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[インタビュー]評論家の仕事とは? 第三の領域が未開のまま残されている  福住廉氏インタビュー

聞き手=須藤巧[図書新聞編集長]

「限界芸術論」の射程 

──初の単著出版おめでとうございます。本書の眼目は、タイトルにもありますが「限界芸術」です。これはもちろん、鶴見俊輔さんの『限界芸術論』(勁草書房〔一九六七年〕、ちくま学芸文庫〔一九九九年〕)をふまえているわけですが、「今日の」限界芸術となっています。福住さんはご自身で「いろもん美術評論家」と名乗っていますが(笑)、限界芸術とは、大文字ではない芸術であり、世俗的なものであり、素人的なものでもあるわけですが、福住さんは様々なアプローチで限界芸術の今日的な(再)定義をなさっています。そもそも限界芸術というタームをなぜ使おうと思ったのか、まずうかがえますか。

福住 鶴見さんの限界芸術論を今日的に再定義しようという理論的な関心が先にあったわけではないんです。むしろきっかけは、本書に収録してあるハリガミマンガ(ガンジ&ガラメ「宇宙王子サンパクガン」)と出会ったことでした。もともと大学院で社会学を専攻していたので、このハリガミマンガの面白さを都市社会学や理論社会学の文脈でうまくまとめられないかなと思っていたんですが、どうやら難しそうだと気がついた(笑)。だったら、いちおうマンガだし、広い意味でのアートだと捉えられなくもないので、芸術の文脈でまとめたものを公募の論文に出したら、賞をいただいて、その後展覧会の企画をやらないかというお話をいただいたときに、何かしら理論的なフレームが必要だろうと考えて、鶴見さんの限界芸術論を思い出したんです。これを拝借すれば、芸術なのか何なのかよくわからないけれど、魅力的な「もの」や「こと」、あるいは「人」をフレームアップすることができるだろうと。これは一年に一回企画しているんですが(「二一世紀の限界芸術論」、於ギャラリーMAKI)、そういう謎の表現活動を取り上げながら、限界芸術の今日的な可能性を再検証する、実験的な展覧会なんです。

一回目はそのハリガミマンガで、二回目が岩崎タクジさんという絵描きで詩人で評論家でもあるという面白いおじさんで、三回目が小説家だった祖父の日記を解読している尾角朋子さんという人でした。昨秋、四回目を催したのですが(「山下陽光の大チョロズムパノラマワールド」展)、この本の準備の期間と同時並行で重なってしまったので、本への収録が間に合いませんでした。ですから、限界芸術を再定義するという理論的な作業は、三回目の尾角さんで止まっているんです。ここでは「アマチュア魂」という便宜的な言葉を挙げていますが、もっとも言いたかったのは最後の一行で、「職業批評家も職業学芸員も、あまつさえ鑑賞者も、いちど滅びなければならぬ」(P66)と(笑)。鶴見さんの限界芸術論は、「アマチュアが表現して、それをアマチュアが享受する芸術」だとして、いわゆる西洋近代的な芸術の考え方をまるっきり転倒させてしまったところがラディカルで、そのことの意味は決して小さくはないんですが、その一方でそれだけではまさに限界があると思うんです。というのも、現在はまさにアマチュア芸術全盛の時代で、これを限界芸術論によって分析してみても、現状肯定以上の力を発揮することはほとんど期待できないからです。むしろ、プロもアマも、それぞれの立場から一旦離脱することで第三の立場を切り拓こうと努めることの方が、アクチュアルな批評性を獲得できるんじゃないか。それが、限界芸術の今日的な再定義において一番重要なポイントだと考えています。

——本書奥付で、福住さんの肩書きは「美術評論家」となっています。「美術評論」とは「美術」「評論」と二つのものの合成語です。福住さんが評論を書かれる動機の一つには、「美術」ギョーカイへの異議申し立てや、不毛な「評論」への反発があると思うのですが?

