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野生の絵画──淺井裕介の泥絵について・参

洞窟壁画、縄文土器、そして小宇宙──。《空から大地が降ってくるぞ》の完成を初めて目の当たりにしたとき、わたしの脳裏に浮かんだ言葉である。いずれも原始的ないしは根源的なイメージを醸し出す言葉だが、3つの言葉すべてに通底する要素を導き出すとすれば、それは「神話性」になると思う。神話とは、一義的には神聖な物語を意味するが、その詳しい内容については諸説があり、いちがいに定義づけることはできない。だが、おおむね一致しているのは、それが現実の存在とは対比されながら、その一方で、世界や文化の起源を説明したり、社会生活を営む上での範例を示したり、その内容にたしかな真実性が認められているという点である。もとより、ここでいう神聖な物語とは、狭義には文字や口承などの言語表現を想定しているが、広義には絵画や彫刻などの視覚芸術全般にも敷衍することができるだろう。そもそも神話には視覚芸術と共有しうる特質が含まれていると考えられるからだ。ある一説によれば、自然のなかで本能に従っているため、生きることの意味や理由を説明する必要のない人間以外の生物とは対照的に、「人間の文化は、本能に従ったものではなく、どれも自然から明らかに逸脱している。だから人間は、それぞれの文化で行われている、どれも反自然的な制度や習俗が、なぜ必要で尊ばれ守られなければならぬかを説明する神話を持たずには、文化を維持していくことが、そもそもできない」(『哲学思想事典』岩波書店、1998、p860)のだという。だとすれば、自然を素材として流用しつつも、結果として反自然性以外の何物でもないイメージや造形をつくりだす視覚芸術に神話性が宿っていても何ら不思議ではあるまい。事実、たとえばラスコーの洞窟壁画や三内丸山遺跡の縄文土器に、わたしたちはある種の神聖性を感じ取りながら、世界の起源や生活の範例を見出している。必ずしも明文化されているわけではないにせよ、東洋であれ西洋であれ、人類は神話的なイメージを生産してきたのであり、あるいは視覚芸術に神話的なイメージを読み取ってきたのだった。淺井裕介の泥絵に見出すことができる原始的な根源性とは、そのような神話的なイメージの現われではなかったか。《空から大地が降ってくるぞ》は、はるか彼方より語り継がれてきた神話を絵画的言語によって今一度語り直しているのではないか。

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会場は苔蘚館。上半部がドーム状になった円筒状の建物で、淺井裕介の新作のためにつくられた。高さはおよそ15メートル、直径は約10メートル。外側の表面は文字どおり苔で覆われているが、内側の白い壁面すべてが淺井にとっての支持体となった。じっさい、この泥絵のサイズはかなり大規模で、カメラはおろか、人間の視覚ですら、その全貌を一挙にとらえることができないほど大きい。2階部分のバルコニーに上がれば、ドームの内側の曲面に描かれた絵をより近い距離で見ることができるし、1階の中央に立って頭上を見上げれば、ドームの頂に設けられた天窓を中心に広がる泥絵の世界を堪能できる。自分の頭上に広がる視覚的イメージを見る経験は、もしかしたらバイソンの群れが躍動するように見えると伝え聞くラスコーの洞窟壁画を見るそれと近いのかもしれない。あるいは、床面に寝転んで半球状の曲面を見上げると、その天窓がまるで北極星のように見えるし、すると不思議なことに泥絵の図像が夜空にきらめく星々のように見える気がしてくる。動いていないにもかかわらず、泥絵が星空のようにゆっくりと回転しているように錯覚するほどだ。それは、ちょうど縄文土器の火炎模様が土器の下でゆらめく炎を幻視させるイリュージョンに近いのだろう。

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描き出されているのは、さまざまな動植物と人間などの生命体が渾然一体となった有機物である。床面から立ち上がり、半円状の曲面全体に拡張する全体のフォルムから考えると、大樹のようだが、動植物と人間が混合した有機物と言わなければならないのは、大樹の中心にひとりの人間の顔が大きく描かれているからだ。細部に目を凝らすと、オオカミのようなほ乳類から、鳥類、魚類、あるいは大小さまざまな植物の葉までが微細に描写されているのがわかる。それらの断片的な図像がさまざまな色彩によって重層的に全体を構成しているので、沸き立つような生命感が醸し出されているのだ。ただ、全体的には有機物であるとはいえ、部分的には人工的な図形も確認できるから、正確に言い換えれば、無機物も含めた有機体と言わなければなるまい。だとすれば、淺井が描いているのは、有機物と無機物で構成された世界、すなわちわたしたち自身が生きる、この世界そのものであると言えよう。大樹のようなフォルムは床面から立ち上がり、天頂部の天窓を通り越し、対面まで到達しているから、いわば世界の爆発的な拡張を目の当たりにするのだ。圧巻の一言である。

