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はじめてのイタリア

 はじめてイタリアに来たとき、夜遅くフィレンツェの空港に着いて、まずその、バスターミナル程度の簡素な小さな空港に驚いて、その後市内へ向かうバスの窓から見た薄暗い街並みに、ああ、ヨーロッパへ来た、と感じた。翌朝起きて、ホテルの部屋ではないけれど、朝食のテラスかあるいはそこへ向かう廊下からだったか、どこかから不意にドゥオーモのクーポラが見えた・・・ような気がするのだがここはちょっと記憶が定かでない。ともかく、夏至に近いフィレンツェの朝の光の下で、隙間から見えるには大きすぎるクーポラの迫力に驚き、心が踊った。

 何よりもまず最初に見たかったのは、フラ・アンジェリコ(またはベアート・アンジェリコ)の「受胎告知」。フィレンツェの、今はサン・マルコ美術館となっている元修道院に、駆けつけ一番に見に行ったそれは、回廊を半周して少し奥まったところにある階段を上ったところに、あった。

階段を上がると、突如目に飛び込んでくる


 はじめてイタリアに来たのは、1995年6月のこと。日本では、たまーに展覧会に行く程度。旅行が好きで、特にヨーロッパが好きで、主な美術館には一通り行っていたけれど、美術のことも建築のことも、特別に勉強したこともなく、大概はガイドブックを頼りにいわゆる著名な作品を見て回っていたくらいだった。
 修道院の壁に、直接描かれた「受胎告知」も、だからやはりガイドブックなどで知って、見学必須ポイントとしてチェックしていたのだが、初めてそこで本物を見て、なんというか、えもいわれぬ美しさに言葉を失った。感動という言葉はなんだかもはや軽すぎる、衝撃、の方がむしろ近かったかもしれない。
 通ってきた回廊そのままのような、アーチの連なる、だがすっきりとシンプルな構図。やがて聖母となる女性の前に跪き、事を告げる大天使ガブリエル。その言葉を受け止めるマリアは、飾り気のほとんどない青いマントに身をつつみ、木製のベンチに腰掛けている。他に誰もいない静謐な空間。天使の虹色の翼と、ピンク色の衣。それを、細かく描き込まれた背景の緑が引き立てている。
 驚きは、それだけではなかった。回廊の上階に当たるこの階は、廊下に沿って、小さな部屋に細かく区切られていて、かつての修道士らの独房であったその部屋にそれぞれ、同じフラ・アンジェリコが、「キリスト生誕」だの「キリストの洗礼」、「磔刑図」や「キリストの復活」などの場面を、壁に描いていたのだった。
 500年前の修道士の生活がどんなものだったのか、想像もつかないけれど、小さな窓ひとつ、扉一つの狭い空間で、アンジェリコの壁画は、大いに慰めや楽しみ、そして心の平安の支えになったのでは、と思う。

キリスト生誕
聖母戴冠
キリスト磔刑
東方三賢王の礼拝

 そして、額縁に入った絵ではない、この絵が全て、壁に直接描かれているということ。今でこそ美術館としてこうしてその独房も一つ一つ覗き込んでは鑑賞しているけれど、当時は絵画というものはその場所のために、正確な目的を持って描かれたものだったのだと知った。

 その時のフィレンツェは、新潮社のとんぼの本シリーズの、「フィレンツェ美術散歩」を片手に回った。ウフィッツィ美術館もまだ予約ができない頃で、2時間くらい並んだのを覚えている。あの時はまだ、1993年に起きたテロによる爆破事件の影響で、確かギャラリーの半分以上はまだ閉まっていた。それでも、あれもこれも、「有名」な絵を見つけては「感動」した。
 だが実は、集められた絵が壁にかかっているウフィッツィ美術館以上にフィレンツェで驚かされたのは、サン・マルコ美術館をはじめとする、壁に描かれた絵たちだった。「マギの礼拝」でありながらメディチ家の肖像画を埋め込んだ豪華絢爛なフレスコ画のあるメディチ・リッカルディ館。今は市役所になっているヴェキオ宮殿、そして数々の教会群。街並みもだが、そうして、その場所のために描かれた絵がいまだそこにあるということ、手元の「とんぼの本」以上の情報も知識もない中、その本物の前で、目を見開き、ただただぽかんと口を開けて眺めた。漆喰の白壁の表面が乾かぬうちに顔料を塗り込んで描くフレスコ画は、その鮮やかな色合いが経年経過で表面がやや白みを帯びている。強い日差しと、カラッカラに乾燥した夏のフィレンツェで、厚い壁の内側はやや薄暗く、光のコントラストにめまいを起こしながら、ひんやりとした空気にほっとした。そしてその壁を埋め尽くすフレスコ画にただただ圧倒された。
 
 今年5月、久しぶりにサン・マルコ美術館を訪れた。初めての衝撃から、何度も訪れているけれど、その都度、驚きと、安らぎと、喜びを与えてくれる。以前は撮影禁止だった美術館が、今はこうしてほとんどの場合、撮影OKになったのも嬉しい。本物のドキドキには決して敵わないけれど、それでも何枚も写真を撮った。

23 lug 2023

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