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【光る君へ】第12回「思いの果て」を見て〜まひろと妾〜


1. 第12回「思いの果て」感想

『光る君へ』第12回を見て、またもや「うわああ」とか「ああああ」とか言いながら45分が終わった。気持ちを音にして出さないと、気が済まない大河ドラマです。第12回はラスト15分で気持ちがぐちゃぐちゃになった。史実知ってるんだよね?と夫に言われる。

庚申待(こうしんまち)の夜に届いた道長からの文。まひろも視聴者も待ち望んだ廃屋での逢瀬なのに、まひろは道長から「左大臣家の一の姫に婿入りすることとなった。」と告げられる。前回の逢瀬から考え続けた末に、あなたの妻になれるなら妾でもいい、と伝えるはずだったまひろの気持ちは挫けた。

まひろが先に要件を伝えていたらふたりは結ばれたじゃない!なんで道長が先に口を開いた!!(号泣)と思ってしまうが、北の方にも妾にもなれなくなったまひろが、今後どのようにして道長の人生に再び関わっていくことになるのか、それはそれで気になり、早く続きを見せてくれ~!!(号泣)と思い直す。

2. 妾であること

妾の立ち位置については『あさきゆめみし』における紫の上、『蜻蛉日記』の藤原道綱母(『光る君へ』では藤原寧子)で予習していたので、第11回で道長から妾となることを提案されたシーンでは、そりゃあ願わくば妾になりたくないよね、と素朴にまひろに共感した。

しかし、第12回では最期まで為時に慈しまれる高倉の女 なつめの姿を見たり、実資との縁組を現実的に考えて、見知らぬ人の北の方になるのは…と考えたりする。そして、眠らぬ夜に届いた道長の文を見て、好きな人の妾になるほうがいいんだと考え直し、道長のもとへと走り出す。

第12回では、第11回でまひろが妾となることを拒絶したシーンが何度か挿入されている。それを見ているうちに、あれっと違和感が。結構前の倫子サロンのシーンで、まひろは『蜻蛉日記』を寂しい妾の話とは捉えていなかったのに、なんであんなに瞬発的に、道長の妾となることを拒否しているんだろう?『蜻蛉日記』を通じて表される寧子のメッセージをポジティブに捉えた読者だったじゃないか、と疑問が湧いてきた。

3. まひろと妾

というわけで、いま一度まひろが妾というものに接したシーンをさらいながら、まひろの妾に対する意識を考え、整理してみる。


3-1. 第6回「二人の才女」 倫子サロンでの会話

赤染衛門が『蜻蛉日記』のひとり寝のさみしさを歌った代表歌「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」を読み上げ、感想を言い合うシーンがある。茅子としをり(モブキャラの方々)は、いかにもさみしい歌だと感想を述べる。一方、まひろは『蜻蛉日記』は殿御に顧みられなかった作者の嘆きを描いたものではなく、身分の低い女子が身分の高い殿御に愛されたことを自慢するものであるとの解釈を展開する。赤染衛門もそれに同意する。


3-2. 第10回「月夜の陰謀」 高倉の女

父の心を射止める高倉の女とはどんな女であろうと確かめに行くと、みすぼらしい屋敷で病気の女を看病する父の姿を見る。献身的な姿に、父は立派であるとまひろは父に伝え、自らも手伝うことを願い出る。しかし、まひろ(すなわち、北の方であるちやはの子)に世話になるのは、女も気づまりであろうと為時は断る。


3-3. 第11回「まどう心」 高倉の女

乙丸に父の着替えを届けさせる際、再び女を看病する父の姿を見る。官職を解かれた後も父の献身的な態度は変わらない。


3-4. 第11回「まどう心」 信孝の訪問

為時が官職を失い、再び貧しくなる家のためにまひろができることは、婿を取ることだと言う信孝。北の方にこだわらなければ相手はいくらもいる、心当たりはいないのかと訪ねる信孝。まひろは「おりませぬ。それに私は妾になるのは…。」と返す。信孝自身は複数の妾のいずれをも等しく慈しんでいるとし、妾も悪くないとまひろを諭す。


いずれも、道長からの妾提案より前のシーンである。信孝との会話から、おそらくは相手が道長であろうとなかろうと、妾にはなりたくないというのが彼女自身の考え方だと伺える。妾というのは現代風にいえば2番目以下の女であるから、妾は嫌だ、というのは現代の価値観で見ている視聴者の価値観と自然に重なる。

「ひとり寝る夜」が寂しかろうと、大恋愛を自慢話にできる寧子のような強メンタルの境地もあると知っていたならば、妾で妥協、と思えるような気もするのに、第12回までまひろはそこに至らない。まひろ自身の評とはいえど、『蜻蛉日記』はある種自慢話、というのがその読み物の解釈の範疇に留まるとすれば、まひろの中の妾に対するイメージはそれとは別にあるのだろう。

『蜻蛉日記』の一般的な表層的解釈や、まひろがまだ反応していないのに妾の立場のフォローに入る信孝の姿があることなどから、物語中でも妾は嫌というのが一般的な反応とされており(だからこそ、寧子はすごい)、まひろもそうした反応を示す一女性であったということになるだろうか。

