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餃子をめっきり作らなくなった

或時から餃子をめっきり作らなくなった。人生において別に大したことじゃあないんだけど、具はなんだ?調味料は?隠し味は?ああだこうだとかなりこだわりを持って作っていただけに、自分が気付いていないだけでもしかしたらとっても大切な行為だったかもしれない…。


存在しない町

ひとつ小説を書いた。白絲川しらいとがわという平凡な田舎町で起こる混沌の少年少女達の話だ。私小説と呼ぶにはフィクションが多いが、生まれ育った岡山の町を想いながら書いたが故に、我が故郷の言葉や、いき苦しさは間違いなくホンモノだと自負している。そこに編んだ心も決してフィクションではない。親愛なる人たち何人かに読んでほしいと頼み、いざその感想を待つとなると恐ろしくて仕方なかった。過去の自分の弱さや脆さを内包し、映し出した主人公が粗相をして、めいめいの口から、オレの心にまで「つまんない。」と言わせてしまうのではないか…と。
或人は、「あなたの心を覗いたような気がする。」と言い、田舎の閉塞感や町の独特な風習やそのディテールを大変褒めてくれた。嬉しいのは「白絲川の町が本当にあるのでは?と思い、調べたが見つからなかった。」と言ってくれて、僕はとても嬉しい気持ちだった。あぁ、この人の中に、この世に存在しない町“白絲川”を創造することが出来た。という感覚は、これまでnoteに書いてきた事で得られた感情とはまた違ったものを与えてくれた。
また或人は、「少年少女たちの青い心がそのままに書かれていて、そこに少年時代のまだトガッたあなたを見ることが出来た。」と言ってくれた。今の僕がきちんと人としての持つべきやわらかい心を持ち、丸く穏やかに見えていて嬉しい。それは決して平等ではない、僕にとって特別な人だからきっとそう見えている。こうしたやさしい人達の為だけに静かに祈る夜が訪れるたびに有り難い事だなと思う。祈りを捧げる相手が居る、というのは本来そうそう有るものではない。


枕上の信仰

祈りたくても、なにをどこにどう祈ればよいかわからぬままに項垂れる夜の苦しさを僕は知っている…もしこれを読むあなたが、そうしたどこへもやれない気持ちを背負しょいい苦しんでいるのなら、漠然とした“カミサマ”ではなく、あなたを思う友人や、あなたが大好きなアイスに祈ってみてほしい。(僕はアイスならViennetta一心狂いっしんきょうである。動物を飼うならビエネッタと名付けたいほどに。)誰かや何かの為に祈るその瞬間、苦しみの中で自己否定を繰り返し、目も当てられぬほど醜い自分に嫌気がさすその薄暗がりの中に、「あぁ…どうか…」とまだ他人を思い遣る“やわらかい心”がある事に気がつくはず。尊い近所のネコや、愛しいアニメのあの子も、どうか苦しまないで…悲しまないで…と祈るほど、人並みにやさしい自分を取り戻せる。その祈りの瞬間に、清く美しい自分が、落ちた涙の水たまりに写るはず。苦しみが消えるわけでも悲しみが薄れるわけでもない、けれどもその刹那に生かすべき己が居ることに気が付けば、来た道を引き返すことが出来る。首にベルトがかかる時、地球の重力が僕を引っ張って、足下に大きな黒い穴を開けたように感じた。思い切って椅子を蹴飛ばして仕舞えば、この足はもう二度と地面を踏むことなく、永遠に落っこちていくのが容易に想像できた。その恐ろしさと拮抗しるほど、僕らが生きる日常には苦しいことが時々ある。けれど僕らはまだ死の途中で、足早に去るのも決して悪くはないのだけれども、一心に美しい花だけを切ってきてもすぐに枯れてしまう。だから人は少しいて人生を馳せる。花は死の後でも良いんじゃあないだろうか。


