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耳を塞いで歌を聴けない

ぼくは……心の安定がないと歌が聴けないと思っています。ヘッダ画像をお借りしています。

まず耳って生物が命を守るために危険予測する大事な器官ですよね。イヤホンとかヘッドホンで耳を塞ぐと、町の音が聞こえない。

最近は町なかの音が聞けるイヤホンが売られてますよね。なんかあいてるやつです。

でも耳が他の音(たとえ自分が好きで入れてる歌でも)の情報を受け取り続けるため、実際に町の音がリアルに聞こえるかといえば……ああでも、携帯でスピーカー状態にして歌を聴いてる感じのアレをイヤホンでも代替できる感じなのであればちょい近い……と言えるかも知れないといいますか耳元だけでスピーカー状態にできるならそっちのほうが周りに迷惑もかけない点でいいのかも知れないとちょっと思ってしまった。

一旦そちらを置いておいて、とにかく耳が塞がれた状態で歩き回るのって緊急行動がしづらい気がする。だからぼくは室内以外でイヤホンがつけられない。趣味で歩いたり自転車に乗ったりする時に何かが聴けるメディア媒体を持ち歩かない。

で別に室内でも、相当テンションが高くないと聴けないんですよね。これは……なぜなんだろう。かつて草野正宗が、心の安定がないと歌が造れないといっていました。創る側と聴く側を同一視していいのかどうかわからないんですが……何か近いようなものを感じたんですね。

ぼくがよく引き合いに出しがちな、BLANKEY JET CITY解散間近のインタビューのバックナンバーで読んでいつまでも覚えてしまっているベースの照井利幸の言葉で、最近は歌をBGMとしてしか利用しないケースが増えてるっぽくて悲しく思う、みたいな言い分があります。

ぼくはそれに迎合して、作者の思いとか演奏法とかを全身で受け止めているわけじゃない。なまじ楽器が弾けるから各者になりきるというよりは自分だったらこう弾くんじゃなかろうかみたいな大それたことを考えたりしてしまう。

いわゆるその大それこそが、テンションが高くないと……といいますか心の安定がないと実施できない好意にあたるのでしょうか。ぼくも歌を創ることがありますが、諸事に問題ごとを抱えてると何も思いつかない気がする。

心に余裕があると、何らかの思いつきがその隙間にするっと入り込んでくれるのでしょうか。それがない場合は、歌を読んだり本を読んだり映画を観たりする方向で産まれた心の余裕を埋めに行くのだろうか?

ぼくはここで長文を書く時もそんな気がする。そうじゃないと、その日に心に舞い込んだ衝撃とかを何とか人様に見せられる状態まで引き伸ばして衝撃と結論(とりあえずの結論)を書いている。ぼくは創作文も書くことがありますが、諸事情で心の余裕がないときも実験的に書くことがある。

また、好きな歌をBGMにしたい時も同じなんじゃないかと思いました。余裕があるから静かな空間を「決まった展開しかしない」歌で埋められる。そうじゃない時、ぼくは人がその時時の思いつきで話しているライブストリームとかをつけっぱなしにしている気がする。予想できない話がされることで孤独感を埋めたいんでしょうか。余裕がない時に孤独が際立つのか……余裕があると孤独だとは思わないのか……次回以降でもう少し考えを深められたらいいですね。こんなnoteばかり書いてしまっている。

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