福住 僕が「美術評論家」を名乗ろうと腹をくくったきっかけの一つは、『ビエンナーレの現在』(共著、青弓社)で、前々回の横浜トリエンナーレについて論じたことなんです。ここではいわゆる言説分析の手法によって、雑誌や新聞などに掲載された横浜トリエンナーレに関する評論や報道記事を全部洗い出して、どんな人がどういう言説を生産しているかを逐一検証したんですが、「美術評論家」の先生方がどんな立派な評論を書いているのかと思っていたら、意外と何も言っていないことがわかった(笑)。学園祭だとして黙殺するか、同展のディレクターでアーティストの川俣正さんの労をねぎらうか、ようするに美術批評として満足のいくものを書いている人はほとんどいなかったんです。それまではわりと「ライター」の方に自意識を置いていたんですが、こんな体たらくだったら、むしろ積極的に美術評論の内側に入っていって、その内実をつくりかえることもできるんじゃないかと思ったんですね。だから難解で高尚な風体を装っているくせに中身が空っぽな美術評論への異議申し立てはもちろんあるんですが、それだけではなくて、むしろ美術評論というジャンルじたいをもっと違う方向に持っていきたいという戦略は考えています。

具体的に言うと、最近意図的に考えているのは、口語表現の豊かさをもっとうまく評論として活用したいということです。本書まえがきの「おしゃべり限界芸術」も、僕が読者の前で喋るような設定をあえてつくり、おしゃべりというかたちで限界芸術の面白さをアピールしたかった。本書に収録されているインタビュー記事にもあるように、鶴見さんご本人がおしゃべりの達人ですが、そもそもおしゃべりこそ限界芸術そのものですよね。これまでの美術評論家が依拠してきた言葉というのは、詩的な言葉だったり、現代思想のタームをむやみに流用したり、とにかく僕からすれば、不必要なまでに硬すぎる。「であるならば~せねばなるまい」だとか「脱構築がどうのこうの」だとか、無駄に傍点を打ちすぎるというか、肩に力が入りすぎているというか(笑)。そもそもプロの書き手だったら、難しいことを難しいまま言葉にするなんて、あまりにも芸がないと思うんですが、どっちにしろ書き手が考えている以上に評論の言葉は読者に届いていない気がするんです。百歩譲って、そういう難解な言葉でしか到達できない芸術の深遠な世界があるとしても、しかし芸術が万人のものであるとすれば、日常的な言葉でも到達できる道筋があるはずです。たぶんそれは評論家にとっての方法論のちがいというか、むしろその評論家がどんな読者を具体的に想定しているかのちがいだと思います。

例えば僕が読者になってほしいのは、美術館に行って何か物足りない思いを抱いたり、画廊に入ったら場違いな疎外感を感じてしまうような人たちです。それは、僕自身がいまだにそういう疎外感を解消できずにモヤモヤした思いを抱えているから、そういう人たちと現代美術にたいする違和感を共有したいと考えているからなんです。内輪のパーティーに突然紛れ込んでしまったような感覚はいまだにありますからね。そういう人たちにたいして、どうすれば言いたいことが伝わるかを考えてみると、やはりガチガチの批評文なんか書いても、とても読んでもらえないだろうと。

最近ではライターの工藤キキさんが口語表現だけで文章を書いていますが(『ポストノーフューチャー』河出書房新社)、調べてみると美術評論家も挑戦していないことはないんです。例えば中原佑介さんは、針生一郎さんや東野芳明さんと比べるとわりと啓蒙的な仕事を重視していた人で、美術全集や入門書を数多く手掛けていました。『現代芸術入門』(美術出版社)は初心者に向けて現代美術の歴史や背景を解き明かしていく本ですが、全編にわたって対話形式で語られているんです。しかも、デビュー間もない頃に書かれた岡本太郎論は、「です・ます調」で書かれている(『美術批評』一九五五年七月号)。もちろん、「です・ます」調であれば自動的に大衆性を獲得できるとは限らないし、じっさいその太郎論はひじょうに難しい内容なんですが、しかし「です・ます」調を戦略的に使うことで、従来の美術評論とのあいだに切断線を引いたことの意味は大きいと思います。これまでの美術評論とはちがう、これからの美術評論を自分はやるんだという意気込みを感じました。こうしたエクリチュールにたいする反省的な意識は、いってみれば美術評論の伝統の中に長く息づいている問題なので、とくに僕だけが突飛なことをやっているわけではないんですね。最近では僕より年下の美術評論の書き手も活躍していますが、彼らの言葉の大半がニューアカやカルスタ、あるいは宮台真司の影響をモロに受けていることが見え見えで(笑)、どんな読者を想定してどうすれば自分の言葉を確実に届けることができるのかという自覚が少し足りないように見えます。もう少し工夫すれば、ちがう読者が獲得できるかもしれないのに、もったいないなと。

