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奥能登国際芸術祭2017

石川県能登半島の先端に位置する珠洲市を舞台に催された初めての芸術祭。国内外のアーティスト40組が、市内の随所に作品を展示した。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(2000~)をはじめ、「瀬戸内国際芸術祭」(2010~)、そして「北アルプス国際芸術祭」(2017~)に続く、北川フラムによる芸術祭のひとつだが、開催規模も土地の風土もそれぞれ異なるとはいえ、これらのなかでもひときわ鮮烈に輝く芸術祭だと思う。

何よりも決定的な魅力が、清涼感あふれる土地である。山は、越後妻有と違って、なだらかな稜線を描き、海は、瀬戸内とは対照的に、荒々しくも力強い波が打ち寄せる。ちょうど台風18号が通過した直後だったせいかもしれないが、大気が恐ろしいほど澄んでいるのもこの上なく心地がよい。東京から飛行機を使えば1時間だが、北陸新幹線経由では4時間あまり。文字どおり「最果て」というフレーズが似つかわしい土地だが、そこまで足を伸ばす価値は十分にある。

美術作品は、そのような土地の風景と有機的に関係するかたちで展示されている。美しい風景をフレーミングしたり、その土地の記憶を掘り起こしたり、越後妻有や瀬戸内で繰り返されてきた作品の様態とさほど変わらない点は否めない。けれども本展の作品は、その土地の特性を十分に活かすかたちで関係づけられていた。

塩田千春は空間を赤い糸で編み込んだインスタレーションを発表したが、その基底には砂を積んだ砂取舟を設置した。海岸線にはいまも塩田が続いており、砂取舟はそのために実際に使われていたものだという。自らの作風を維持しながら、土地の特性を巧みに取り入れたのである。またトビアス・レーベルガーは廃線の線路上にカラフルでミニマルなインスタレーションをつくった。設えられた双眼鏡を覗くと、はるか先の旧蛸島駅のそばに組み立てられたネオンサインが望めるという仕掛けである。造形として見ればミニマリズム以外の何物でもないが、その土地と有機的に関係するという点では、サイトスペシフィック・アート以外の何物でもない。ミニマリズムの可能性をいま一歩押し広げた傑作である。

ほかにも、サザエの貝殻で外壁を埋めるとともに、内装をサザエのように湾曲させた村岡かずこや、漂着物で再構成した鳥居を海岸に立ち上げることで、ほとんど無意味だった空間にいかがわしい神聖性を付与した深澤孝史など、土地との有機的な関係性を切り結んだ優れた作品は多い。あるいは、地元住民を巻き込みながら巨大UFOを召喚しようとする映像作品を制作したオンゴーイング・コレクティブの小鷹拓郎も見逃せない。越後妻有や瀬戸内、北アルプスなどの先行する芸術祭と比べると、廃線の線路や駅舎、海岸、銭湯、バス停など、作品を制作ないしは設置するうえで、きわめて恵まれた条件がそろっていることは事実である。だが、そのようなアドバンテージを差し引いたとしても、今回の芸術祭はこの土地で作品を見る経験に大きな意味があることを実感できる、ひじょうに優れた芸術祭である。

そうしたなか、この芸術祭でひときわ異彩を放っていたのは、鴻池朋子である。鴻池が注目したのは、海と陸の境界線である海岸線。山の幸と海の幸、あるいは近海で入り乱れる寒流と暖流など、境界線ないしは境界領域は、今回の芸術祭のキーワードである。その海岸線に沿って走る山道を汗をかきながら十数分歩くと、切り立った断崖絶壁と荒波が打ち寄せる岩礁にそれぞれ立体造形作品が現れる。それらは、人間と動植物が融合したような異形の造形物。全体が白く着色されているせいか、大自然のなかで見ると、さほど大きな違和感があるわけではないが、よくよく見ると人間の脚がはっきりと確認できるので、少し焦る。たとえ車で移動したとしても、身体性を強く意識させられる作品である。

鴻池の作品が優れているのは、それが自然の風景を美しく見せるための装置ではないからだ。美しい自然をより美しく見せるためのフレームに徹したような作品は、この芸術祭に限らず、近年ひじょうに数多い。だが、鑑賞者に険しい登山道を登り下りさせるという過酷な条件を突きつけているように、鴻池は自然を美しく見せることにおそらく関心を寄せていないのだろうし、そもそも自然を美と直結させる見方を拒否しているように思われる。自然のただなかで暮らした経験のある者であれば誰もが知るように、人間にとって自然は美しいこともあるが、同時に厳しくもあり、場合によっては醜悪ですらある。海と陸の境界線上で、人間と動植物が溶け合ったようなオブジェが体現していたのは、そのような二面性ないしは両義性ではなかったか。

自然に恵まれた環境で催される芸術祭は、自然の美しさや地元住民のやさしさを喧伝する場合が多い。それらが限られた文化的資源のなかで対外的なイメージ戦略を打ち立てるうえで、ひじょうに有効な言説であることは事実だとしても、同時に、それらが「つくられたイメージ」であることもまた否定できない。鴻池の作品は芸術祭の内部で芸術祭を批判する、きわめてクリティカルな意味があり、それを内側に含み込めたこの芸術祭はそれだけの深さと奥行きを持ちえているという点で高く評価したい。

芸術祭の魅力は現代美術の鑑賞をとおして開催地の風土や伝統、習慣を体験できる点にある。それは都市型の国際展では到底望めない、地域に根づいた芸術祭ならではの大きなアドバンテージである。

坂巻正美は上黒丸北山の集落に、この芸術祭が開催される前から通い詰め(奥能登・上黒丸アートプロジェクト)、今回は休耕田に大きな櫓を立て、大漁旗をなびかせた立体作品と、小屋の中で木造船や鯨の頭蓋骨などで構成したインスタレーションを発表した。あわせてこの日、展示会場にほど近い仲谷内邸で「鯨談義」を催した。

「鯨談義」とは、この地域で伝統的な生業としてあった鯨漁についての車座談義で、その経験者はもちろん地域の方々や芸術祭の来場者が交流する場である。一般のご家庭に入ると、土間では集落の方々が炭火で獣の肉を焼いており、居間では地酒とご馳走がふるまわれている。坂巻がプロジェクターで鯨漁の資料などを見せる傍ら、集落のご婦人たちが次から次へと暖かい料理を運んでくるので、話に耳を傾けながらも、神経はもっぱら舌の味覚に集中せざるをえない。鹿や猪の肉、鯨肉、そしてそれらの味を引き締める地産の塩。文字どおり海の幸と山の幸を存分に堪能したのである。

地域の風土や歴史、民俗文化と現代美術。そもそも後者が都市文化の賜物であることを思えば、前者と後者の相性は決してよくないはずだ。しかし、芸術祭という形式において両者は奇妙な共鳴を生んでいるように思われる。現代美術は民俗文化を主題とした作品を制作するばかりか、鑑賞者をそれらに導くための道しるべになっているからだ。芸術祭がなければ「鯨談義」に同席することはなかったはずだし、そもそも奥能登の風土を知ることすらなかっただろう。現代美術は芸術祭を経由することで民俗文化に接近しつつあるのではないか。

初出:「artscape」2017年10月1日号、2017年11月1日号

奥能登国際芸術祭2017

会期:2017年9月3日~2017年10月22日

会場:珠洲市全域

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