見出し画像

DRAGON BALL27巻に変えられた世界

ぼくはよくTOKIOテラスという番組を見てたんだけど、これは起業家がすっげえ集まる番組で、いつだったかそのひとりが好きな書籍を勧めてくださいというコーナーに出、DRAGON BALLを挙げていた。ヘッダ画像をお借りしています。

そして確か、別に内容のどこに触れてどうたらってことじゃなかった気がする。あでもクリリンを失った悟空について話してた気もするが……それは27巻に書いてあるわけです。そしてTOKIOテラスでカバーが大見せされてたのも27巻だった。まるで27巻だけがDRAGON BALLのすべてだとでも言うように。

でも確かに、ドラゴンボール27巻は圧倒的です。確かその後15冊ぐらい出て終わったんだろうけど、それ以降のドラゴンボールには欠かせない超サイヤ人が初登場したから。

だから27巻以前と以後って感じなのだろうか。ぼくは超サイヤ人ではない、丸っこい目の絵柄が続いた26巻まで……といいますか、5、6巻前後(つまり1巻~13巻てことになるでしょうね。幼年期だから)も好きなんですけどなんか27巻以後にスポットが当たることが多い。

でもやっぱりかっこいいですよね。超サイヤ人の設定が徐々に肉付けされていけば当時のガキは喜んだことでしょう……はじめは命より大切な友達が殺されないとそうなれなかったのに、自分の気持ち1つでなれるトランクスが来た。したら実はそれは超サイヤ人2という段階には遠く及ばない状態であり、自己学習して勝手に育つという人間が作ったものでありながら人間を簡単に滅ぼせる敵には一切歯が立たないレベルだった。

したら主人公の子供だけが2になれることがわかり、他の人はどうやってもなれず2になった勇者がそいつをぶっ殺してやった。主人公である親父を犠牲にして。奇しくもこの子供が生まれた時のピッコロの最終奥義を敵にぶち当てるために主人公が犠牲になった時を……いま考えるとなぞらえていたのだろうか?そうなのだとしたら鳥山明も鳥嶋も恐ろしい。

関係ない(ある気がする)けど、年表に照らし合わせるとこの時に同じく鳥山明がデザインしたドラゴンクエスト5は敵が仲間になる設定も凄まじかったものの、主人公は別に勇者じゃなく、子供が勇者だった(もちろん最後まで連れて歩かなくてもいいんだけど)設定とまるで姉妹とか兄弟みたいである。どちらも鳥山明の絵である。相互に影響し合ったのか、たまたまか。

そしたら今度はゴースト化した主人公が超サイヤ人3になれることがわかった。そうじゃないと通用しない敵が出てきたから。

こういう部分だけ抜き出すと昨今のゲーム市場における課金のために次から次へとインフレ敵を出してくるみたいに見えちゃうかもしれないけど、生来ジャンプの漫画とはそうだった……気がする。鳥山明以外あんま知らないからわかんないんですけど……DEATH NOTEはLを殺したらLよりは弱い双子みたいなのが出てきて自滅する話であり画期的でしたが

逆にいえば、ドラゴンボールとはこうした現在でも続くゲーム市場の情けない課金システムを漫画の上で再現、あるいはそのようなフレームワークを既にひらめいて作っていた時点であまりにも時代を先取りして優れていたと捉えることもできる。天津飯、ピッコロ、ベジータ、フリーザ、セル、魔神と、27巻より前からがんがんインフレしていったことは誰の目にも自明ですね。

ただ……このように27巻とは単なるインフレにとどまらなかった。ぼくでもドラゴンボールを紹介しろと言われたら「あ、じゃあ27巻トップで」と番組ディレとかにオーダーしそうです。それぐらい27巻は常軌を逸していた。すべての味方や敵が絵画の1ページに見えた。絵画はページという単位でカウントするのかどうか知らないけど。

表紙がめっちゃ意外なんですけど、わかりますか?主人公はこの道着で超サイヤ人にならない。なぜなら服が破壊されているから。きちんとなったのってそのずっと後の19号と20号が来た時ですかね

そしてフリーザにストロボライトみたいなのがあたっている。つまり27巻の表紙は、じゃあ27巻の撮影しますんで~~~~~~~という感じで、ドラゴンボールの物語を演じてる役者たちが集められてポーズを取らされたと捉えられるのかもしれない。もちろんこれはいま思いついたんですけど。

この通り、ぼくはドラゴンボールと言われるとどうしても27巻のすさまじさを思い出してしまう。27巻がぼくの中のすべてを変え、見えてる世界を変え、もちろん物語もこのように変えたのだ。ぼくらは27巻から到底逃げられないのだろう。

この記事が参加している募集

マンガ感想文

好きな漫画家

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?