境界は、越えてみないとわからない

——福住さんの評論は、広義の「政治」への関心に裏打ちされていると思います。ミクロなレベルでは、街頭の壁にハリガミがどう貼られどう剥がされるのかを緻密にフィールドワークしたり(これは凡百の社会学者よりよほど優れていると思います)、マクロな「政治的なもの」への配慮も忘れない。距離の測り方が一貫されています。

福住 僕は、大学時代に教えを乞うたのは上野俊哉さんで、大学院が毛利嘉孝さんだから、いわゆる「ロスジェネど真ん中世代」であり、「カルスタど真ん中世代」なんです(笑)。でも、お二人の物言いにはその端々に学生運動の名残りというか、政治運動への揺るぎない魂が感じられる。僕はぜんぜんないんですよ。学生運動にまったくタッチできなかった。その違いは埋めがたいと前々から思っていました。

広い意味での政治的なものへの関心は人並みにあるんですが、それが左翼的・党派的なかたちになってしまうと体質的にまったく受けつけられないんです。先日、土屋トカチ監督の『フツーの仕事がしたい』というドキュメンタリー映画を観たんですが、とてもいい映画でした。全体としては、社長がヤクザみたいなチンピラを雇っていろんな嫌がらせをしてくるのに対して、主人公である社員がユニオンに入って対抗するという図式にもとづいていたんですが、それぞれのキャラが立っていて面白かった反面、違和感もあったんです。それは、ヤクザ的な物言いと、左翼的な物言いがすごく似ていたから(笑)。下請けの発注元の親会社に抗議に行くとき、その会社の玄関前に車を乗りつけてマイク・パフォーマンスをするんですが、これって右翼のやり方と同じだなと思いましたし、ユニオンの人が幹部に詰め寄るシーンも、チンピラの振る舞いと変わらないんじゃないかと思いました。ユニオンの活動を否定するつもりは毛頭ないし、今の時代にもっとも必要とされていることは重々承知しているんですが、しかし人が団結して交渉して問題の解決を図るという政治的な身ぶりが、ああいうマイク・パフォーマンスとか垂れ幕に直結してしまうことに大きな疑問を感じるんです。八〇年代のニューヨークで活躍したACT UPというエイズ・アクティヴィズムがあって、そのヴィジュアルがとてもかっこよくて画期的とされているですが、たぶん問題はヴィジュアル・イメージだけではなくて、身体の身ぶりや言葉も含めて、「政治的なもの」へのアプローチの仕方をトータルにつくりかえることにある。それができれば、既存の左翼運動とは異なる、別の支持者を獲得することができるんじゃないか。だからこそ、いま高円寺の「素人の乱」などに注目が集まっているんだと思います。そこでは既成の政治言語では通じない言葉が話されていて、従来の政治的身ぶりとは異なる身体運動がなされている。それはもしかしたら「政治的なもの」とは認めがたいのかもしれないけれど、当人たちにとってはまちがいなく「政治的なもの」へのアプローチなんです。それをわかりやすく翻訳しながら擁護していくのが、評論家の「仕事」なんだと思いますね。

——福住さんは本書で例えばChim↑Pomについて高く評価されていますが、「Chim↑Pomなんて美術じゃない」というような言われ方をされることがあると書かれています。美術とそうでないものの境界、ということについてはどうお考えですか。

