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(死について)明日、逝くと分かっていれば 4

2023年も残り僅かだ。
今年は「死について」考える年であった。
おかげで「死」について免疫がついたように思えるが、やはり死は恐い。
私自身、糖尿の気が少しあるだけで、腰が少し痛むだけで、左の肩が上がらないだけで、たまに目が霞むだけで、今すぐ死ぬとは到底思えない生活を営んでいる。
つまり、まだまだ死に関して鈍感な日々を過ごしてしまっている。
が、人は必ず死ぬ。
突発的な予想外の事故や災害だって起きるし、そもそも人には寿命があって、いや人に限らず生きとし生けるものすべて、いずれ死ぬのだから覚悟は常に必要なのである。
しかし例外もある。
サザエさん一家だ。
彼たちに死は訪れない。
つまり、家族の死への悲しみは無い。
そう考えると世界で一番幸せな一家といえる。

現実に戻そう。

明日、(自分が)逝くと分かっていれば何が出来るだろう。

自分自身の事なので、色々とやれることは多いように思える。
まずは死後のこと。
家族に迷惑をかけたくはない。その視点であれやこれやと考える。
自分的には突然死であったが、母はしっかり終活をしていた。
例えば、兄と私に葬儀場の場所や葬儀代まで用意していた。
そういう話が出る度に、縁起でも無い話はやめようと母と喧嘩になっていた。
母の気持ちは今でこそ理解できるが、当時はものすごく嫌だった。
だから、残される者には直接言わず、遺書を残そうと思う。
遺書を残すという事は、自身の死を意識して生きるということだ。
さて、その遺書はどこに保管しようか。
デスクの引き出しが妥当だが、もう少し考える。
でも遺書ひとつとっても法律うんぬんかんぬんあるのが厄介だね。

とりあえず箇条書きでも本日中に書いてしまおうな勢いである(年末だし)

次に考える事は、自身の残り時間の事だ。
限られた時間の中で何が出来るというのだろうか。
自分のコンデションにもよる。
つい元気なのに翌日ポックリ的なイメージをしてしまうが、そうとも限らない。
だから、いつ逝っても悔いが残らないようにしたいと思う。
旅行が好きだから、出来る限り行っておきたい。
全ての大陸を制覇したいという目標があった。
実は、残すところ南極大陸だけだが、本当に行きたいか?と自問すると、そうでも無い。
心から行きたい国や地域には行った。
そう考えると、私は幸せな人生だったのでは、と思える。
だからもし、その時が明日、いやこの時点では明後日だとしても構わない。
そんな気分になってきたから不思議だけど、死はやっぱり恐い。
今、自分が何を書いているのか分からなくなってきたけど、これだけは言える。
死を意識するという事は、ポジティブに生を謳歌できることではないだろうか。
もちろん、それは私の場合ではあるが。
そもそも明日、(自分が)逝くと分かっても、時間の制約が厳し過ぎる。
とにかく今夜は、これから遺書を書こう。
美味しいものを食べよう。
会いたい人に会いに行こう。
行きたい場所を見つけよう。
気に入った国や地域に出掛けよう。
何だか希望しか見当たらない。
とりあえず2023年、ありがとうございました。
とりあえず2024年も宜しくお願い致します。

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