まひろは、第10回・第11回で父に大切に看病される高倉の女の姿を見ているが、それらも妾は嫌だという考え方を変えるには至らない。

4. 解釈ではなく想像すること

第12回では、為時の妾であるなつめの看取りに接すること、実資との縁組の可能性が身に迫ることを経て、まひろは道長の妾になる決心をする。つまり、あれだけ嫌だった妾という立場を受容する。第11回までにまひろが見聞きする妾の姿と、第12回でまひろが妾について考えさせられる出来事では、まひろがそれらを自分ごととして想像するかどうかが違ったために、心境の変化が起きたのではないだろうか。

『蜻蛉日記』を読むことは、まひろにとって勉学や教養のひとつであって、彼女が精読のうえ深く理解しているのは筆者の気持ちであった。高倉の女は病で伏しているとはいえまだ決定的な状況には至っておらず、女を通じてまひろが見ていたのは、目にかけた女を最後まで世話する為時の人徳であった。第11回までは、物語の中や現実に妾を目にしても、その妾を自分に当てはめることはない。

なつめの死期がいよいよ近づくと、為時は彼女を出家させ、最期に娘と引き合わせる。娘を連れ立ってきたまひろはその対面を目の当たりにするのだが、そこには本来ちやはの死に際してあって欲しかった家族の姿が見えたはずだ。他人の母の死には、自分の母の死を重ね合わせてしまう。まひろは目を潤ませながら、娘との対面にむせび泣くなつめの姿を見る。高倉の女がちやはに重なり、急に家族のこと、自分ごととなる。自らのせいで、ちやはには成しえなかった、幸せな死がそこにある。

実資の北の方になるという縁談は、為時と信孝の意向でどんどん進められてしまうが、まひろははじめは話を止めようとしない。実資の体調不良が原因で、計画はすんでのところで中止になったが、為時と信孝の想像の世界ではふたりの相性は悪いことはなさそう。もし文が実資の手に渡っていたら、見染められて、好きでもない人の北の方になっていたかもしれない。縁談が無事に進んでしまっていたら…と、作戦中止の報告を受けながら、まひろはやっと自分ごととして考えたはずである。次の相手を探すと息巻く信孝には「もうおやめくださいませ。」とまひろは言う。それがたとえ誰かの北の方であっても、ということだろう。

母がそうあって欲しかった幸せな見取りの形、危なく進みそうだった望まない縁談を経験して、まひろはやっと、他の誰かの北の方ではなく、最愛の人の妾になってもいいと思える。その先には、『蜻蛉日記』に描かれるような寂しく殿御を待つだけの日々があるだろうが、それでも妾であれば愛しい人に会える。妾の悲痛を他人に誹られようが、寧子のように強い気持ちを持つことだってできるかもしれない。まひろの心は決まった。はずだった。

5. 想像ではなく現実を見ること

寧子の息子である道綱から、妾は常につらいのだと聞かされた道長は、最愛のひとを妾にして苦しめてよいのかと悩み、廃屋に呼び出したまひろに、ふたたび妾になってくれとは口にできなかった。ただ、倫子に婿入りすることだけをまひろに伝えることとなる。

自分ごととして想像するのと、北の方にはなれない現実を、彼の言葉で突きつけられるのはまた違う。想像によりやっとつけた心の整理が崩れ去る。まひろは伝えるはずの言葉を飲み込んで、涙ながらに道長に言祝ぎ、その場を去った。

6. まとめ

ここまでおさらいしてみると、まひろの妾に対するベースの考え方は、物語上の一般的なものと何ら変わりなく、それをどう乗り越えるのかが描かれていた。そしてそれは、現代視聴者の視点とも重なる。

妾なんてありえない!という視聴者の見方を、まひろと妾が接するシーンを通して柔らかくしていき、この時代なら妾でもいいじゃないか!と視聴者の想像力が追いつき、まひろも決心を固めたところで、一気に落としている。やっぱり好きな人の愛人にはなれない、という決着は、想像する平安の世界から、現代の感覚に呼び戻されるようである。道長が告げたのは、まひろにとって痛い現実であり、視聴者にとっては現実世界で経験可能な結論だった。

まひろが去った後の展開は、平安文学で予防接種をしていないと、たぶんひたすら道長へのヘイトが溜まります。もう一度想像の平安世界に思考を馴染ませて、この時代はそうなんだ、と言い聞かせるしかない。いち早く偉くなるためにはそれしかないんだ。家柄が良い人との間に子をもうけるしかないんだ。「道長の実現可能な突破稿を、一刻も早く見つけて実行しようとする姿こそ愛」と脚本の大石静先生のブログにあり、なんとか救われる。それが彼の愛なんだ、愛のための行動原理なんだと信じて、今後の展開も超楽しみに見守るしかない(大号泣)。


7. 映像の愉しみ

『光る君へ』から興味を持って平安文学には手を出し始め、ある程度物語の理解には役立っている。が、今回の投稿ではそんな限られた知識を動員したわけではなく、物語や映像の構成、セリフから理解できることだけで自分なりに整理しているだけだ。『光る君へ』の魅力は、細かな時代背景の知識がなくとも、細かに考えられている映像表現から深く物語を読み解くことができるところ、にもあると思います。

あ~次回も楽しみだ!!

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