福住 たしかに、美術とサブカルチャー、美術とファッション、美術と建築がこれだけ融合していますから、美術と非美術の境界はこれまで以上に見えにくくなっていると思います。Chim↑Pomは、昨年、広島の上空に飛行機雲で「ピカッ」という落書きをしたことで話題を集めました。記者会見の映像を見せてもらったんですが、ちょっとびっくりしたんです。とある記者が、「私の祖母は被爆者だが、あなたがたが『ピカッ』と空に落書きしたのを見て死んでしまったらどう責任を取るんですか!」などとものすごいヒステリックに詰問している。落書きを目にしただけで抑圧していた言語を絶する記憶がぶり返して卒倒して亡くなるなんてことが病理学的にありうるのかどうか知りませんが、もしあるとしても、正直にいってそういうことにリアリティがまったく持てないんです。むしろ、Chim↑Pomのゲリラ・パフォーマンスによって、そういうリアリティの所在のちがいを明らかにしたことのほうに大きな意味を感じます。原爆をめぐる境界でも、美術と非美術の境界でもなんでもいいんですが、そういうボーダーラインは超えてみないとはっきりわからない。すべてが液状化したポストモダン社会ではとくにそうした傾向が強いんじゃないでしょうか。Chim↑Pomが面白いのは、一切躊躇せずに体当たりで踏み込んでいって、そこで社会的なバッシングも含めたさまざまなリアクションを引き出すことによって、結果として境界線のありかを浮き彫りにするからなんです。そうすることに、彼らにとってのリアリティが賭けられている。Chim↑Pomのリーダーの卯城竜太くんがうまい言い方をしていたんですが、Chim↑Pomのメンバー六人はみんな同じ道を歩きながら、同じところを目指していると。でもその道には地雷がたくさん埋まっていて、それがどこに隠されているかは踏んでみないとわからない。だから僕たちは踏んでみたくなるんだと言っていたんです。そのことによって、もしかしたら手痛い傷を負うかもしれないけれど、地雷を踏む可能性を十分知りつつも道を歩んでいくという、その歩き方に彼らはリアリティを見出しているんです。安全な道に逃げこんで「不発弾」ばかり処理しているアーティストが多い中、こういう態度はアーティストとしてとても誠実だと思います。

美術なのか美術ではないのかという議論は本当によくされているんですが、問いとしてそれほど重要なんでしょうか。問いの立て方が間違っている気がするんです。美術と非美術の境界を問い直すという議論は、「あれは美術ではない」という模範解答があらかじめ組み込まれていて、そういうことによって結果として美術を限定的な領域に囲い込んでしまう。保守的な立場にいたい人たちにとっては好都合なんでしょうが、問いとしては安直なんですね。むしろ、「これも美術なんじゃないか」という問いを立てるほうが、答えを導き出すのは難しい。だからこそ鶴見さんが提起した限界芸術論は重要なんです。鶴見さんが問いかけたのは、「何でもかんでも芸術なんじゃないか」というラディカルな問題だからです。これまでの美術評論家はこの問いを黙殺してきましたが、これこそ引き継いで考えるに値するテーマだと思います。

僕の好きなアーティストの中に「じゃましマン」という男がいます。といっても、本人はアーティストとしてではなく、お笑い芸人として活動しているんですが、ぼくは彼をアーティストとして見ているんです。彼が面白いのは、赤塚不二夫が亡くなったときに葬儀に潜入したんです。しかも、一般の弔問客としてではなくて、「このたびは……」なんて言って、一〇〇〇円しか入ってない香典を渡して、親族の枠で入りこんだ。マイクロバスに同乗して、焼き場で遺骨も拾って、なおかつ香典返しもしっかりいただいたというんです(笑)。これは、例のタモリさんの悼辞に匹敵するくらい、赤塚不二夫が泣いて喜ぶ弔い方でしょう。誰もやろうとしなかったことをひとりでやってのけて、しかもそのことによって真実を突いている。そんな彼が、酔っ払いながら「限界芸術じゃない芸術ってあるんですか」と言ってきたことがあるんですが、まさにそうなんですよ。限界芸術という視点から見れば、世の中のことは、それこそ日常的な身ぶりから社会体制にいたるまで、何でもかんでも限界芸術としてとらえられるから、芸術か芸術じゃないかという問いは不毛になってしまう。だからこそ、それを今日的に再定義するとすれば、もう一歩先に踏み込む必要があるんです。コミケも写真も書道も、みんなたしかに限界芸術だろう、でもそれだけではない、第三の領域が未開のまま残されていて、そこを何とかしてこじ開けなければならない。

——福住さんは本書で「評論家として成り上がりたいなんて、これっぽっちも思っていない」(P160)と言っておられます(笑)。この韜晦というか、「評論家・福住廉」のスタンスについてうかがえればと思います。

福住 それはほんとうにそうなんです(笑)。たとえば美術評論家の椹木野衣さんが「スーパーフラット」を擁護したことによって、二〇〇〇年代前半のアートシーンを牽引して、同じく松井みどりさんが「マイクロポップ」によって二〇〇〇年代後半を担ったという教科書的な図式がありますが、そのラインに乗りたくないんですね。もしかしたらマイクロポップの後をChim↑Pomが受け継ぐのかもしれないけれど、そういう事態になってしまったら、僕はたぶん逃げてしまうと思います(笑)。

