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「推しは推せる時に推すな」

小ぎたない恋のはなしEx:19話

前回


電車は激しく南に向かって動いているはずなのに、どれだけ移動しても冷房の音の向こうからせみが鳴いている声がする。

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なぜなら感情を金で買っても楽しくはないからだ。昨今、エンターテインメント業界は間口が広がり、見る側も演る側も恐ろしいほど人数が膨れ上がった。

市場の人口が増えていくと予測できれば、ブルーオーシャンのうちに先行者利益を得たがる。別に僕はそれを責めたりはしない。

そして市場の広がりによって参入障壁が恐ろしく簡単になるということはまた、離脱障壁もひどく簡単であるといえる。物事をやめるとき、ある一定のコミュニティに頻繁に参加しなくなるだけで人は引退という単語を使うようになった。その表明のためごときにいちいち町のホテルを貸し切ってセレモニーを開かなければならないような重さだ。

コミュニティに属さず、あるいはその後の立場が変わったとて似たことに手を出すとわかっていても「引退」と言わなければならないらしい。「引退」とは極端に大げさな言葉だ。

それだけ簡単に「次の仮面」を造れてしまうようになったのだと僕は思う。今の仮面を捨てるのも簡単なら、次の仮面に付け替えるのだって異様に簡単だ。

そんな中でエンターテインメントに従ずる者たち、つまり偶像たちを追いかけるのであればいつも全力で支えてやらねばならないらしい。いつしか勝手にそう決まってしまって困惑している。その偶像が所属する事務所や企業ではなく、何ら関係ない偶像に対する遭遇者はすべからくファンたれという勢いで、彼らに金を投げつけなければ経済が回らないとされている。まるで商店街の一角で勝手に演奏している奴の視界に入ったら、強制的に金銭が奪われるみたいな感覚だ。

それをさも、格言であるかのように「推しは推せる時に推せ」と表現する向きがある。応援する自分が格好いいと正当化する姿勢、金銭を投じるという応援形態を肯定する姿勢、そしてその対象がいつかいなくなってしまう可能性があるというのなら今のうちに「態度」を示せとでもお節介に助言してくれている姿勢がそこにある。この格言は非常に命令的であり、何かを恐れて焦っているかのようにも見える。

金で応援して手に入れた感情には何が残るのだろうか。いつかいなくなってしまうなら、身を切り崩して応援する行為とは、国家予算を投じて建てた調査ロケットがブラックホールに吸い込まれてしまう事故とあまり変わらないのではないだろうか?

自分が投資してやったからその偶像が肥大化できたのだと、まるで盆栽を愛でるように見る感情もあるかも知れない。

「投資してやったから」。

偶像とはどこまでいっても偶像である。なんでもいい。芸能人、タレント、インフルエンサー、インスタグラマー、TikToker……彼らは繰り返すだろう。みなさんのおかげでここまで来れました。「いやそんなことはない、実力だ」と投じた側が言う。どこまでいってもこれの繰り返しだ。このサイクルは単なる商業的フレームワークの自動化=集金の過程であり、ことばなんてただの形容詞でしかないのに。

自分の金を自分で使うことの意味を肯定できるのは自分自身だけだ。他人がそれを見て「その応援ナイス」とか言ってきたらどう思うだろうか。応援していることを応援してでもいるのだろうか?それに快楽を覚えるのか、金払いの良い奴を肯定して、商業的フレームワークの自動化をますます発展させてしまうことへの同調圧を形成することを楽しいと思うのか、ベルトコンベアみたいに勝手に乗せられただけの商業的フレームワーク上にいるだけで社会参画していると感じるのか。

どこまで行こうと終わりがない、近づきもしないコミュニティをして社会参画と定義してしまうのであれば道端にいる虫だって社会参画している。僕は虫の命も人の命も同価値だと思う。思いながら、自分の人生に邪魔な虫がいたらその生命を奪う。

命令的な格言は自己肯定感を高めるだろう。
この金は無駄じゃない。
この金を稼ぐために凄まじいほどその人格を否定したいぐらいの人間(上司でも客でもなんでもいい)と付き合い、そんな構造がこの世を形成しているならいつか未来のために永遠に滅亡させたいような劣悪な商業下で労働する。
そこまで自分がつらくても、そこまでして手に入れた金を、すべてを、この格言が肯定してくれる。
偶像が喜ぶから自分の生き様は決して無駄じゃないのだ。
どこまで身を崩し、その後に何も残らなかったとしても。
さあ集金のフレームワークが完成された。他人のビジネスに金を遣え。

※2022/12/23微修正

次回

謝辞
(ヘッダ画像をお借りしています。)


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