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彼女が生きる世界を変えるために。|詩「痛みという踊り場で」

   痛みという踊り場で
                  文月悠光

痛みという踊り場で
私は安全装置になって
あなたが降りてくるのを待つ。

階段の上り下りがやめられなかった。
十一歳の冬のことだ。
授業の合間に、用もなく教室を出て
校舎の三階まで上っては一階へ下り、また同じ階段を上る。
密やかな達成に、私はやみつきになった。
それは どこに辿り着くこともない、
「自分」で在り続けるための儀式だった。
ひとたびやめたら、春の雪解けのように
積み重ねてきたものが崩れてしまう。
儀式の効果を持続させるため、
少しの食事と空腹で夜までを過ごした。
自分を完全にコントロールできている。
そう確信し、ひどく心地がよかった。

行きつ戻りつするこの運動には、階段を上った先には「下りる」、下りた先には「上る」というミッションが待ち受け、突き動かされる。次第に酔ったような感覚と速度に支配される。つま先に意識が集中し、無用な考えは削がれていく。
高波を一息で駆け上がり、
私は果敢に舟を漕ぐ。

舟を漕ぎ続けた私の身体は骨張って、あちこちに痣が開花した。教室の木の椅子は痛くてまともに座っていられず、こっそりと腰を浮かせ、授業中をやり過ごした。クラスメイトが駆け出す中、階段の途中でどうしても足が止まる。息を整える背中に、赤いランドセルがやけに重くのしかかる。いつしか儀式は、この身体を縛る呪いになっていた。

与えられたものを拒んで、
喘ぐような呼吸を繰り返した。
あの冬に私はすっかり老いてしまった。
あれから月日と共にまとった脂肪も、
大人になることを先延ばしにした自分自身も、
未だにどこか借りもののようだ。
抜け出せた、と思っていたけれど
私は今もあの階段に閉じ込められたまま、
世界をゆるすことができないでいる。

「痛みという踊り場で止まっている」
その言葉が長く気にかかっていた。
なぜ踊り場を去れずにいるのか。
あの頃、階段の踊り場で自分をキャッチしてくれる、
ストッパーのような存在が必要だったはず。
その存在に成り代わる安全装置として
私は今も踊り場に立っているのだ。
幼い自分を受け止めて、
彼女が生きる世界を変えるために。

老いた少女は、自分が食べられるものを注意深く選んで、
おそるおそる口にしはじめた。
本当に少しずつ、何年もかけて、
意固地なルールを解いていった。
「食べてもいいもの、食べられるもの」を選ぶことは、
外界をゆるし、受け入れることだった。
終わりの見えない「儀式」の出口を探していた。
階段を上り終えた後、ゆっくり振り返ってみたら?
階段を駆け下りて、そのまま外に飛び出したなら?

手が生み出す仕草を繰り返す。
言葉はプランクトンのように
空間を点滅しながら流れていく。
私の存在だけがそこに留まる。
たゆみない静かな心でその光景を眺めた。
たとえノイズに翻弄される人生でも、
踊るように生きられる気がした。

赤ん坊が抱く全能感にあこがれる。
そこに一歩でも近づけるかどうか。
この手が詩を書き連ねるうちに
私は何度か死んで 眠ってしまって
ゆうに百年の時が過ぎたようだった。

踊り場に佇んでいたら、
あなたが階段を降りてくるかもしれない。
そうか もう受け止めなくていい、
安全装置にならなくていい。
あなたは、私より
ほんの少し先の未来を知っていて
一緒に歩いてみない? と
私にかかとを合わせてくる。


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