あなたの好きな味

大阪に住んでいた頃、僕はただのコンビニ店員で、或日、観光客とみられる外国人の紳士に「キミの好きなアイスクリームはどれ?」と聞かれた。店員の思考で「あ〜これは日本ではポピュラーで〜…」とかなんとかカタコトの英語で返したら「いや、そうじゃないんだ。キミが好きなものを食べたいんだ。」と言われてやっと気が付いた。お会計を済ませた紳士は「キミはとてもキュートだよ。」とはなたれたウインクの星が、光のしっぽを引いてピュンと僕に飛んできた気がした。こういう愛情表現はとても素敵だと素直に感じた。あの頃の僕はまだ若くてそれを深く考える事は無かったが、多分大切な事だからちゃんと覚えていて、こうして今も背格好や容姿を思い出せるくらいには心に残っている。
“若さ”というのは色んな面を持っている。輝かしく眩しい希望も、この先必ず経験するであろう眼を開けど閉じれど暗い深淵も、どちらも同時に内包している。ジューシーな快活さも、スイートな青さもやわい心の薄皮に包まれている。僕が大阪に住むよりもっと前の幼い頃、世界はまだ岡山のあの田舎にしか無く、そこで起こることが宇宙の全てであった。歳を重ねるごとにその世界は徐々に大きくなり、やがて家の外がえらく恐ろしいものに映る様になった。そうして人とうまく関われなくなるまで疲弊しても、世界の拡張・膨張は絶好調に成長して、決して止まってはくれなかった。東京でひとりくらしてみて、連れ合いもおらず、陰鬱で何を見るでも無くただ目を開いてぼーっと過ごしていたあの日。朝陽が昇り、夕陽が沈み、月が浮かび、闇夜が呑み込む。その一日の中に自分の一生を見たように今となっては思う。孤独に亡びて行く寂しさや虚しさより、ただの一つも誰かの何の役にも立てなかったという、存在意義のない生命の浪費に対する申し訳なさが大きくまさってしまったのだ。今もまだ見え隠れするそれに怯えても仕方がない。それにそれすらどうでもいいと思えるほど、僕は今“祈り”で忙しいのだ。世界平和や地球規模でなんてデッカい雑多な祈りではない、最小単位の個から個への祈りだ。それは生命を捨て損なった僕ができる唯一の償いと、他のモノに思慮深く、敬意を払う生き方がカッコいいと思ったからだ。たとえそれが自己犠牲による自己満足だとしても、こんな自分が作る餃子を「美味しい」と言ってくれた貴女あなたが居たように、一日三食のうちの一食の間だけでも、僕がこの先永遠に手にする事のない幸せな家庭像を夢見ゆめみさせてくれた。それは僕の餃子が齎したのは明白な事実だが、もし仮に僕がひとり同じ様に餃子を作ることがあったとしても、もうあの餃子の様に特段美味しくはならないのだろうなと素直に感じている。それはあの時の僕が好きな味は“貴女の好きな味”だったからだ。ベターなことを言ってすまないが“愛情たっぷり”はなにより重要な隠し味だと全ての料理人と共に僕も思う。


転心

餃子を包む時、両の手は祈りの様にも見て取れる。そこに包む心は、食べる人を喜ばせたい一心である。それは料理だけに言える事ではない、社会を動かす全ての動作に言える。他のモノを想って、何かを創作つくるというのは、知的生命体である我々が亡くしてはいけない本当に尊い行為だと僕は思う。僕は文字を編むのも、音楽を作るのも下手っぴだが、自己表現の中でしか自分で自分を見出せない。非常に面倒くさい難儀で厄介者だと自分でも思う。人より劣っていて、ちゃんと賢くないから人の何倍も頭を使わなくちゃあならない。小さい頃から本当によく知恵熱を出していた。それでもコレらをやめられないのはある種呪いの様なモノで、ケータイもMacBookも鍵盤も叩けど叩けど、また別の新たな思考を生むばかりで、決して解放されることはないと分かっていても知っていても、どうしても叩かずにいられないのだ。不毛な大地に水を撒き続けたって仕方がないのに、限りある脳内のエナジーを痩せ細ったエレジーへと変換し、こうして祈りを文字や歌として編んでいる。それはただの自己開示であって、その他この世に数多ある創作の尊さには遥か及ばない。公衆トイレのラクガキと同等のものかもしれない。誰かの為になどと大言壮語を吐くつもりも毛頭ない。けれど、そうして生まれた文字や音楽が、時に未来の僕を正しく導くバイブルになる瞬間がある。過去の僕を宥め寝かし付ける絵本になる瞬間があるのも確かで、そうして編んだ祈りは誰でもない僕のための祈りだ。決してそこをはき違えてはいけない。誰かを想って祈るのは、他の誰でもない僕の為なのだ。ただもしのもし、万が一にでもコレまで編んできた祈りがコレを読むあなたの心に何かを齎したのなら、僕は今日死んだって全然へっちゃらで、本望どころか「なんて恵まれた人生だったろう」と、天国で亡くなった近所の猫とコーヒーでも飲んでゆっくり安心して過ごせる。


お眠り

もうすぐ春の風が吹く。東京はまだもう少し寒いらしい。広島、岡山、大阪に住む“健康優良不良少年”たちがどうか自由で溌剌に過ごしていてくれるように祈っている。愛知や富山のスペシャルなネッ友たちも、上原のかっちょイイ大人たちもそれぞれの顔を思い浮かべて祈れる夜が僕は本当に心から嬉しい…そうした親愛なる人たちの心よ、このかいなを枕に、どうかゆっくりとお眠りなさい…
鬱病の苦しみの中で富野由悠季が編んだ詩と共に…


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