想を紐解くにあたり、議会の議事録や日記を調査するわけですが、議事録や公の場所で発言する内容と、自分しか内容がわからない日記や個人的な書簡(手紙)の内容が全然異なっていたとしましょう。つまり、メディアを通して外に発信していた内容と、外には出さず自分だけが分かるようにまとめていた媒体における内容が異なり、どちらがこの人の本当の考えなのかわからない、という事態です。

ここで、歴史学では「史料批判」といって、複数の史料を付き合わせ、正しい内容はどっちだ?ということを検証する作業を進めていきます。

この場合、ポジショントーク、すなわち本人の考えに関わらず、立場が「そう発言せざるを得ない」状況を作っていたゆえの内容だったとみることができるのでは?と解釈し、他人には見せない日記や書簡に本音が書いてあると考えてみることで、事態を打破していきます。(あくまで一例です)

やや具体例が長くなりましたが、このように、歴史学は様々な史料をもとに当時の社会・人間像の「なるべく」正確な把握を目指し、日々史料の新たな発見、解釈における独自性の提示(オリジナリティ)に努めていく学問なのです。

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創作か?解釈か?

とすると、時代小説等の作品と学問としての歴史はどう違うのか?すなわち、作品(フィクション)である時代小説や歴史小説は、存在しない人物・出来事を生み出し、自由な創作が可能になります。一方で、歴史学としては、与えられた史料の範囲でしか解釈はできません。もちろん、歴史学も最終的には人の考察という作業を通るわけですから、その人が元々持つ考えや先入観に左右されることも当然あります。だから、明確に「ここまで解釈はOK」と定められてはおらず、あくまで倫理的に研究者間で暗黙のうちに共有されている範囲ということになります。

こう言ってしまうと、歴史に関わる文化的な営み全てが同じように思えるかもしれません。「誰も直接経験していない、見てもいない遥か昔のことを考えている時点で、小説も研究も空想に過ぎない!」と。

だからこそ、史料から分かる確実な「事実」(史実)と「解釈」部分を明確に分け、細心の注意を払いながら考察を加えていくのです。存在しない事柄と史実を混ぜながらストーリーを描く(ことが許される)作品に対して、学問としての歴史学はその点を常に意識しなければならないのです。

根拠のない強引な解釈や解釈の範疇を超えた恣意的な事実の改変は、決して許されません。(論理の飛躍や結論ありきの考察はプロでもよくありますが...)

研究から教育へ

学問としての歴史学の積み重ねから、学校で使う歴史の教科書は作り出されていきます。多くの研究者が支持する歴史像は「定説」となり、教科書の記述となります。もし、その過程で新しい史料が見つかり、解釈に変更が生じたりした場合、研究成果に基づき、学校で教える内容もそれに連動して変更されていきます。

また、時代によって同じ事柄でも捉え方、評価の仕方は変わるでしょう。政治、植民地、戦争、女性、人権…。様々な社会の問題が研究の対象になりますが、その評価は常に変化していきます。だからこそ終わりがなく、固定化された学問ではないと言えるのです。

役に立つ学問か?

歴史学を学んで何の役に立つのか?ということをよく聞きます。おそらく実学としての即効性のある利益は、歴史学には生み出せないでしょう。金儲けをする学問ではないからです。

知識だけを単に吸収するだけだった場合、それは本を読み、歴史のロマンに想いを馳せれば良いですが、歴史学はそれではダメなんです。

常に現在の社会を鋭く眺めながら、残された史料との対話を通して、歴史の「今」を生きる我々の道しるべにしなければなりません。その際、自身と史料の距離をある程度保ち、解釈においてバイアスがなるべくかからないよう努めます。

先祖達も我々と同じように、様々な国の様々な階層の人々が「選択」と「決断」によって歴史を紡いできました。その「生」の営みを、可能な限り、正確にクリアに描き、そこから何を学び、これからの人類の進路にどう活かすべきなのか、考える必要があります。

「役に立たない歴史学」にはそれだけの使命が与えられており、我々はその事実ときちんと向き合わなければならないのです。

歴史学はそういう学問だと思っていますし、それだけ実はスケールが大きな、そして大いなる責任の伴った学問分野だと思います。

このnoteが、現在歴史学を学んでいる方にとっては自身の研究姿勢を見直すきっかけに、今後歴史学を学ぼうとしている方にとっては歴史学の難しさと面白さを知るきっかけにそれぞれなったら幸いです。

(終)

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