そういう流行やモードというのはいつの時代にも必要とされるんでしょうが、僕自身はあまり魅力を感じないんです。「次来るのはこれだから、みんな、こっちへおいでよ!」なんて口が裂けてもいいたくない(笑)。どうせ乗るんだったら、僕は鶴見さんの方に乗りたい。鶴見さんは「限界芸術はアルタミラの壁画以降、地下水脈のように連綿と流れている」という、ウソかホントかわからない謎の言葉を書かれていますが、こっちのほうにロマンを感じるんです。そういう原点は、様式展開を繰り返す美術史とも、社会体制の変容とも無縁で、いつの時代にもそれらとはちがったステージにあるはずなんです。たとえば「素人の乱」の前には同じ系譜に「ダメ連」があったわけで、そういう動きはマスメディアによって消費されるサイクルはあるかもしれないけれど、その都度その都度かたちを変えながら現われてくる、それこそ普遍的なものだと思うんです。だから重要なのは、ムーブメントの傍らでしっかりとその原点のありかを把握しておくことだけで、そこさえ見失わなければ、どれだけ時代が貧しくなっても、なんとかやっていけるような気がするんです。ムーブメントを適当に捏造してアートバブルに相乗りするという手もなくはないんですが、僕はアーティストではないので関係ないんですよね。アートバブルで原稿料が上がるというのなら、ちょっとは色気を出してみようかなと思わなくもないんですが(笑)。

——いやあ、どうもすみません(笑)。

福住 すみません、そういう意味じゃないです(笑)。ただ、評論家といったって、結局は作品を見る側であることにちがいはないわけですから、よい作品を見たいという思いは一貫してあります。それだけですね。

評論もワークシェアが進行?

——では、「評論家・福住廉」を成り上がらせてしまうかもしれないChim↑Pomについて(笑)、もう少しざっくばらんに思うところをお聞かせ願えますか。

福住 僕はChim↑Pomが大好きです。それは、彼らの作品が抜群に面白いということもあるんですが、彼らの活動が結果的に美術という概念を作り変えていくことにつながっていると思うからなんです。本書の中でも、卯城君が「アートに来たところで暗い人が多いからぜんぜん馴染めなくって」と発言しているんですが、その気持ちはよくわかる(笑)。僕も美大出身じゃないので途中から美術の世界に入って来たんですが、その場ちがいな感じはいまもあります。Chim↑Pomの作品を見るときの痛快な感じは、その違和感の裏返しでもあるんですね。もちろん、中にはダメな作品もないことはないんですが、それにしても、もしかしたらこの人たちはこれまでの美術とはぜんぜん異なる美術の道を切り開いているんじゃないか、あるいは既成左翼とはまったく別の仕方で「政治的なもの」へアプローチしているんじゃないか、そんな期待や可能性を感じさせてくれるんです。

例の「ピカッ」以降、彼らはその出来事をまとめた本をつくっています。僕も少し書かせてもらいましたが、この三月には発売される予定です(『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』無人島プロダクション)。それから、例の「ピカッ」の映像を使った作品と、本来広島市現代美術館の個展で発表するはずだった作品を、東京の原宿で公開するそうです(三月二〇~二二日、Vacant)。被爆地で発表できなかったのは残念ですが、これだけ話題を集めた作品ですから注目されるでしょうし、僕も楽しみにしています。

——本書には「画壇アイドル論」と総称された文章群も収められています。「画壇アイドル論」を提唱された意図はどのようなものでしょうか。

福住 画壇アイドル論は、それだけでまるまる一冊書きたいくらいなんです。直接的に影響を受けたのは文芸評論家の斉藤美奈子さんの『文壇アイドル論』(岩波書店)で、たいへんおもしろく読んだんですが、これと同じことを美術でもできるんじゃないかと思ったんですね。斉藤さんは村上春樹や村上龍、林真理子や上野千鶴子といった80年代以後の文壇で活躍した「アイドル」たちが、どのように愛されてきたのか、その言説を丹念に調べ上げることで、彼らの受容のされ方を解き明かしたんですが、こうした着眼点はこれまでの美術評論や美術史研究ではほとんどないがしろにされてきたんです。美術評論家はその特権的な立場に甘んじるばかりで、美術家がどんなふうに鑑賞者に愛されているのか、見ようともしませんでしたし、美術史研究でも最近では五十殿利治さんが美術雑誌の読者投稿欄の言説分析によって美術の受容側の側面を実証的に明らかにしていますが(『観衆の成立』東京大学出版会)、まだ端緒についたばかりです。だからこそ、画壇アイドル論を丁寧に書いていく必要性を痛感しているんです。

