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人生が詰まった卵とは

これは卵のつもりなのですが、卵に見えなくてもなんでもいい。というのも挿絵で皆川明というかたの「LIFE CAPSULE」という絵を見て、ぼくは一体なにを思えばいいのだろうか?と考えたことがあったからだった。

その絵はこのように、といいますかこの絵は皆川の絵を再現したんだけど、別になにもない背景に横に置かれた卵が一筆で書かれただけのものでした。

つまり「そこから何でも想像してみなよ」系の芸術だと思うんですが、書く手間が簡単すぎんじゃねみたいなそしりを受けてもおかしくない芸当だと思うのでリスクが高い表現であるように思える。

それはこの前ぼくが見た、アート系のパトロン番組で言われてた「見る人の心になにかをもたらしたのであれば存在する価値があった」的なことの最たるものだと言えるんだけど、見ようによっちゃ人に迷惑をかける系のすべてがそうとも言えてしまうことに最近気がついた。

いま現在ぼくはシベリアの山頂みたいなところにいるので後ほどリンクを貼ろう……と思ったのだが意外にもさっさと見つけられた。

ともあれライフカプセルである。なるほど人生が詰まったカプセル……生活が詰まったカプセル……それを卵で表現したということは、卵の「孵化させ者」次第で脆くもぶっ壊れるよ、的なことが言いたいのだろうか。

あるいは、当該卵とは存在している「世界」がすでにあるものです。その世界に受け容れられなかったのであれば、卵はぶっ壊れてそこからなんの生活も人生も出てきませんね。つまり卵が置いてある世界にいる他の生命体が、その卵が孵化できないような状態にしてしまうことはまま起こりうる。

卵をぶっ壊してしまうような、卵の自然孵化といういとも普通の権利、行動を阻害してしまうようなクソ世界に卵の外側がなってしまっていたら貴様らはどうするのだ?とこの絵は訴えかけているのかも知れない。あまり問題意識を植え付けられ得ることは好きじゃない。

問題意識を植え付けられたのであれば、何らか行動を起こさないといけないからです。そう、シベリアの山頂のような場所にいたとしてもだ。こんな場所で行動なんて起こしづらいのに、世間様は行動を起こせと追いかけてくる。プレッシャーを与えてくる。そのような人種にはなりたくないものだ。

果たしてこのライフカプセルという絵は、政治的な話題が飛び交う場に書かれていたものである。ぼくは政治を話題にはしないようにしている。卵の外側には遠慮なく政治の世界が存在することだろう。ぼくらが望むと望まざるにかかわらずである。

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