鬱映画に魅せられて #2

こんばんは、吉川れーじです。
三月も終わる夜にふさわしいかどうかは分かりませんが、眠れぬあなたよどうか一緒にいてください。

映画が放つ光とそこに落ちる影
皆、誰しもが愛してやまない映画の一つや二つを持っていて、それを自分の友人や恋人や家族に教えたくなるものです。でもそれが特別な事だと理解っている人はとても少ない。
多くの人は「映画の話なんて、単なるコミュニケーションの一つじゃん?」と言うでしょう。えぇ、その通りです。でもその単なるコミュニケーションの中にどれだけの感情が溢れているかを知らないなんて、とても可哀想な人だ。
僕が好きな映画の話をするとき、どんな顔だろう?それはきっと大切な人だけが知っている。それと同時に僕の心の中も、きっと少しだけ見えてしまっている様に感じる。それはあなたにも言えることであなたの好きな映画を知れば、きっと少しだけ心を読み取ることができる。それを「単なるコミュニケーション」と言うのはあまりに軽薄ではないだろうか?。
他人の中に自分の心の一つが残る、それはとても美しい事だ。だがそれと同時にとても恐ろしい事でもある。自分がどんな人間かなんて、本来隠すべき事だ。でもそれは一つの側面でしかない。どう受け取るかはあなた次第だ、映画も人も自分を映す鏡だと、僕はそう思います。

「子宮に沈める」について(2)
#1にて 、邦画「子宮に沈める」についての心情を書きました。ここからは本編ネタバレを含む、「子宮に沈める」と他の崇高なる鬱映画との違いについてを書きたいと思います。そしてとても不快な話が出てくるので、嫌な方は直ぐに閉じてください。そしてこの映画だけは絶対に見ないでください。
まず、この映画の元となった大阪二児餓死事件について…2010年7月30日、「部屋から異臭がする」との通報で駆けつけた警察が二児の遺体を発見。死後一ヶ月ほど経っていた。同日、母親(当時23歳)を死体遺棄容疑で逮捕し、後に殺人容疑で再逮捕した。母親は、居間の扉に粘着テープを張った上に玄関に鍵をかけて二児を自宅に閉じ込めて放置し、約50日ぶりに帰宅した際に子どもの死亡を確認した。その後そのまま交際相手と遊びに出かけた。(wikiから引用、抜粋)この事件に影響を受けて、この映画は作られました。
邦画「子宮に沈める」のあらすじ…旦那とうまくいかない由希子は4歳の女の子、幸(さち)と1歳の男の子、蒼空(そら)と3人で暮らす事になる。楽しかった日々が薄れ、生活に苦しくなった由希子は夜の仕事に出るようになる。そこで知り合った交際相手と密に合うようになり、次第に子どもの世話をしなくなっていく。ある日、由希子は部屋中の窓やドアにガムテープを貼り、2人の子どもを置いて出て行ってしまう。次第に弱っていく2人、それでも「ママ…。」と呼び続け、母親の帰りを待つ幸は、弟と自分の空腹を満たそうと小さな手で不器用ながらにミルクを作ったり、時に危険な方法で食料に有り付こうとする。だがそうこうしているうちに弟の蒼空は動かなくなってしまう。それさえ理解できないまま「そらおきて〜ごはんできたよ〜」と呼び続けるのである。とうとう食料と呼べるものも底をつき、粘土まで食べるほどに飢えた幸。とそこにのうのうと由希子が帰ってくる。由希子に幸は「ママおそいよ〜」と繰り返すが由希子は黙ったまま、部屋の掃除を始める。動かなくなり、蛆がわいた蒼空をゴミのように片付ける由希子に幸が「そらうごかなくなったよ」と話しかけるも無視。お風呂にお湯をはり、汚れた幸の服を脱がす由希子。そしてドボン!という音とともに小さな咳と苦しそうな声がお風呂場に響く。由希子は生きながらえてしまった幸を自分の手で始末するのだった。そして綺麗になった部屋で1人はだかの由希子は自分のお腹にもう1人の命がある事をうかがわせる。そして幸と蒼空のために編んでいたマフラーに使っていた編み針を、自分の股に深く突き刺し涙する。大きなシートに置かれた2人の子どもの遺体の横で座り込む由希子。そしてなにかを伝えたいかのように窓の外(視聴者)に目をやる。ここで映画は終わります。

「子宮に沈める」の大きな間違い
この映画の大きな特徴、それは実在の事件が元になっている事。いわゆるノンフィクションと呼ばれる種類とは少しズレますが、このリアリティはあの忌まわしい事件があってのこと。ただこの映画が他の崇高なる鬱映画となぜこうも不快なのか、僕は怒りを抑え十分に分析しました。
映画には監督や脚本家のメッセージがあります、それがどんなに間違っていてもあくまで『表現の一部』なので、基本的にはそれについて視聴者は文句を言う権利はないと思っています。それぞれの感想はあれど、その監督の心まで踏み込むことは出来ないと思います。世の中には色んな人がいるので…。ただ、この映画は実話を元に作られています。実際に被害を受けた子どもがいます。だからどんな意見があろうとこの子達は偲ばれるべきであり、尊ばれるべきである。それなのにこの映画の監督は母親にも苦悩があるなどと擁護する意見を述べていて、「悪いのは世の中だ」という妄想を掲げ、その上で映画の中では母親が子どもを手にかけても尚、同情を誘う演出をしている。これは絶対にしてはいけない表現だと僕は強く思った。どんな理由があっても大人が子どもを一方的に殺すというのはあってはなりません。閉じ込めて餓死させていい理由なんてどこにもないです。悪いのは別れた旦那でも世の中でもない、絶対に母親が悪である。たとえ映画の中でもこれは変えるべきではなかった、これだけは絶対に変えてはいけなかった。なぜなら映画には影響力がある、見る人にメッセージを受け取らせる力がある。それを自分のエゴで操作してはならない。仮に「児童虐待や育児放棄に対する警鐘」が目的であるのなら尚更やってはいけなかった。同情されるべきは絶対に子どもである。表現は自由だ、だからこそ守らなければならないルールがある。それはみんなが守り、大切にしているはずだと思っていた、だから僕は崇高なる『鬱映画』と呼ばれる作品のすべてが、こういった大きく間違ったタチの悪い糞エゴ映画と同じだと思われるのが本当に許せなかった。僕の怒りはずっと収まらないと思う。この映画を思い出すたびに中指を立てる自分が鏡に映るのを想像するだけで不愉快極まりない。でも僕のnoteを見て少しでもこの映画を見る人やおススメする人が減れば嬉しいなと思っています。

最後に
ここまで読んで頂いてありがとうございました。怒りのままに書いた文なので汚い部分もありました…それでも最後まで読んでくれたあなたを、僕は心の底から愛します。同じように思っていた方もいると思いますが、気分を害された方、本当にすみませんでした。そしてなにより2人の幼い命に心からお悔やみ申し上げます。


吉川れーじ


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