先日、「山下清展」に行ったんですが、裸の大将はこれほど大衆に愛されているのに、美術批評の問題としてはまったくといっていいほど検討されていない。ただ、よくよく考えてみれば、山下清をはじめ、片岡鶴太郎、ジミー大西、そういう「アイドル」たちをいろもん扱いすることによって「戦後現代美術史」が編纂されてきたんじゃないかという疑いがあります。でも現に大衆に愛されていることは事実なんですから、それを含めないで成立している「歴史」にいったいなんの意味があるのか、よくわかりませんね。たとえば岡本太郎や草間彌生といった美術家たちは美術評論の対象として十分すぎるほど論じられていますが、その一方で彼らがどのように受容されて、何を求められているのかといった点については、ほとんど触れられていない。そこをしっかりと見極めなければ、その美術家の本質を語りつくすことも到底かなわないんじゃないでしょうか。

——本書の最後には時評や展覧会評がクロニクル風に収録されています。展覧会は一日で終わってしまったり、一年間ずっとやっているものもあるでしょう。期間の問題はあるにせよ、展覧会場に行かない限りはそれに出会えないという意味で、展覧会に行くことの特権性というか絶対性はあると思います。しかし、一人の人間がこの世のすべての展覧会を見るなんていうことは不可能です。どれを見て、どれを書くのかという選択が常につきまとい、難しい部分もあるかと推察しますがそのあたりいかがでしょうか?

福住 僕はわりと見ているほうだという自負はあるんですが、それでも見逃してしまうものもありますし、それでも東京近辺に限られてしまいますから、地方まで含めるととてもひとりではカバーできません。でも、誰かが見れないものについては、他の誰かが見て書けばいいように思います。もともと特定の個人がすべてを見ることができないわけですし、批評的な言葉というのは、鑑賞者であれば誰もが持ちえているはずですから、美術評論家を職業にしていなくても、その役割は分担しうるはずです。いまや役所勤めの人であっても、仕事帰りにギャラリーをマメに歩き回っていますし、逆に美術評論家のほうがあまり見ていないように思います。だから、おそらく美術評論家という役割は今後ますます分有されていって、評論のワークシェアが進行するんじゃないでしょうか。

僕が展覧会を見に行く基準は、事前の情報で面白そうかどうかという、いたって単純な理由で、その点でふつうの鑑賞者と変わらないと思うんですが、それ以外に気になったアーティストを継続して見ていきたいという思いがあります。たとえば最近日本画で活躍している三瀬夏之介は、数年前に銀座の画廊で見て以来、持続的に見ていこうと決めた作家ですから、たとえば京都で個展をやるとなれば、もちろん出かけていきます。僕がいまいちばん注目しているのは「素人の乱」の山下陽光なんですが、彼が素人落語をやると聞いたときは、どんな仕事を差し置いてでも見に行きました。時評の面白さは、そのときその瞬間の輝きをいかに言葉ですくい上げることができるのかという、いわば一発勝負にあると思うんですが、それだけではなくて、特定の美術家を長期的なスパンで見続けることで、その変化や一貫性をしっかり見届けるというところにもあると思います。

本書を自分で読み返してみて思うのは、限界芸術が原始的なものであるとすれば、それは大衆芸術と純粋芸術に通底しているはずですが、この本では純粋芸術の歴史に落ちている限界芸術の影をほとんど検証できませんでした。戦後現代美術の歴史の中に限界芸術がどのようなかたちで隠れているのか、それを丹念に掘り起こす作業が、今後の課題になると思います。そうすれば、たとえばアンフォルメルから反芸術、もの派から日本概念派、そしてネオ・ポップからスーパーフラットという、じつに直線的で凡庸な歴史観とは異なる、もっと広範な文化領域を巻き込みながらダイナミックに展開していく、ある種の「表現史」として戦後現代美術史を書き換えることができるんじゃないか。そんな予感があるんです。でも、それはもしかしたら美術評論家という個人に帰着する「仕事」というより、もっと集団的な、それこそ美術以外のジャンルの人たちとの共同作業になるのかもしれません。

初出:「図書新聞」2909号、2009年3月14日7~8面

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