より微視的に絵肌を吟味してみよう。すると、動物と植物だけでなく、双方が一体化したような非現実的な生命体も含まれているのに気づく。たとえば、上半身が植物で下半身が動物の名状しがたい生命体。葉をなびかせながら両足で軽快に走る姿が何ともかわいらしい。あるいは、無機的な記号のような物体から生まれ出たように見える人間の足。わずかにかたちを変容させながら連続的に描写されているので、その誕生の過程がアニメーションのように動きを伴って伝わってくる。いや、見方を変えれば、人間の足が無機物にトランスフォームしているように見えなくもない。いずれにせよ、淺井はさまざまな生命体を「集合」させているだけでなく、それらを時として「融合」させているのだ。動物と植物、あるいは無機物と人間が溶け合って一体化することは自然界ではまずありえないが、それが可能となるのが神話である。古今東西の神話で語り継がれている異類婚姻譚はその典型だろう。また、人間と動物の境界を超えて、子どもが脱人間化を図る神話的な物語は現在の絵本でも数多く表現されているし、また読み継がれてもいる。さらに、バタイユはラスコーの洞窟壁画について人間と動物を明確に峻別しがたい超越的な次元から論じ、岡本太郎もまた縄文土器に人間と動物の、あるいは見えるものと見えないものとの神秘的な連続性を見出したのだった。淺井裕介は、一見すると子どものように空想的で非現実的な世界を描いているようだが、そうではない。淺井が泥絵の向こう側に見ているのは、おそらくバタイユや岡本太郎が見ていた神話的なイメージと大きく重なり合っている。人間や動植物、無機物など、すべての存在が連結しながら、分化や融合を繰り返す、その果てしない運動を、彼らとは異なる絵画という方法によって視覚化しているのだ。

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しかし、淺井の泥絵に見出すことができる神話性とは、必ずしも絵画の主題だけに限定されているわけではない。じつのところ、鑑賞の局面においてもそれは生じている。動植物と人間の融合という神話的なイメージを鑑賞するするわたしたちは、まさしくその鑑賞という身ぶりにおいても、メタ・レヴェルで神話性を体感しているのだ。この点にこそ、淺井裕介の泥絵が内蔵する神話性の核心が隠されている。それは、主体と客体が転倒ないしは錯綜するという、ある種の超越的な経験である。

通常、絵画は垂直に立ち上がった平面に展示されるため、わたしたちは自分の視点と正対しうる特定の正面性を確保しながらその絵画を鑑賞している。言い換えれば、絵画を鑑賞する主体と鑑賞される絵画という客体は明確に分別されている。だが、《空から大地が降ってくるぞ》の場合、同じ絵画とはいえ、人間の視覚でとらえることができないほど広大であるがゆえに、そしてまた、支持体が垂直に立ち上がった平面というより、大部分は自分より上方に広がる曲面であるがゆえに、そうした特定の正面性を確保することができない。泥絵の中には人間の顔が描写されているので、そこに中心点を求めがちだが、たとえそこに視線を集中させたとしても、イメージの全貌をとらえることは到底叶わないので、おのずと視線は別の焦点を求めて彷徨うことを余儀なくされる。おそらく円形の空間がそのような身体と視線の運動を増幅させているのだろうが、いずれにせよ、わたしたちは絵画を鑑賞する主体としてみずからを定位させることが著しく困難になるのである。

そうした不安定な状態は、絵画を鑑賞する主体と鑑賞される客体としての絵画という、わたしたちが信じて疑わない関係性を大きく揺るがすことになる。事実、《空から大地が降ってくるぞ》を鑑賞していてもっとも心が躍るのは、泥絵を見ているわたしたち自身が、あるとき泥絵に見られているような感覚を味わえる点にある。描写された人間の大きな顔の眼に見られているというだけではない。白い円形の空間の中で躍動する、無数の生命体がわたしたちにまなざしを向けているように感じられるのだ。もちろん、こうした言い方はレトリックにすぎない。ところが、そのようにまざまざと実感できるほど、泥絵の中の生命感はみずみずしいのである。

絵画を鑑賞する主体が絵画によって鑑賞されるという倒錯。それを可能にしたのは、おそらくは苔蘚館の空間的な特質に由来する。この作品の大半はドーム状の内壁に描かれているため、わたしたちは必然的に頭上を見上げながら鑑賞することになる。この見上げるという身ぶりは、自分より圧倒的に大きな存在を前提にしている点で、主客の転倒を招きやすいように思われる。たとえば、洞窟壁画は言うまでもなく、三内丸山遺跡の大型竪穴住居、あるいは仏教寺院における大仏、さらには苔蘚館の背後にそびえ立つ、あの和尚崖──。人工物であれ自然物であれ、人間の存在を凌駕する圧倒的な大きさに、今も昔も、わたしたちは「見られている」という超越性を経験してきた。

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さらに、もう一点、主客の転倒をもたらしているのが、苔蘚館に独自の音響効果である。驚くべきことに、バルコニーに立つと背後の壁面から声が聞こえてくるのだ。まるで絵のどこかに口が開いていて、そこから言葉が滔々と流れてくるかのようで、この事実に気がついたとき、わたしは戦慄した。が、もちろんこれはある種の錯覚で、からくりがある。苔蘚館は円形の湾曲した空間であるため、対面のバルコニーに立つ他人の声が曲面を回り込んで背後から伝わるというわけだ。視覚のみならず聴覚によっても主客転倒を体感させていることを考えると、《空から大地が降ってくるぞ》は、その神話性を二重三重にメタ・レヴェルに折り畳んでいると言えるだろう。

[この稿続く]

野生の絵画─淺井裕介の泥絵について・壱

野生の絵画─淺井裕介の泥絵について・弐

野生の絵画─淺井裕介の泥絵について・肆

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